図書新聞1954年8月14日『子どもの講談 少年ケニヤを語る』(山川惣治)

 今回は漫画ではなく絵物語の作者・山川惣治の話をします。
 どういう作家なのか、今はあまり語られることはない人になってしまいましたが、戦後の児童文化、だけじゃなくて娯楽文化を語る際には欠かせない人であります。まあ俺も実物、あまり読んだことないんですけど。
 図書新聞という、日本読書新聞と同じ系統の、本の紹介をする新聞形式の書評紙に掲載されたものです。対談です。

子どもの講談 少年ケニヤを語る
 
 産業経済新聞に連載中の山川惣治作・画の『少年ケニヤ』は、単行本としても、すでに七巻を重ね、子どもの間に異常な反響をよんでいるが、本紙では、今回、この作品が、どうしてこういう評判を得ているのか、また、一口に子どもの講談といわれるこの種の冒険活劇ものは、どういう点で批判されねばならないかを、児童文学研究者の滑川道夫氏と同書の作者山川惣治氏の対談という形で提供することにした。
 
出席者
成蹊学園小学部理事 滑川道夫氏
絵物語作家 山川惣治
 
巻を追って発展
模倣者ますます刺激的
 
滑川 山川さんの『少年ケニヤ』を読んで感心したのはね、いわゆる黒人というものの人間性を非常に尊重していらっしゃる。つまり今まで多く行われ、又現に行われている、活劇や冒険・探偵ものでは大抵黒人の犠牲において白人が勝利を得る----そういうものが多いんだけれども、あなたの本は土人を無暗に殺していないし、人間性尊重というようなものが感じられます。
山川 わたくしなりに、これはいいとか、いかんとかいう定義を自分で持っていますし、それに向かって一生懸命精進するわけです。しかし、一つの例として、ぼくの絵話が一番本当に受けたのは、例の『少年王者』ですが、あれが受けたとなると、たちまちに新聞雑誌にみな絵話が登場する。わたくし自身がそう沢山書けないので、じゃあというので、いきなり新人を引張って来るんですね。そうするといきおい競争になって、ものがいいとか悪いとかいうのではなく受けさせるためにはもっと凄くしたらいいんじゃないかということで、そのために無理ができる。そしてそれは決していい方向に向かない。
滑川 たしかにそういう傾向がありますね。つまり、あなたの作品というものは、非常に発展してきていると思うんですよ。『少年王者』『少年ケニヤ』と。しかも『少年ケニヤ』というのは、巻を追ってわたくし共の考えている正義の観念が現われてきている。ところがあなたを模ほうする作家が非常に刺激的になっているんですよ。
山川 そういう場合に、やっぱり実際書評をお書きになる方はいやになると思いますでしょうね。しかし、滑川先生やなんかが新聞やいろいろな機関を通じて、そういう批評を発表してくれますとね、反省することはずいぶんあります。いろいろ理屈はありますがね。
滑川 大いに出してもらいたいですね。
山川 よくいってるんですがね、しかしわたくしなどは両方の面があるんですね。大体ぼくは感謝してそうだと思うんですよ。現によまれている少年雑誌ですね、そういうものを特に対象にして繰返し繰返したたいてもなんでもいいから問題にしてもらうことですね。それがやはりなんといっても日本の児童ものが少しでも向上する道だと思いますね。
滑川 とにかく、あんまりひどいものが多過ぎるので、子供たちの代弁をしなければならんのじゃないかという気にもなっているわけなんですがね。
山川 そうなんでしょうね。ぼくらにいわせれば、やはり一番の問題は雑誌社の編集者の見識の問題だと思うんですよ。
滑川 一つにはね。
山川 ところが、見識とはいいながら、編集者が一つの見識をもっていても、結局売れなければ困るので、売るためにやる。あるいは、やらせられる。そうなると資本家の問題ということになりますかな。
滑川 そうそう、子供の興味の低い方へもって行く。そういう傾向はたしかに編集者に反省してもらわなければならないな。それでいて、あなたの書いているこの『銀星』の本なんか、一発もピストルなんか撃っていない。そういうものが十分子どもの興味をひいているという事実があるんですからね。
山川 これが少年雑誌に西部物がでたはじめてのものでしてね。“これで受けているのか、おれならピストルをバンバン撃てばもっと受ける”----まあそういうことになるんじゃないかと思いますね。
編集部 『少年王者』や『少年ケニヤ』がこんなに受けている理由をどうみられますか。滑川先生。
滑川 子どものこれを読む年令層というのは、中学生以上ですよ。四年生以上になるとやっぱり英雄を信仰するといいますか、英雄的な行動に憧れる時期ですね。そういう時にはこの主人公のワタルとか、女の子、土人のゼガのああいう行動に対して非常に憧れを持ちますからね。そういう衝動がこれで満足されるのではないでしょうかね。そういう心理が一つあると思いますね。
 それから、いろんな前世紀的な怪獣が大いに出てくるでしょう。相当調べて書かれていると思いますがね、そういう、やはり一つの活劇ですよ。そういう興味でしょうね、主に子どもが惹かれているのは。
少年ケニヤ』の持つストーリーの面白さ、これは山川さんのオリジナルでしょうね。つまり名作物語とか、なにかを翻訳したんじゃなくて、やっぱり創造的なものですね。
 
忙しい山川工場
監督のミスで右心臓
 
滑川 絵については、ぼくは不満があるんだ、小さい絵の方がちょっと粗末な感じがするんですよ。これは大量に印刷するから、印刷の効果という問題もあるんですが、黒人なんかの絵が特に醜悪な感じがする場面があるということなんですよ。やっぱり絵物語というのは、絵と文章と両方が合唱するような効果を狙わなければならんでしょう。
山川 それはまあそういうふうにやりますよ。一歩一歩築いてゆくんですね。
滑川 やっぱりそうですね。
山川 なにしろいそがしくって…。いまやっている仕事は十月号から始まる『明星』のもの、それから産経に毎日連さいの『少年ケニヤ』をいれると、結局七本です。全部話が違うんですから…。
滑川 そこで山川工場といわれる所以が出てくるんですね。
山川 そうなんです。しまいにはこんなに頼まれて、聞かなければならないが、どうしたら書くことができるか。それでぼくは、自分がそれをやるために、非常に画きなぐるよりは、ある程度のことは我慢しても外の人が誠実に画いてくれた方がいい。それでまあぼくは助手を使うことにしたんですがね。ぼく自身は一つ一つ参考書を調べて材料があるわけです。どんな小さな場面でも、その材料を集めて構想を練り、その構想図を鉛筆で画く、主要人物の顔とか体の動きというものは自分で画くんですが、あとは材料があるから、その材料によってこういうふうに仕上げてくれといって渡す。なおそれをぼくが丁寧に画くと、今画いている分の三分の一も書けないでしょうね。ぼくが画くとすると非常に雑な画になるわけです。ところがこの人達が画くと非常に丁寧にやってくれるが、自分の味という点がすっかり犠牲になるわけで、誠に作家としては申訳ない。しかしぼくとしては、今の急場を間に合わせるのにこれより他になかった。けれども不満はあるわけです。ぼく自身が全部かけば、ここはさっと抜いてかかない、ここはうんと、ちみつにかく、というところが、ぎゃくになったりすることもあるわけで、それは実に申訳ないことです。
 ただぼくとしては、バックをいい加減にシャッシャッと画くよりは、その人が非常に誠実に画いてくれれば、その方がいいと思ったんです。これは画家としては非常に辛いことです。なんといわれても仕方がないという一つの度胸ですね。(笑声)
滑川 いや、そこまで本音を吐かれたら、もうなにもいえなくなりますけれどもね、しかしそれをね、もちろんあなたが指導監督されていらっしゃるんでしょうが、例えば三巻かに、悪い黒人の心臓に槍が刺さる場面がある。ところが槍が右の肺の方に突き刺さっている。つまり、心臓は右の方にあることになる。文章を見ると心臓ということになっているんですね。ああいうのは、やっぱり神経をおつかいになった方がいい。それを画く人にもよるんですがね。
山川 それはわたしの方の全然間違いですね。それはぼくの監督のミスで申訳ないです。
滑川 それから山川さん、あなたの文章は非常に洗練されて来ていると思うんですが、あなたを真似する人達の文章というのは、ちょっとえげつないですね。昔の立川文庫調になったりね。やっぱり文章なんで、画の説明じゃないんでしょうからね。文章として独立したもので、絵でものをいい、文章でものをいって、両方でまたもう一つものをいうような構成が必要だと思うんですがね。そういう場合にね、あなたの『ケニヤ』の何巻かにあったと思いますが、「まさに風前の燈」というようないい方ですね、ああいうのや止めてもらいたいと思いますね、わたしは。
山川 なる程ね。研究します。
滑川 それからもう一つ、あなたのものばかりじゃなしに、こういうものは全部総ルビでしょう。ところが、木とか、山とか、石とか、子供の「子」とか、人とか、そういうものはいくらなんでもルビはすべきじゃないと思うんです。これは印刷上の技術もあるんでしょうけどね。
 そういう子供を甘やかすような抵抗なしに文章が読めるというのはいけないと思うんですよ。これはまあ出版の方の問題ですが、出版社側に対して啓蒙して欲しいと思いますね。
 
強い知識人の不信
漫画はオヤツとして…
 
滑川 最近の山川さんのものは、一般に薦めてもいいと思うんですが、一般的にいえば、まだまだこういうものに対する知識人の不信というものは、相当に根強いと思いますよ。
山川 そうですよ。こういうものばかり読んで困りますというんですね。
滑川 だから漫画のおやつ論というのを唱えて相当反響を呼びましたが、やはりおやつ程度ですね。その外にやっぱり偉人とか天才の伝記とか、自然科学的のものとか、人文科学的なものも読んでもらいたいし、いろいろ子どもには読んでもらいたいですよ。特に基礎教育の時代ですからね。そういうもののバランスの問題なんです。いろいろ読んでおれば、非科学的なことは子どもにはすぐ分るんですからね。
編集部 その科学性という点からみたら、この本はどうですか。
滑川 それは科学的じゃないと思いますね。たとえば光が出て来て、豹かなんかが忽ち骨になってしまうところがあるんですよ。ぼくはそういうことはないと思うんです。ただ、非合理的な点があっても、これは読みものとして、こういう話だと思って受取ったらいいんじゃないですか。
山川 前世紀の怪物が今ごろ出て来ることがないんでね。こういうのが、昔いたことがあったんだという、それだけのことですね。このことをもって科学的だといわないですよ。非常に非科学的なものです。これはぼく自身が認めることです。しかし、その時少くともブロントザウルス、ティラノザウルスとか、そういうことを子どもが結構覚えて喜ぶんです。もともとああいうのは小さい子どもにはなかなか覚えられないですが、ああいうのを読んでいて、覚えたことが大人になってひょっと出て来るんですね。それだけでも何か役に立つんじゃないかと思いますね。
滑川 そうそう、そういうものが出ていいと思うんです。ところで、これは本当に山川さんにお願いしたいんですがね……まず、ワニが出て来て、それを逃れて底なしの沼に行くと、河馬が出て来るとか、へびが出て来るとか、次々に出て来るのですが、そういう中でも、文章で淡々となにか子どもに考えさせるような場面ね、そういうものが欲しいと思います。そういうものの連続じゃなしに、二か所でも三か所でも、たとえ一か所でもいいんですがね、それがやっぱり文章の力だと思うんです。絵も、同じような大きさの絵が並んで、同じようなスペースの文章があるんじゃなくて、ある時は絵がなくて一頁全部文章であるような、それでも子どもに興味を感じさせ、ひきつけるようなね。
 
避けたい“悪事の手段”
出来ぬのは作家の敗北
 
山川 ぼくが、これからやることは、仕事は一生懸命にやるけれども、少しの時間でも割いてものを学ぶことです。それだけです。一作ごとに、出す一方です。だからのべつ補給しなければならない。しかしただ補給することじゃなくて、本当に基本的ななにかを補給しなければならぬ。だからぼくは非常に貪欲になろうと思う。その意味でぼくはなんでもあらゆるものを直ぐ摂取して使う。余りいい例じゃありませんが、ストリップがはやると、やっぱり一ぺん行って、見ておく。それも子どものすんでいる社会の一部ですから。どんな悪でも一応見ておく。
滑川 その山川さんのいう悪事を書いてもね、例えば物を盗むとか人を殺すとかということを、その殺す手段を喜々として説明することはいけないと思いますよ。そういうことは非常に子どもに行動的に影響を与えると思いますね。例えば人の家に泥棒に入るといってもその侵入する手段を詳しく書く、そういうのはいけないんじゃないかと思うんですがね。それは避けることですね。避けて興味がつかないというのは、それは作家として敗北だと思うんです。やっぱりそういう場面を使わないとしても効果はあがるはずです。
編集部 広い読者をつかんでしまったということは、大変な強味ですね。
滑川 そうですよ。
山川 ぼくはそういうファンをつかんだということに、非常に責任を感じていますよ。本当にこれから勉強しますよ。ぼくはいつもそう思っています。

「そう」とか「そのような」とか、漠然とした代名詞っぽいものが多くて、ちょっとまとまり悪いですが、もう少し編集すると話の内容は面白いので、何とかなったんじゃないかなと思いました。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』抜粋(1955.2.15)

 ということで、今日は手塚治虫が言及している(悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想(『ぼくはマンガ家』から))、

“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、
「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突然死という概念に慣らしているからである」
 と言うのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやり方であった。

 このA.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』の話をします。
 しかし、この本が1955年当時の「悪書追放運動」にどのような影響を与えたかは、皆目わかりません
 なぜなら、A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』に関する話をしているのは、今まで読んだテキストの中では手塚治虫のテキストだけなんです
 邦訳が刊行されたのは、奥付によると1955年2月15日、多分2月のはじめぐらいなんで、ここまで無視されるのがおかしいぐらいのテキストなんですけどね。
 ちなみに、原文は英語だったら全文読めます
Shunpiking History WAR ON THE MIND ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 内容そのものは、副題が示している通り、米ソ冷戦時代の子供に関する興味深いテキストで、別に漫画・悪書のことに限定したものではないんですが、手塚治虫が紹介しているテキストがあるっぽい第5章を紹介しておきます。
 英文テキストはこちら。
Shunpiking History V. NIAGARA OF HORROR ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 アメリカのほうでも同時期に同じような悪書追放運動がありましたが、まあそれは「ワーサム(フレデリック・ワーサム)」とかで検索してみてください。
 ということで、
The Game of Death: Effects of the Cold War on Our Children (1953)
A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』1955.2.15 小宮一郎・訳 理論社 p103-128

第五章 恐怖のナイヤガラ
 
われわれの文化においては、子供を堕落させることが一つの企業になっている。
ガーソン・レグマン「子供に与えるな」より
 
一 殺せ、殺せ、殺せ!
 
 一九五二年、一月二三日のライフ誌は、作家になってまだ五年しかたたないのに、アメリカの他のどの作家より広く読まれていると思われる若いアメリカ作家の驚異的な経歴を特種記事として掲載した。この作家はミッキイ・スピレーンという探偵小説作家である。ライフ誌によると、スピレーンの「性と殺人を扱った六冊の本は一三〇〇万部以上売られている」
 いみじくも「死の金髪の男」と題されたライフ誌の記事はつぎのように述べている。全部で四十八人の人間が、そのうちには「犯罪人」も含まれるが、今日までにスピレーンの小説のおかげで堕落してしまっている。このような急激な堕落に匹敵するものは、数の上から言ってかれの小説の主人公である「残忍な刑事マイク・ハマー」によって堕落させられたか、あるいは自ら堕落した「婦人のリスト」だけである。このスピレーン小説の主人公の功績についてライフ誌はつぎのように説明している。

 荒っぽい治安判事を自任するマイクが一九四七年に『私は陪審員』(注:邦題『裁くのは俺だ」)に初めて登場して以来、彼はニューヨークを洗いきよめようとしている。この小説で、彼は、女友達の精神病医が彼の親友を殺したことを発見する。激怒したマイクは全裸の彼女の腹部にピストルをうちこむ。……次は『俺のピストルは素速いぞ』(注:邦題『俺の拳銃は素早い』)で、マイクは悪漢を燃え上る家の中に追いつめ、焼け死のうとする中で冷静にも悪漢をピストルで殺す。最近の『燃える接吻を』(注:邦題 『燃える接吻』)では、マイクは片眼で他の悪漢のうごきをみながら悪漢の一人をもう一方の眼でうちころす。

『ある淋しい夜』(注:邦題『寂しい夜の出来事』)では、この最新式の探偵はアメリカにおける『赤の脅威』にたいして強烈なる一人十字軍をやっている。過激な市民を追跡する単純な方法を次のようにハマーは提案する。

「やつらには突然の死の味を味わせろ。やつらをとっつかまえて、逃れ道のない道に、案内してやれ。そうすれば腐った精神をもったうじ虫どもも観念するだろう。死というものはおかしなものだ。人は死を恐れる。片端しからやつらを殺せ。われわれがそれほど意気地なしではないことを示してやれ。殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!

 ライフ誌に載ったミッキイ・スピレーンの伝記資料によると、彼は「性とサディズム」の文学形式を発展させるために理想的修行をへて来た。探偵作家になる前のスピレーンは、漫画物語りの作家であったのである。(註)

(註)漫画物語りを卒業して探偵小説にうつっても、スピレーンは彼の読物を青年の中にうしなわぬであろう。スピレーンの小説は大人と同様、数えきれぬほどの十代の熱烈な愛読者を獲得している。アメリカ軍隊内におけるスピレーンの非常な流行について、ライフ誌のしるすところによると、「フランクフルトでは、スピレーンの売れ行きが非常なものなので、軍隊内の好ましからぬ読書傾向が表沙汰にならないようにと、司令官は実際の数字を発表するのを拒否した。」数十万のアメリカ青年は程なくスピレーンの小説の映画化にお目にかかるであろう。現在かれの六つの作品が、ある映画会社によって製作されている。この会社は、約二五万ドルを権利金としてスピレーンに支払うことになっている。

「漫画物語り出版企業は、第二次大戦後、いまではアメリカの雑誌のうちで最大の発行部数を獲得するに至った」と一九五一年のニューヨーク州議会の調査は報告している。
 一九五二年には、一億以上の漫画の本が毎月アメリカで売られた。----一年間ではゆうに十億部以上に達した。
 アメリカの子供の九八パーセントが、漫画本の定期購読者であって、平均一人の子供が一ヵ月に二〇冊から二五冊の漫画を読んでいるといろいろの調査で指摘されている。(註)

(註)最近レディス・ホーム・ジャーナル誌によって全国的に子供の調査をしたところ、州知事の名前を答えたものはわずかに五〇%であった。大統領の名前の答えられたのは九三%であった。ところがディック・トレイシイという漫画の主人公になると、九七%の子供が答えている。
 漫画本の読者はもちろん子供だけとは限らない。およそ五〇〇〇万の大人の読者がいると考えられる。

 クイーンズ・ジェネラル病院の精神衛生科の部長でニューヨーク・クエイカーの応急施設のラファージ病院の院長であるフレデリック・ウェアサム博士の言葉によると、

 漫画本は歴史上最大の出版の成功であり、子供たちにたいして最大の影響をあたえている。

 しかも漫画本の影響は冷い戦争の必要によく合致している。なぜならば、それらは何百万というアメリカの子供たちを、暴力、蛮行、突然の死という概念に慣らしているからである……。
「漫画本(コミック・ブック)」という名称は正しくない。漫画の本の圧倒的大多数は、ユーモラスな性格などはほとんど持っておらず、暴行、殺人、性的倒錯とサディズムと身の毛もよだつ冒険、犯罪、残忍性と血もこおる恐怖にみたされている。けばけばしい色彩で安っぽく描かれ、パルプ紙に雑誌大に安印刷されて、一部一〇セントで売られるこれらの出版物は醜悪と野獣性のとめどない奔流となってアメリカの子供たちの心をのみこんでいる。それらは人間を極悪な堕落者にえがき、筋骨隆々とした「超人」のリンチ行為を美化し、力と暴力の使用をほめそやし、死の苦しみを頓着ない日常茶飯の事としている。(註)

(註)犯罪、暴力漫画の主人公は超人的探偵、超人的警官、超人的カウボーイその他もろもろの超人であるのが普通である。主人公は、自然と人間の法則を無視しながら、一切の法をその手ににぎって、シカゴ・デーリイ・ニューズのスターリング・ノースの表現のごとく「頭巾をかぶった正義」をおこなっている。「暗黒の騎士」「キャプテン・アメリカ」「キャプテン真夜中」「ロケット・マン」「驚異人間」などという名前の主人公は、もっとも力の強い人間がもっとも高貴な人間であるという漫画の中心テーマを象徴している。しかもごていねいなことに、大抵の超人たちは、特別の神秘的な徽章のついたナチスの突撃隊ばりの制服を着用におよんでいる。
「指導者」の原理と力の賛美をこのように強調することの必然的結果は、漫画の中にあらわれた文化と学問にたいする嘲笑となっている。それゆえ、常套的登場人物は世界の破壊をたくらむ気狂い科学者や、髪を長くした気のふれた知識人となってあらわれる。

『子供に与えるな』と題する漫画の本についての辛辣なエッセイで、ガーソン・レグマンは一九四九年に述べている。「かりに一ページに一枚の暴力的さしえがあるとして----普通はこれ以上であるが----絵のわかる年令になった子供が一ヵ月あるいは一〇日に漫画の本を一回読むとしても、最低三百のなぐりあい、ピストルのうちあい、絞め殺し、苦悶と流血の光景を提供している……。このようにくりかえしてゆけば、子供になんでも教えることができる。……と同時に暴力は英雄的行為であり、殺人は熱のこもったスリルであるということを子供に教えるためにも利用されている」
 一九五一年に九二冊の漫画の本を分析したところ、つぎのような内容が報告されている。

大犯罪…216。サディスト的行為…86。小犯罪…309。反社会的行為…287。卑俗行為…186。肉体的障害…522。詳細な殺人の技術…14。

 つぎのようなものは漫画の本では普通にみられるところだ。焼きゴテで胸を焼かれる婦人。野獣の中に放りこまれたり、撃ち殺ろされたり、絞め殺されたり、火傷で死んだりする人々。両手を切断されたり、歯を引き抜かれたり、両眼に針をさされたりする人。
 典型的な物語りがクライム・サスペンス・ストーリー誌の一九五二年の六月〜七月号に掲載された。それは、ある医学校の教授が妻を殺して、証拠湮滅のため死体を切断し、そのあと、学生の解剖用においてある実験室の他の死体の中に一緒につるしてしまう物語りである。教授が妻を絞殺する場面を生ま生ましく描いた絵にはつぎの説明が読まれる。

「どれだけ長くたたかったか知らない。しかし不吉な静けさが私を冷静にさせる。彼女の肉体はぐったりとしている。眼はくびの廻りをしめつける私の指の圧力でとびだしている。台所用ナイフできざんでしまえば、彼女ということを全く湮滅できる。そうして、歯を引き抜き、宝石や着物をはいでしまえば妻だということは全然判らない。」

 つぎにおよそ五百の漫画本の代表的表題を示そう。大体が月刊で、現在アメリカの子供の読んでいるものである。

 恐怖への冒険。有名犯罪。実話犯罪。実話警察事件。ブラック・マジック。気を付けろ--恐怖。犯罪漫画。犯罪診療所。犯罪神秘。犯罪緊張物語。暗黒の神秘。デッド・エンド犯罪物語。妖怪。有名ギャング。ギャング・バスター。銃煙。恐怖の巣窟。恐怖への旅。無法者。殺人鬼ギャング。完全犯罪。迷宮犯罪。感化院の少女たち。地下室からの話。恐怖の墓。スリル犯罪事件。警察漫画。警察の列。驚異物語。神秘の蜘蛛の巣。運命の幻想。運命のスリラー。恐怖の世界。

 漫画のうちもっぱら戦争を扱ったものの数もどんどん増えてきている。例えば----

 原子力時代戦争。戦場の男。原子戦。戦場のわが軍。戦闘行為。スパイ事件。戦場の叫び。スパイ戦。戦場便り。スパイ狩り。戦争物語。これが戦争だ。戦線。アメリカ落下傘部隊。作戦部隊。アメリカ戦車隊。戦う海兵隊。戦争の冒険。戦争物語。戦争漫画。戦争の英雄。GIジョー。戦線の若者。

 大部分を朝鮮戦争に取材した狂暴な血なまぐさい戦争や、破壊的空襲、白兵戦を内容とした戦争漫画には、獣のような形相をした中国兵や北鮮兵の頭を、ライフル銃の台尻で粉砕しているものすごい顔をしたアメリカ兵の絵や、手榴弾で相手をふきとばしたり、機関銃や銃剣や火焔放射気で殺戮している絵がみちみちている。『戦線』の一九五二年八月号にのった典型的な表紙には、アメリカ兵が北鮮兵の腹部に銃剣を突き刺している絵が描かれ、つぎの説明の文句がみられる。「俺か敵かのどちらかがこうなるのだ。俺は前にとびこんだ。冷い鋼鉄の銃剣に敵の胃袋の破裂するのを感じた」この『戦線』の巻頭言にはつぎのようにかかれている。

 真実を知れ! 生きた戦争の現実をみよ。激烈な戦争が迫るごとく一ページ毎にスリルが爆発している……。
 戦闘の歴史! 恐怖と緊張の瞬間にあふれた栄光と血の塊りの物語り……。
 きつね穴の勇気、一発の砲弾毎に死は金切声で叫ぶ。
 真実。行動。歴史。勇気。スリル。緊張。活劇が『戦線』の中で展開される。

 漫画を通じて全国の子供の感じ易い心の中に大規模に詰め込まれているのは、このような堕落した人間と戦争の映像である。
「世界の歴史において、このような文学が、特に子供のための文学が、かつて存在したことはない」とガーソン・レグマンは述べている。(註)

(註)すべての漫画が犯罪、性、腐敗、戦争をあつかっているわけではない。聖書や文学古典に取材したものもある。また動物が主人公の漫画もある。しかしほとんど例外なく動物漫画はサディズムと暴力でみたされている。古典に取材した漫画でも恐ろしい。残酷なエピソードに重点をおいている。
 進歩的性格をもった漫画もいくつかあるが、これらは差別とたたかうことの重要なこととか、そのほか民主的概念を強調している。しかし、こうした漫画の数は、恐怖や犯罪、戦争の漫画にくらべると微々たるものである。
 漫画を建設的教育の目的に使用している例として全米電機ラジオ機械工労働組合で発行している『チャッグ・チャッグ』がある。これは労働組合運動が個々の家庭および社会全般にもたらした利益を絵入りで子供のために解説したものである。ところで一九五三年のはじめにマサチューセッツ州議会でエドモンド・J・ドンラン議員は『チャッグ・チャッグ』を「容共的」だと攻撃し、発行者の組織は、「階級憎悪の宣伝」を拡げているから審査せねばならないと主張した。これは時代の風潮を象徴するにふさわしい。

 ますます多くのアメリカ人が子供たちにたいする漫画本の有害な影響について、大きな関心を示してきている。あるところでは市民が犯罪や戦争、恐怖をえがいた漫画本を新聞販売所が取扱うのに反対して、不買同盟を組織した。いくつかの町では新聞販売所自ら、「犯罪を謳歌する漫画本」を自発的に禁止した。与論の圧力によって、漫画本の検閲を要求する法律がいくつかの州議会に提出された。
 上院特別委員会によって一九五二年の冬にワシントンで開かれた公聴会で、牧師、教育家、児童問題専門家、公職者たちは、「漫画本は子供の心を害し、潜在的麻薬吸飲の手引にもなり、実際に犯罪を青年が犯す場合の青写真にもなる」といって、強く漫画本を非難した。証言者の中には、強盗を働いてガソリンスタンドの給油係りを刺し殺してミシガンで死刑に附されている一七才の息子の母親もいた。漫画本は禁止せよ、と主張しながら、この母親は息子について、つぎのように証言した。

 あの子はいつも良い子でした。人と争ったこともありませんでした。ところがこんなものを読み始めました。……見つけ次第買いこみました。……床に横になって漫画を読んでいるか、天井を見つめるようになりました。……あんまりこれらの漫画の刺戟が強かったので、夢にうなされるようになりました。本に書かれている与太者のようなしゃべり方をするようになりました。おかげで酒も飲み始めました。……こんな本に取りつかれるまでは、本当に良い子供でしたが。……

 しかしある人々は、漫画本は子供に有害であると熱心に反対しないばかりか、漫画本に積極的価値をさえみいだしている。いく人かの児童心理学者や精神衛生学者は----かれらの意見は、かれらが雇われている漫画出版者に積極的影響を与えている----漫画本は、子供らの生れつきの侵略性を開放させる」すぐれた媒介者であり、「幻想の世界に心のうちの敵意を放出する」に役立つと主張している。
 この考え方を反映して、アメリカ児童教育研究協会の幹部で『子供のための本とラジオにかんする教育連合』のメンバーのジョゼット・フランクは『漫画、ラジオ、映画と子供』という小冊子につぎのようにかいている。

 多数の漫画本が犯罪をあつかっていたり、少くとも一、二種類の暴力をあつかっている事実は、子供も含めた多数の人のもっている犯罪又は暴力について読みたいという欲望を反映しているものである。これは新しいことではない。いつの時代でも偉大な文学には、暴力的行為が沢山ふくまれている。このことは、その時代々々において、人々の内心の深い欲望を反映したのである。将来においてもまたそうなるであろう。

 漫画の出版社自身は----この企業は一年に一千万ドルも利益を上げている----当然のことながら、かれらの出版物のもっとも熱心な擁護者である。
 かれらに言わせると、漫画本は国内にあって冷い戦争の道徳を維持する上で大きな愛国的役割を果しているばかりでなく、外国にたいして「アメリカ的生活様式」を知らせる上で生き生きとした役割を果していると言う。その出版社の一つであるレヴレット・グリーンソン社は、一九五一年の秋に、「国務省は特別冒険物語でロシヤの子供を洗脳してやるため、漫画本を大量にロシヤの子供に注ぎこむべきである」と主張した。(註)

(註)しかしながら外国の市民はかれらの子供らがアメリカ漫画の氾らんの中に生活することを決してのぞんではいない。
 二四ヵ国の代表が集ってユネスコ主催のもとにイタリーで開かれた最近の会議では、「流血と性」の漫画のために青少年が犯罪をおかしたり、潜在的犯罪者に変ってきていること、このため「発育成長過程の子供たちに有害な影響をおよぼしがちな」出版物の禁止を各国政府に訴えるため、国際的機関が設置されねばならないと論じられている。スエーデンでは「残虐な内容をもち子供の道徳的発育に危害をおよぼす」子供のための出版物を禁止する法律が作られた。英国では、「有害、残虐的で人類的偏見を助長したり、野蛮な犯罪的残虐行為を賛美する」アメリカ漫画の販売を政府で禁止しなければならないと教師や父兄たちが要求している。
「こうした漫画はヒットラーがドイツの青少年に教えこもうとした主題と全く一致してはいないか。その結果はどうなったか、すでにはっきりしているところではないか」これはカナダのトロントの教育局でのべられた漫画に対する意見である。カナダでは多くの地方で、犯罪、暴力、性をあつかった漫画は法律によって禁止されている。
 レヴレット・グリーゾンがいくら強調したところで、ソ同盟の両親や子供たちがアメリカ漫画を歓迎するとはとても考えられない。この点については、最近ソ同盟を訪れたイギリスの著名な作家のジェイムス・アルドリッジがソ同盟の青少年文学について語った言葉を引用しておこう。「私は特に児童文学に興味をおぼえ、数百冊に眼をとおした。しかしただの一冊でも、暴力に少しでもふれたものはなかった。人間の尊厳、愛国心、教養、他の人間にたいする親切以外のものを強調した本は一冊もなかった」

 有名な精神衛生学者のフレデリックワーサム博士の意見によると、漫画本出版社は「かれらの出版物の人物たち」に似ており「脅迫者のような心をもっている」。漫画の子供に与える影響について、かれ自身の病院における観察にもとづいて数年間詳細な研究をおこなったワーサム博士は次のように報告している。

 ……漫画の影響を研究すると、未成年者の犯罪に関する典拠ある一つの根本原因に到達する。もし漫画の病原体的影響を考慮にいれなければ、現今の未成年者犯罪を理解することはできない。
 ……漫画の本はあわれみや、残酷とか暴力にたいして、あらゆる世代を免疫にしている。(註)

(註)一九四九年のカナダ下院における演説の中で、E・D・フルトンは合衆国刑務局長ジェイムス・ベネットの「ある刑務所に一人の少年がいるが、この少年は漫画本でよんだ通りをまねて児童誘拐を犯した」という言葉を引用し、さらに一九四八年の秋カナダでおこった十二才と十三才の少年の殺人事件の例をあげている。
「この二少年の公判で、少年の心が犯罪漫画の影響に全くおかされていることが判明した。一人の少年は一週間に五〇冊の漫画をよんでおり、他の一人も三〇冊を読んでいたことを申し立ててている。」さらにフルトンのあげた例では「モントリオールで十二才の少年が睡眠中の母親を殴り殺しているが、この子供も漫画でこのようなことを読んだのだと言っている。ロスアンゼルスでは十四才の少年が五十才の老婆を毒殺したが、この子も漫画の暗示をうけており、さらに毒薬の処方まで漫画から学んでいた。また同じくロスアンゼルスで、十三才の少年がガレージの中で首をつって死んでいたが、その足もとには同じ首つりの絵がかかれた漫画が開かれてあった。」
 もちろん、アメリカの青少年犯罪の増加が漫画の影響のみによると言うことはできない。漫画の与えている影響は、テレビやラジオ・映画がおよぼしている同じような影響の一部分である。さらにまたこれらは冷い戦争のもたらした犯罪と腐敗、残虐行為とシニシズムのなかで考えられねばならぬものである。

 さらに博士はつけ加えて、

 半分はナチの突撃隊みたいな、半分は盲目的勇気を持った大砲のえじきになる兵隊の世代を望むならば、漫画は役に立つ。事実、完全でさえある。

 この意見に反応するかのごとくガーソン・レグマンも観察している。

 意図はどうあれ、結果からみれば、二千万の未成年の世代、引金をひかないだけのことで、何千回となく殺人の昂奮と激情を感得している世代を育てあげているのだ。そして本の裏に広告されたおもちゃの鉄砲----かんしゃく玉鉄砲、B-Bライフル、……二丁拳銃、旋回トミー銃、六インチのキャノン、一フィート半の光を放射する殺人光線----が足りないものを補充している。これは精神にたいする一般軍事訓練である。

 
二 流血と砲声
 
 アメリカにおいて漫画本はじつにたくさん発行されているが、子供にあたえる影響の程度において、これに匹敵する、そしてこれよりももっと新しく発達したマス・コミュニケイションの媒体はテレビジョンである。
 一九五二年末までにテレビのある過程は、二千百万戸以上に達した。
「テレビジョンは自動車の出現以来の影響を国民の習慣にあたえている」とニューヨーク・タイムズ紙のラジオ・テレビ担当のジャック・ゴウルドは言っている。かれによると、テレビは「公衆が余暇をついやす仕方、政治を感じたりおこなう仕方、どの位読書するかということ、どれだけ子供のしつけを考えているかということ」にたいしてはかり知れない深刻な影響を与えている。
 アメリカの子供をしつける上でテレビのあたえる影響がどんなものであるかは、ダラス・スミス博士----教育放送全国協会の研究部長----の皮肉な批評からうかがえるであろう----

 ハリウッド映画の典型的テーマは「男と女」Boy meets Girlであるがテレビの典型的テーマは「男と肉体」Boy meets Bodyである----それもむごたらしい死体が普通である。

 一九五一年の一月と、一九五二年の一月の二回、スミス博士は、ニューヨーク市の一週間のテレビ番組の研究を指導した。かれは、市のテレビ放送局一つ一つについて全番組を分類した。とくに子供のために割当てられた番組全部のうちで、八%が「教育放送」の部類に入り、六〇%が「ドラマ」の範疇に入っていた。後者について、スミス博士は、「ドラマ番組のうちで一番多いものは犯罪ドラマであった」と報じている。
 太平洋沿岸地方でおこなわれた同様な調査の結果が、ハリウッドでだされているTVマガジン誌の一九五一年六月号に注目すべき記事として掲載された。その雑誌の編集長フランク・オームの書いたその記事は、ロスアンゼルス市における子供向テレビ番組の一週間の要約がのっている。
 それによると「七つのロスアンゼルス市の放送局によって、千ちかい犯罪ものが、一九五一年五月の第一週に子供向テレビとして放送された。」調査の結果のうち若干を示すと----

 スポンサーや放送局は、この地域のテレビの定期聴視者である一二歳以下の八〇万以上の子供たちの注意をひきつけるために、殺人や傷害、苦悶をうす気味悪く、くわしくみせている。
 これらの子供たちには、アメリカの男性の典型は、人生のすべての問題を固い拳や六連発のピストルで解決する、力の強い、引金気狂いの馬鹿者であるかのように印象づけられている。
 テレビ番組の七〇%は犯罪ものであり、全番組のうちで暴力行為の写った八二%は、子供向番組のなかでおこなわれている。

 子供番組にかんする特徴的エピソードとして、オームの記事にはつぎのようなことがのっている。

 一人の男が金切声を上げて燃えている穴の中に落ちてゆく。
 縛られた男がごく近距離から射ち殺される。
 少女がギャングに射殺される。
 一六才の若者が街の銃撃戦に参加する。かれは一人を射ち殺し、喜びの微笑をもらし、また別の男を射つ。
 ギャングがある男の足を焼いてその男を苦しめる。男は汗を流し金切声で悲鳴を上げる。
 一人の老人がむごたらしく殺され、小さな孫娘が老人にとりすがっている。
 殺人者が嫉妬から少女を殺す。カメラはふるえる彼女の手を大写しにし、それから船室の壁に沿ってゆっくりと崩れてゆくところを大写しにする。

 青少年の教化のためにそのようなテレビ番組を独占しているのがロスアンゼルスやニューヨークだけではないことは、一九五二年のクリスマスの季節に、ジャック・マブレイによっておこなわれた調査に示されている。かれはシカゴ・デーリイ・ニューズ紙のテレビ欄担当記者である。つぎにあるのはマブレイの記事のいくつかの見出しである。

 子供向けテレビ日曜特別番組。殺人事件だ----四日間で七七件の人殺し----毒殺、鉄拳の乱闘、児童誘拐者が未成年者を血の湯槽にひたす。
 テレビが子供にあたえる犯罪の恐ろしい餌----恐るべき統計、四つのテレビ放送局は一年間に二五〇〇種の犯罪を子供にあたえている----親たちは驚く、暴力がすべてを制する。
 テレビの馬鹿さわぎを親たちはどうして防ぐか----人殺ろしや誘拐やピストルの暴力に酔っぱらっているやつにパンチを喰わせろ。
 テレビは一週に九三の人殺しをする----一三四の番組に二九三の犯罪がおりこまれている。

 全国を通じて、このような気味の悪い番組は、子供向けのテレビ放送にだけ限ったことではなく、それが普通になっているのである。毎時毎分また毎日毎日、数百万のアメリカの家庭において、数えきれぬ程の子供たちが催眠術にかかったように、目を丸くしてテレビの画面に見入っている。その画面では、暴力と流血と残虐と犯罪の場面がいつ果てるともなく連続してなまなましく演じられている。巧みなテレビの技術を通じて、殺人と傷害はアメリカの家庭生活の普通の構成要素となってしまったのだ。
「このマス・コミュニケーションの媒体が若い世代にたいして、時間を浪費する強い影響をあたえていることは、いろいろの調査に示されている。これらの調査によると、五才から六才の子供もきまった聴視者であり、一日に、四時間からそれ以上もテレビを見ることがしばしばある。七才から一七才までの生徒の間では、平均日に三時間で、なかには、教室ですごす時間に殆ど匹敵する一週二七時間もテレビをながめているものもある。テレビの犯罪恐怖番組が子供の影響にあたえる影響はますます多くなっており、親たちや教師、医者の大きな心配の源になっている」これは最近のジャーナル・オブ・アメリカン・メディカル・アソシエイション誌の社説の言葉である。
 アメリカで現在テレビをみている二千万以上の子供たちを犯している害がどのくらい大きいかということは、ヴァラエティ誌の一九五一年七月十一日号によって暗示されている。テレビの犯罪もの番組をとりあつかったこの記事は、テレビ番組とナチ支配下の文化のタイプとを比較した有名な教育者たちの意見を引用していた。ドイツ国民が「文学、映画、劇に残虐行為がたえずおりこまれることによって、次第にそれを受け入れるように慣らされていった」ことを想起しながら、その教育者はつぎのように指摘している。「一つ一つのテレビのサスペンス物語りが、ますます血にうえたものになるにつれ、また人殺しがますます多くなり、偏執狂じみたものになって行くにつれ、テレビをみるものはだんだんにこれらの錯乱行為をうけいれるようになる。そうして眼の玉をえぐるような堕落した殺人事件を毎日みている未成年者は、戦争の残虐性にたやすくおどろかされたり、それに抗議するようなことはなくなるであろう」
 だが一方において、ある人々にとっては、このような状態は、全く役に立つものと考えられているのである。ロスアンゼルス・ヘラルド・エクスプレス紙のラジオ・テレビ欄担当のオウエン・カリンの言葉によると----

 犯罪と暴力を伴った殆どすべての番組が「立派な」成功を収めていることは記憶されねばならぬ。生活それ自身はバラの床ではない。若ものたちが成長したときに直面するであろう事物を、早くから知らされることは、ためになることであろう。若いうちに徐々に慣らされていなかったならば、ある犯罪や暴力について知ったときにもっとひどいショックをうけるかもしれない時まで、かれらを保護してやる理由が何処にあるのか。そうして結局のところ、朝鮮にでも送られねばならないとすれば、そのときにはかれらが直面することに少くともある知識をもっているということは、かれらにとって有益無害ではなかろうか。

 将来戦場において「直面する事物についてのある知識」を青年にさずけるように、犯罪と暴力の行為に青年を慣れさせるということになると、ラジオは明らかにテレビよりも不利である。強盗や拷問、暴行、殺人の眼にみえる演技は、単なる言葉や音響効果によってそうした現象を再現しようとするよりも、当然、もっと正確でなまなましい。このハンディキャップを自覚して、ラジオ・ドラマの製作者は熱心にその欠陥を補おうとして、血も凍る叫び声や突然の射ち合い、狂った笑い声、暴発の大音響、拷問に苦しむあえぎ声や、うめき声といったすべてを利用している。いくつかのラジオ放送では、悪魔の笑い声や機関銃の銃撃の音響を始めと終りの商標に採用している。ますます多くのラジオ・ドラマが、精神病院の武装暴動の騒動の録音に似てきている……。
 テレビと同じく、ラジオ番組も歌と物語りとバラエティ・ショーその他、同様な企画を子供のための特別番組にしている。「しかしながら、一番おおくの聴取者が流血と砲声の冒険連続物にひきつけられているということは間違いない」と『アメリカ児童研究協会』のジゼット・フランクは書いている。「こうした連続物は、多くの学童たちに時計がわりになっている番組である」
 現在の流行と歩調を合せて、ラジオ・ドラマは、どたばた犯罪ものや人殺しものに集中するばかりでなく、FBIや軍事情報官や政府のスパイの向うみずな冒険にも熱心である。「逆スパイ」「危険な仕事」「戦争と平和におけるFBI」「アメリカの手先」といった番組で放送はいっぱいになっている。これらの放送では、主人公たちは、アメリカにいる「共産主義者の第五列」を熱狂的に追跡したり、絶滅しようとしたり、「鉄のカーテンの向うの」不敵なスパイ活動やサボタージュを指揮したりする。探偵物語の尊敬すべき主人公のモトー氏はいま「中国の赤い海軍」のおこなっている阿片密輸とたたかうという国際的冒険に取り組んでいる。またジャック・アームストロング----昔、アメリカ中の少年のあこがれの的であった----はSBIすなわち検察科学局の一員となっている。
 ラジオ・テレビ会社の熟慮された判断では、かれらは犯罪や暴力をあつかった番組を提供することで重大な社会的義務を果しているのである。最近だされたラジオ・テレビ放送全国協会の規定では、その「児童に対する責任」の条項においてつぎのごとくのべられている。

 子供の教育には、かれらに広い世界について教えることが含まれる。犯罪と暴力と性とは、彼らが出会う世界の一部分である。ゆえに、こうしたものを正しく一定量あたえることは、子供を社会環境に慣らす上で有益である。

 犯罪と暴力とがアメリカの子供の社会環境の不可欠な一部分として、このように考えられねばならぬということは、冷い戦争によって生みだされた環境に対する適切な評言である。
 
三 ハリウッドの伝説
 
 アメリカの子供の大衆娯楽には、ラジオとテレビのほかに映画がある。しかしラジオやテレビとちがって、映画産業は特に子供のためのものを作ってはいない。およそ二千万の子供たちが毎週映画を見にゆくにもかかわらず、商業映画には、どれ一つとして特に子供のために企画されたものはない。子供たちだけのために作られた映画はきまって観客を制限するし、したがって勿論のこと、利潤を制限するだろうというのが映画会社の意見である。(註)

(註)映画に比較してラジオ、テレビ会社が児童用のものを多く作っているという事実は、決してラジオ、テレビ会社が児童の幸福により関心をもっているということではない。この事実は子供向けプログラムのスポンサーが大抵の場合に、オートミールなどの製造業者で、これらの商品を子供のために送り込もうと宣伝している結果あらわれたものである。映画会社はこのように販売する商品がないから、特に子供のための映画をつくることをしないのである。

 にもかかわらず、今日上映される映画の内容は、本質的にいってラジオやテレビのそれと同じである。常に規模を大にしながら、けた外れの技術と設備をもったハリウッド映画は暗黒街のメロドラマや、殺人物語や人殺しで充満した西部劇を大量生産している。警官とたたかうギャングや犯罪者、インディアンを虐殺するカウボーイ、敵兵を殺戮するアメリカGI、「モスクワからのスパイ」を射殺するFBI、次々と犠牲者を殺してゆく殺人狂、妻を殺す夫、夫を殺す妻、こうした場面が果てしなく走馬燈のごとくに、全国の映画をみる青少年の凝視の前にくりひろげられている。ほとんど例外なく、これら血だらけの映画の主人公は、誰よりも獰猛であり、誰よりもピストルを素早く的確にうつことができ、拳闘やレスリングや格闘や柔道に熟達している。彼らが他の登場人物よりもすぐれているのはその点だけである。(註)劇のクライマックスはきまって、強力なアーリア族の主人公が、悪漢を殺す場面かぺしゃんこに殴りたおす場面で、悪漢はたいてい外国人か共産主義者か、東洋人か、さもなければ植民地の土着民ということになっている。

(註)主人公の特徴的性格はきまって、性的魅力の持主で、しかも単純な精神の持主だということだ。

 中心人物が一流のギャングか、ごろつき、殺人の熟練者である映画がすくなくない。この特殊のタイプの映画をよく説明している映画に『白熱』がある。この映画はヂェイムス・キャグニイが主演である。ライフ誌にのった「キャグニイ再び殺す」というこの映画の解説では、「暴力と狂気のまざりあった野性的昂奮と……キャグニイは野獣のような殺人者を演じる、……両手、両足で社会になぐり込みをかけ、口を開けば獰猛にいがみつく」と評した。(註)

(註)トーキー漫画の動物までが昨今では残虐性を帯びてきている。映画監督のジョン・ハウスマンは「私の記憶するところでは、かつてはディズニイもその他の漫画製作者も、蜜蜂や小鳥やその他の小動物の可愛いい習性に関心をよせ、『生の歓び』というのが中心になっていた。……しかし今は全く変ってしまって、ファンタジイは残虐に赤を追いかける。漫画映画は一種の流血の戦場と化して、野蛮冷酷な人間が互に追跡しあい、強奪やペテンをおこない、サディスティックにきづつけあうのである。」

 映画会社がその製作物の身の毛もよだつようなサディスト的側面を認めるようになっても、映画会社の偽善的良心は責められはしない。毎日次のような映画広告が全国の新聞の「娯楽欄」をうめつくしている。

『ねらいうつ男』----ゆっくりと、彼は彼女に照準を合せた。
『悪魔が二人を』----犯罪と情熱と陰謀のMGM作品。ドイツに戻ったアメリカ兵と暗黒街の少女。
『悪名の牧場』----彼女はお客の罪をかくすため牧場へと逃れる。----客ののどのかわきをいやしてやる----女を裏切る----男の背中にナイフが----賭金のために。
『キャプテン・ブラック・ジャック』----モロッコシンガポールマジョルカ、何処でも男は裏切り者だ、女達は人殺しへ誘惑する。
原子力の町』----パラマウント社年一度の超大作。爆発的昂奮。「よそものにはしゃべるな」の掟につながれた人々。ここでは子供たちは「もし大人になれたら」とはいうが、「大人になったら」とはいわないのだ。

 つぎに示すものはキュー誌に載った映画の短評であるが、同様な映画は、一九五〇-一九五二年の間に子供たちの----勿論大人もみるが----教育・娯楽用としてアメリカで無数に上映された。

アスファルト・ジャングル』----テンポの早い息づまるようなメロドラマ。殺人と脅迫とロマンス。
『国境の事件』----残忍なメロドラマ、アメリカ=メキシコ国境監視員は、リオグランデ沿いに不法入国者や殺人犯たちを捕える。

 このような種類の映画の大量生産について、ナチス出現以前からナチス支配下にかけてのドイツ映画を研究した『カリガリ博士からヒットラーまで』の著者であるジーグフリード・クラカウエルはつぎのように観察している。

 恐怖やサディズムにあふれた映画がこのように大量にハリウッドで作られるのが当り前になってしまった。ナチス支配の下でそうであったような、不気味な、仮面をかぶったような生活の不安定さが現在ではアメリカに生じている。不吉な陰謀が隣の室でもくろまれている。どんな信用のおける隣人も悪魔に変ってしまうかもしれない。このヒットラー治下に似た生活の恐しさは決して偶然ではない。サディズムファシズムがその種類からいってもまた必然性からいっても類似している点を抜きにしても、現在われわれの社会に広汎にみられるサディスト的エネルギーは、ファシズムに特に好都合な燃料を供給することとなるであろう。危険が存在するのはこうしたエネルギー、このようなファシズムを助ける気分的準備である。

 フィルム・センス誌一九五二年の七、八月号にでた次の主張は、ハリウッド映画が冷い戦争の中で欠くことのできない役割を果していることを物語っている。

 暴力とサディズムの映画は、国防省国務省、それに巨額の「防衛」予算から利益を引きだしている資本家たちの必要に合致している。フィルムの上でのミッキー・スピレーン的精神状態は、アメリカ国民を心理的に「機動作戦」あるいはナパーム弾に、そして原爆戦争の「非人間性」に慣らせるに役立つ。サディズムや殺戮場面を絶えずみせつけられた数百万の映画観客は、実際の生活においても残虐行為や流血に対して無感覚になり宿命的にならざるを得ない。

 ますます多くのアメリカ映画が直接戦争をテーマにしたものをあつかっている。一九五〇年以来ハリウッドは、四十以上の戦争映画を、製作している。さらに現在三〇余りの同様な映画を準備している。殆ど例外なしに、これらの映画は国防省の指導と援助のもとに作られている。一九五二年十月二九日のヴァライェティ誌によると「戦争映画を重要な宣伝手段と考えている国防省の意向をくんで、政府による全面的協力が申し出されている。この援助には人力はもちろん、ロケ用地まで提供されている」
 過去においてもハリウッドは戦争映画を作った。しかし冷い戦争の時代の戦争映画は、非常に特殊な性質のものである。反戦映画は全く存在しない。反対に現代の戦争映画は、積極的に戦争を賛美している。この点にたって考えると、ごく僅かの映画が朝鮮戦争をあつかっているのに反し、圧倒的大多数の映画が第二次大戦をあつかっていることには深い訳がある。この事実について、アカデミー賞シナリオ作家のマイケル・ウィルソンはハリウッド・レヴュー誌の一九五三年一月号で、つぎのように述べている。

 朝鮮戦争の映画の製作を困難にしているのは、宣伝の性質の問題である。軍事的に考えると、映画製作者の戦術的使命は、人気のない戦争を、アメリカ国民の口に合うものにすることである。戦略的使命は、朝鮮における戦火がたまたま止んでも、消えることのない軍隊精神を教えこむことである。

 朝鮮戦争に関した「戦争賛美」の映画を作ることは、「朝鮮におけるアメリカ軍についてのみじめな混乱とシニシズムの周知の事実」のため非常に困難になっているのだとウィルソンは言っている。

 こういう訳で製作者の多くは主題を第二次大戦に求めている。巧みに修正されたノルマンディや沖縄作戦の映画が、中年の観客の愛国的記憶をかきたて、あるいは、ドイツおよび日本のファシストに対する正義の戦いに参加しなかった若い世代に輝けるあこがれをいだかせることがかりにできたとしても、この物語りからは反ファシスト的内容は抜き去られているであろう。
 ……映画そのものは社会的目的もなしに朝鮮戦争に必要な概念----盲目的服従、人殺しの本能、犠牲的な死などといった概念を美化することに夢中になっているのである。
 現代では戦争は当り前のこととして受け入れられるように、さかんに宣伝されている。もしアメリカ国民が映画でみている大量的死に慣らされてしまうと、彼らはそれが人生では不可避的なことのように容易にうけいれてしまうであろう。

 しかしながら、現におこなわれている宣伝の影響するところはこれに止まらない。
 アメリカの青少年たちが毎日毎晩、映画、テレビ、ラジオ、漫画本を通じて浸されている、ナイヤガラの瀑布のような恐怖と死の氾濫は、かれらに残虐行為や暴力や殺人についてそれが日常茶飯事のように思いこませるに役立つばかりでなく、実際にそのような行為を犯させるようにしているのである。

「シカゴ・デーリイ・ニューズのスターリング・ノース」というのは多分、1940年5月8日の「A National Disgrace (And a challenge to American Parents)」のことですかね。アメリカの悪書追放運動に関しては、以下の本に目を通しておくといいです。

有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り

有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り

 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

日本読書新聞1955年11月28日「悪書追放運動を顧みる」(総括)

 日本読書新聞の、悪書追放に関する記事はこれが最後だと思います。あまり調べてないので、以後もあるかもしれないけど、1955年ではないと思う。
 この新聞、というか読書・書評紙がどの程度の影響力があったのか不明ですが、まあ部数的には朝日新聞とか読売新聞よりははるかに少なかったことは間違いないです。

悪書追放運動を顧みる
 
“悪書追放運動”は、一九五五年の動きとして、見逃すことのできない大きなものだった。それは文字通り“全国的”に広がった運動であったといえる。この大運動は、どのように拡がり、どんな成果をもたらしただろうか。もう一度、はじめから、この運動をふりかえってみよう。
 
大きな二つの流れ
 
“悪書追放運動”には、大きくいって二つの流れがある。
 一つは、内閣の中央青少年問題協議会、厚生省児童福祉審議会による「青少年保護育成運動」を中心とするもの、これに呼応した各警察の防犯課を中心とする母の会などの、いわゆる“悪書追放”“三ない(見ない・読ませない・買わない)運動”の動きであり、これは今までのところ、主に発行所不明のエロ・グロ本が対象であった。
 もう一つは、「日本子どもを守る会」を中心とする現場教師、母親などによる、悪書から子どもを守り、悪い内容を何とか良くして行こうという動きで、この方は低俗化した児童雑誌を主な対象にして展開された。
 
エロ・グロ本を対象に
青少協など中心の動き
 
 まず第一の動きをたどってみよう。
 中央青少年問題審議会(会長=内閣官房長官、副会長=関係各省次官)が、本格的に不良文化財問題をとりあげたのは、廿九年七月のことで、「青少年に有害な出版物、映画等対策専門委員会」が設けられ、専門委員として民間代表六名(委員長=伊藤昇氏)と政府委員三名が選ばれ、次の四項目について検討、答申することが依頼された。
1・国民的運動の展開及び啓蒙宣伝の方途について 2・優良な出版物、映画等の推奨の方途について 3・関係業者等の自粛方の方策について 4・特別の立法措置等について
 同専門委員会は、今年一月に入って、昨年中に審議した結果をとりまとめ、関係業界の自粛と世論の喚起を基調とした中間報告を行ったが、同じ一月の十八、十九の同日、東京で開かれた第四回青少年問題全国協議会(各都道府県代表からなる)では、青少年に有害な文化財の問題について、根本的な対策を政府の立法措置に求める傾向が強く(九州六県の地方代表に強かったという)、結局、全体の決議として「新聞、放送、テレビ、出版、レコードに対し自己規制をうながし、さらにある程度の法的措置を政府に要請する」の一項が入ることになった。
 こうして立法取締り要請の声が強まるにつれて、その賛否をめぐって、ようやく世論も高まっていった。専門委員会も審議に審議を重ね、五月になってようやく、関係各界の自粛運動と、良いものを育成する運動をおこすことに力を注ぎ、取締り立法化は今後の研究課題とする旨、答申した。
 中央青少年問題協議会は、この専門委員会の答申にもとづいて、五月九日、「青少年に有害な出版物、映画等対策について」を発表した。それによれば“特別の立法措置はさしあたり必要ないものと認めるが、今後の成行については慎重に注視し、必要な事項について引続き調査研究を行う”こととなった。
 
児童福祉大会
 
 また、五月十八日から二十日まで伊勢市で開かれた第九回全国児童福祉大会でも、立法措置の可否をめぐって活発に論議された末、“国民の良識の力で子どもを守る”という中央青少年問題協議会の決定した線にそって、今後の動きを注目することに落ちついた。
 
「母の会」など
 
 青少年保護育成月間(五月)には各地で、これに呼応した種々の運動が展開されたが、中でもハデだったのは、東京の各警察単位につくられている「母の会連合会」(会長=宮川まき氏、都内約五〇支部、会員三〇万)の動きだった。同会では、出版元不明の印刷の悪いエロ・グロ本が、本屋の裏口や駄菓子屋から、相当数子どもの手に流れていることを心配し、昨年来、その追放に力を注いできたが、五月はじめ東京防犯協会連合会と共同で「悪書追放大会」を開き、関係当局に陳情を行ったのに続き、大会の申し合せに従って、タスキがけ、エプロン姿で各支部毎に家庭にあるエロ本、あくどい児童豆本など約六万冊を回収、裁断機で切り刻んで屑屋に渡す、などの処分を行い、“三ない運動”を展開した。なお同会では、その後、回収本を売った代金で、子どものための文庫を設け、良書に接する機会をつくっている。
 また上野では、上野少年補導婦人会のお母さんたちと中学生が「不良出版物・玩具追放」のプラカードを掲げ、警視庁音楽隊を先頭に、上野の盛り場を行進、解散後、附近の本屋、オモチャ屋を一軒ごとに、不良物は売らないように頼んで歩いた。
 
全国各地でも
 
 大阪でも、市警がワイセツ文書図画の取締りを行い、古本屋、貸本屋の調査をしたほか、五月十三日、市青少年問題協議会、同社会福祉協議会が「青少年の読書対策懇談会」を開いて、市警、各婦人団体、市民生局児童課、出版小売業者の話し合いを行い、青少年問題協議会すいせんの本屋をこしらえ標示する、学校附近の本屋から悪書を追放することなどを業者に要望した。
 その他、新潟県での県民生部主催になる、映画館支配人、書籍小売店主、玩具小売店、紙芝居業者などの懇談会、和歌山県の青少協、青年婦人団体によるエロ本展示、各地警察のエロ本取締りなどがあげられる。
 
条例制定の諸県
 
 政府の手で法律をつくって取締ろうという動きは、反対の世論と関係各界の自粛運動によって見送りとなったが、各都道府県毎に条例を出すことができるため、今年に入ってから、神奈川県、北海道が、これに関する条例を制定している。現在、条例の制定されている県名、条例名は左の通り(カッコ内は制定年月)
▼岡山(昭25年)「図書による青少年の保護育成に関する条例」▼和歌山(26年)「少年保護条例」▼香川(27年)「青少年保護条例」▼神奈川(30年1月)「青少年保護育成条例」▼北海道(30年4月)「青少年保護育成条例」▼なお福岡、長崎、山口の各県も目下考慮中。
 
児童読物を対象に
子どもを守る会などの動き
 
 もう一つの大きな動きは、教師や母親を中心にした純然たる民間からの盛りあがりである。
「日本子どもを守る会」(会長=長田新氏)では、昨年五月、すでに児童雑誌の付録について、出版関係者、図書館、有識者などと話し合いを行うなどに力を注いできたが、今年の三月には調査研究グループが設けられ、四月には東京で三回にわたり、児童雑誌の内容をめぐって編集者、作家、出版社と、母親、教師などとの話し合いの機会をつくり、現在の児童雑誌には残虐性や人命軽視の傾向があまりに強いこと、戦争肯定思想や暴力礼讃の傾向があること等々、良いと思われるものが、少ししかないことを指摘、どうすれば良くなるっかを問題にし続けた。
 この運動は「子どもを守る会」の組織を通じて全国的に強くおしすすめられたが、さらにこの動きを中心に、教室の現場からも、その実態を示すような実例が多く現われた。
 
地域婦人団体
 
 東京都地域婦人団体連盟(代表=山高しげり氏)では、青少年部委員会(部長=志賀八千代氏)を開き、各区青少年部委員の活発な討議を行い、PTAと連絡をとること、社会環境を良くすること、子どもに比べてズレのある母親の時代意識を改めることなどを話し合った。そして各地区書店に、悪いものは店頭に並べないよう、なるべく扱わないよう申し入れた。
 
言論・報道界
 
 二月から四月にかけて、四回にわたって本紙に連載の「児童雑誌の実態」特集および「紅孔雀」「少年ケニヤ」の分析記事は、それが具体的な指摘を基調としたために、この運動の有力な裏付けとなったが、これに応じてラジオ放送、朝日、読売、毎日、東京、日本経済、産業経済などの中央紙をはじめ全国各地の地方紙、週刊誌や、雑誌「学校図書館」「カリキュラム」「教育」「作文と教育」「教育技術」「母と子」などが、何らかの形でこの運動をささえ、おしすすめる記事をとりあげたため、児童雑誌の問題を中心にしたこの動きは、今年の春から夏にかけて全国的な根強い社会運動となった。
 これが、青少年問題協議会によって推進された悪書追放運動とは全く別の、民間から盛り上った動きである。
 
民間三十六団体の子供を守る文化会議
 
 日本子どもを守る会、日本文芸家協会、日本文学協会、児童文学者協会、日本童話会、七日会、教育紙芝居研究会など三十六団体の共催で、十一月十九、廿日の両日、東京神田教育会館で行われた第三回「子どもを守る文化会議」には、全国から七百名に上る母親・教師らが参加し熱心な討議を重ねた。
 とくに1・不良文化財がはびこる現在の社会環境から子どもを守るにはどうしたらよいか 2・子どものための地域的文化活動をどう発展させるか 3・これらの児童文化財をどう発展させるか 4・文化統制の問題をどうするか----などについて母親や教師から持ちよられた切実な悩みを基にして話し合った結果、父母・教師・大学生たちが力をあわせて不良文化財の改善向上に努め、子どもたちが、正しく健康な成長をするために、あらゆる機関機会をとらえて、ますます活発な運動を展開することになった。
 
学校図書館協議会
 
 全国学図書館協議会(会長=阪本一郎氏)でも、本来の仕事としての学校図書館普及に力を入れることが悪書から子どもを守る方法であるという方針のもとに、学校図書館予算の増額を関係各方面に要請したが、その他にも、六月東京で評論家、編集者、警視庁防犯課員などの参加を求めて、協議会「不良出版物から子どもをどうして守るか」を開催したり、悪書の展示会なども開いた。
 さらに十一月十四、五、六の三日間、徳島市で開かれた第六回「国学校図書館研究大会」には約二千五百名の教員が集ったが、ここでも読書指導部会を中心に、熱心な討議が行われ、大会終了後、徳島市民会館で児童雑誌編集者、図書館関係者などの出席を求めて「児童雑誌をよくするにはどうしたらよいか」というテーマについてパネル・ディスカッションを行った。
 
出版界の反省自粛
出団連、立法取締り反対も
 
 このように行政機関を通しての自粛要望と、民間一般からの非難にとりかこまれた出版業界では、取締り立法化反対の態度をとり続け、日本出版協会では、すでに昨年暮、悪書追放、良書普及を主眼とした対業界、対社会、対政府運動の三項目の対策措置を決定していたが、さらに今年の三月「出版物浄化運動展開声明」を発表した。
 さらに前進して五月、出版団体連合会の「出版物倫理化運動実行委員会」による声明書発表、取次・小売商業界の浄化協力の決議文発表などがあり、この運動についての指導者、父兄などの会合には出版社側もすすんで出席し、話し合いに参加、自粛によって取締立法を防ぐよう努力した。
 
作家・画家の反省
 
 また児童雑誌の執筆者側では、山川惣治氏を中心とする絵物語作家の集り「七日会」や、「東京児童漫画会」(会長=島田啓三氏)などが、どうしたら、もっと良い、子どもの喜ぶものがかけるかについて、研究会や、編集者との話し合いを行っている。
 
児童雑誌編集者会
 
 なかでも特異な動き方をしているのは、民間運動の具体的攻撃をまともにうけた児童雑誌界で、今年の四月に発足した「日本児童雑誌編集者会」(理事長=小学館浅野次郎氏)は、機関紙「鋭角」を九月に創刊、すでに第二号を出したが、現在のところ、この会は、児童雑誌攻撃の世論に対抗する完全な自衛組織である。
 しかし、こういう機関紙の存在が、編集者と読者、識者に発言の場を与えて、討論の余地を残しているのは喜ばしいことといえよう。
 
休・廃刊雑誌
 
 エロ本の追放や、児童雑誌の内容が問題になりはじめると、一時それらの売れ行きが落ちたことは事実で、発行所不明の赤本は別として、六月号あたりから休刊・廃刊するものがいくつか出た。
☆廃刊 よい子幼稚園(集英社)30年6月号限り▽幼年(博英社)30・6▽私の幼稚園(同)30・6▽二年ブック(学習研究社)30・6▽三年ブック(同)30・6▽太陽少年(太陽少年社)30・6▽少女の友(実業之日本社)30・6▽夫婦生活(家庭社)30・6▽デカメロン(全日本出版社)30・7▽あまとりああまとりあ社)30・8▽りべらる(白羊書房)30・9
☆休刊 おんな読本(家庭社)30・4▽読物娯楽版(双葉社)30・4▽奇譚クラブ(曙書房)30・5▽風俗科学(第三文庫)30・5▽少女サロン(偕成社)30・8▽幼稚園えほん(秋田書店)30・8▽漫画少年(学童社)30・10
 
新児童雑誌も生る
 
 一方、日本児童文芸家協会(会長=浜田広介氏)編集の「朝の笛」(創刊十一月号)、河出書房の「小学生中級版」「小学生上級版」(共に創刊新年号・十二月中旬発売予定)、講学館の「にっぽんのこども一二年」「日本の子ども三四年」「同五六年」(創刊十一月号)、日本少年児童文化協会の「中学生のなかま」(創刊九月号)など、良心的な雑誌が前後して発刊されだしたのも注目される。
 
混同や誤解もある
真の成果は今後の活動に
 
“悪書追放運動”をふりかえっていえることは、警察、防犯協会、母の会などによって拡められた“三ない運動”と、児童雑誌その他の児童読物の質をめぐる向上運動が、期を一にして強力に展開されたため、この二つの異る動きが混同され、一つの“悪書追放運動”として一般に受けとられたことで、このため二つの動きのどちらもが、すべてのマンガ、冒険、空想物語を子どもからとりあげ、焼いたり破棄したりする、中年女性のヒステリー的運動と誤解した者が、識者の中にもあった。
 そしてこの誤解の上にたった論議がジャーナリズムの一部にあったため、内容の悪さを問われた作家、編集者、出版者に「子どもからたのしみを奪うとは暴論である、子どもは現在出ているものを喜んでいる、子どもはわれわれを支持している」という自己弁護をさせて、肝心な問題がそれる傾向となった。
 また、例えば東京の某三業地の防犯協会、PTA、母の会では、児童読物の筆者に対して「劣悪な作品を書かないで下さい」との申し入れの声明を出し、このニュースを携えて各新聞社を訪れた際、具体的に悪書の名を問われて、石川達三『悪の愉しさ』をあげ、子どもに推せんしたい良書とはと問われて「義理人情を重んずる講談本」と答えたという話があるように、極端なエロ・グロ本から子どもを遠ざけさえすればよいというように考えている者も多かった。
 児童雑誌の内容についても、その残虐性と暴力肯定の傾向、色彩のひどさ、こどばのひどさなどは問題として認めても、戦争肯定見識や、典型的な少女ものの持つ非現実性や、健全な努力を育てる要素がまるでなく、主人公はみな、偶然によって幸福になったり金持ちになったりする話ばかりのこと、ボスや上下の身分関係が児童読物の中で巾をきかせていることなどには無関心な者も多かった。
 
手を結べ母親たち
 
 しかし、この運動を通じて、一番考えさせられるのは、前述の二つの動きが、一般には誤って一つのものとして見られたとはいえ、実際には全然、手を結んでいないことである。
「日本子どもを守る会」では、この運動の推進にあたって、すべての母親が目ざめることこそ、児童読物をよくする道だとして、共に運動をおしすすめるよう地域婦人団体や、母の会連合会への呼びかけを続けてきたが、まだ肩を組んで進むには程遠い状態である。
 これについて、東京都地域婦人団体連盟では「まだ意識の低い会員が多く、子どもを守る会のお母さん方の活発な発言にあうとびっくりするのが実情で、そういうギャップを先ず埋めるよう会員の啓蒙に努めることからやりたい」と言っている。
 また母の会連合会では「理由はいえないが、母の会は、ただ子を思う母の立場からだけ動いているので子どもを守る会の呼びかけには、今後も応えない」という態度をとっている。
 
消えぬ立法化の動き
 
 一方、立法措置によらない有害出版物、映画等の対策を五月に発表した中央児童福祉審議会では、厚生省、文部省、警察などに要請した対策の成果については、これから結果をまとめる段階だということだし、また“三ない運動”はあまり実績があがらず、表紙をかえ中味をとじ直した性雑誌・俗悪本が、ふたたび店頭に現われているという。
 業界自粛の効がないとなれば、目下調査研究中という立法取締りの動きが、いつまた表面化するとも限らない。
 
根気よい努力を
 
 子どもの健全な成長を望む親の心に違いはないと思うが、子どもを守る会、地域婦人団体、母の会、PTAなどが、話し合いによって強力な母の立場をうち出して、今後も現場教師と共に、子どもの環境を守って行く根気のよい努力によって成果をあげてゆくことが、この運動の今後の課題ではあるまいか。

 ということで、ここらへんが1955年の悪書追放運動の総括ということになりそうです。
「三ない運動」と児童雑誌の質の向上運動が別個の運動だった、というのはあまり知られてないかもですね。
 この文の中にある「日本児童雑誌編集者会」の機関紙「鋭角」というのが、どうしても見ることができない国会図書館にも、東京国際マンガ図書館にも多分ない)。小学館の資料室とかに行けばあるのかな?
 

「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

日本読書新聞1955年11月28日「児童雑誌は良くなったか」(5回目)

 そろそろ夏も終わりですが、1955年を中心にした悪書追放運動の話を続けます(復活します)。
 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年11月28日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」
日本読書新聞1955年5月2日の記事「児童雑誌の実態 その四」(良いものを探す)
 今回は、日本読書新聞の5回目の「悪書」に関する特集記事です。当初の記事から半年経って、どのように変わったか、という話と、少女系漫画・読み物の傾向に関する話です。

児童雑誌は良くなったか
作家・作品を検討する
 
 本誌では三月いらい数回にわたって「児童雑誌の実態」について特集し、その憂うべき現状と内容を、母親、教師たちに訴えてきた。その反響は大きく、雑誌を作る人たちの反省も高まってきた。
 しかし、まる半年を経た今日、果して、これら児童雑誌は良くなったであろうか。たしかに、ひどい害毒をあたえるようなもの、残虐・怪奇のみを売り物にしているものは、ほとんど姿を消したようだ。これは一つの進歩である。だが、義理にも“良くなった”とは言いきれない。
 編集者・作家・画家たちのより一そうの努力と勉強を望む意味から、本号では少しでも良いと思われるものを拾いあげて、具体的に作品・作家を検討してみた。
 
協同研究
菅忠道(児童文学者) 久保田浩(和光学園教諭) 菱沼太郎(淡路小学校教諭) 森久保仙太郎(和光学園教諭) 記述・本紙編集部
 
怪魔から力道へ
柔道・プロレスに興味移る
 
柔道・プロレスもの
 
 最近の児童雑誌のマンガ・絵物語の中に、柔道・プロレス・空手・剣道が猛烈な勢いで登場していることは御存知のとおりである。
▼「冒険王」=高野よしてる『木刀くん』有川旭一『イガグリくん』吉田龍夫『鉄腕リキヤ』夢野凡夫『半月拳四郎』入江しげる『鉄腕パンチくん』▼「野球少年」=福田福助『力道くん』湯浅利八『少年拳闘王』武内つなよし『風の弥太郎』松沢のぼる『那智の小天狗』▼「痛快ブック」=下山長平『力道力松くん』福田三省『黒帯嵐』福田福助『拳闘パンチくん』松沢のぼる『稲妻太郎』▼「少年」=山川惣治『嵐源平』田中正雄『ダルマくん』木下としお『いなずまくん』茨木啓一『かちぐり選手』▼「少年画報」=福田福助『鉄腕くん』下山長平『イナズマ君』吉田龍夫『嵐をこえて』宇田野武『月影四郎』湯浅利八『チャンピオン』森川けん一『おんぼろ剣士』近江八郎『快男児麟之介』山内龍臣『大助物語』▼「少年クラブ」=古沢日出夫『豆たん主将』武内つなよし『ハンマー君』▼「おもしろブック」=益子かつみ『白黒くん』高野よしてる『いなづま一刀流』▼「漫画王」=茨木啓一『一二の三太』土屋一平『空手くん」▼「ぼくら」=瀬越憲『はやて小四郎』(他の雑誌も同断だから略す)
 以上はマンガと絵物語だけで、小説はふくまれていない。
 
“あっ、ナイフだ”
 
 これらのスポーツが、子どもの読物の素材とされることは、大いに結構である。ところが健全なスポーツ精神を養ってくれるものなどは、ほとんどないといってよいくらいだ。どんな調子か、二、三例を上げて見よう。
 下山長平『力道力松くん』(痛快ブック)は2/3頁大の見出しカットが「あっ、ナイフだ!!」で始まっており、水上生活者の子を“家無し”といじめる中学生が、それを助ける力松くんに、ナイフで突きかかるのである。そのナイフをひらめかせるタカリの場面を、このマンガはくわしく見せてくれる。
 阿部和助『がんばり太郎』(冒険王)は“相撲熱血絵物語”であるが、いきなりぶつかった男たちが太郎をとり囲み、「おれ、なにも知らなかったんだよ」「なんだとっ」「やい、ふざけたやろうだ」という会話があって、いきなり「ナイフのようなものをとりだした」といった書きっぷり。
 山内龍臣『大助物語』(少年画報)でも、柔道部の連中が、レスリング部の大助をいじめようとして、通せんぼをする。この時は言われたとおり大助は、股くぐりをして詫びるが、アルバイトの夜なきソバの道具をこわされ、父をけなされると、かんにん袋の緒が切れたというわけで、相手をなげとばす。とたんに「よ、よくもやったな」と、ナイフを出す……。
 
身近だから危険
 
 ナイフを出すこと自体がいけないとはいわぬ。福田三省『黒帯嵐』(痛快ブック)のように架空の島での時代活劇なら、まだ我慢できるが、右例は、いずれも学校生活など、きわめて現実に近い生活の中での出来事として描かれている点がおそろしいのだ。このことは児童心理学の第一歩で、作者も編集者も先刻御承知のことだろう。
 
無意味なケンカ
 
 無意味のいじめかた、あるいはむちゃくちゃなケンカは、おどろくほど多い。
 茨木啓一『かちぐり選手』(少年)での待ちぶせ、福田福助『力道くん』(野球少年)下山長平『イナズマ君』(少年画報)では、いきなり挑んで、いいわけを聞こうともしない。そして、待ち伏せとなると、他の中学の飛入りが加わって、「おやっケンカか……これはおもしろい」「よーし、ケンカのやりかたをおしえてやる」という具合だ。そうかと思うと、対抗試合に、負けること必然というので、相手校の選手をヤミウチしようと、おびきよせて目つぶしをくわせる。
 木下としお『いなずまくん』(少年)で、「気にくわん顔している」と言いがかりをつけ、「いいえものだ」ととびかかり、ゆえなくして試合をいどむというのは、これらスポーツものの、共通な型である。
 
悪例はまだある
 
 佐藤紅緑原作・中村猛え『少年の歌』(ぼくら)も、復讐話で浅草の洋食店での刃物ざんまい。関係者以外に誰もいないのがおかしい。
 瀬越憲『やはて小四郎』(ぼくら)も仇討もの。父の恥をそそぐためのはげしい修業は「かわをきらしておいて、あいてのいのちをたつのだ」とある。細島喜美『忍術どくろ丸』も復讐話だし、益子かつみ『白星くん』(おもしろブック)では、息子の負けたのに親が出て、米俵を道路いっぱいに積んで、バスをとめ、乗客の一員、白星くんと力くらべして、自分が負けたらバスを通してやろうという、乱暴なものである。
 
チンプなお説教
 
 柔道ものに代表される熱血物語には、かならずといってよいほど暴力否定や正義についてのお説教が出る。主人公の先生たちは、柔術ではなく柔道の心構えを説く。それで、全体としての暴力的雰囲気が浄化されでもするかのように思っているのだから、あきれる。
 古沢日出夫『こがたタンクろう』(少年週報11月フロク)では、
「たたかいはくるしいことだ…そのくるしみをぬけてこそ完成がある。それが勝負の世界だ…柔道の道だ」
「挑戦するものにはいつでもあいてになるぞ」
 こうして「正義は力だ」が「力は正義だ」に、すりかえられてしまう。茨木啓一『一二の三太』(漫画王)でも、放火をあばかれたナラズモノが、しかえしをするのに「レスリングと柔道の勝負をつけて見たいのです」といわせて、すりかえが行われている。
 
正義でごまかす暴力
 
 そういう力の合理化としても、もっとも劇的なのは『シェーン』や股旅物の渡世人のように、暴力に堪えにたえたあげく、正義の力をふるうという設定であろう。チャンバラものから一例をあげると武内つなよし赤胴鈴之助』(少年画報)11月フロク)では、親友の着物と刀をとりかえそうと、鈴之助は一人で敵の道場にのりこんでゆく。「腕でとろうか…」と思っているときは母親のおもかげが「心の修行がたりませんよ」とささやく。そこで門弟一同の股をくぐり、ホーホケキョと、なき声をたてる。それがバカにされただけとわかったとき、先生の面影に「もうがまんの必要もあるまい。やれっ」とはげまされ、大乱闘の場面がくりひろげられてゆく。
 
甘やかしは困る
 
 柔道物で人気のあるのは、ほとんどがマンガじたてで、迫力のリアリティーに乏しくなる。それで業のみせ場などは、マンガと銘うっても絵物語風の描き方が多い。
 柔道絵物語には、永松健夫『花も嵐も』(冒険王11月フロク)、宇田野武『月影四郎』(少年画報)などがあるが、乱闘の連続で、文字通りの暴力礼賛に終っている。
 われわれは、柔道物だという形式だけをとらえて、暴力的だというレッテルを貼ろうとしているのではない。柔道物が、現に子どもの心をとらえていることには、それだけの根拠がある。その質的向上のための一つの試みを山川惣治『嵐源平』や、多くの柔道物の作家・画家に期待したいのである。
 細島喜美『空手の小四郎』(痛快ブック)は“熱血感激少年小説”となっているが、主人公四郎を盗人にしくんで、インチキした俊介たちは、ボスの子ゆえに、先生にとがめられなかったような書きぶりだ。
 武内つなよし『鬼面山谷五郎』(痛快ブック)では、熊造という大人が、悪庄屋にそそのかされて谷五郎をいじめるが、ついに負け、益子かつみ『白星くん』(おもしろブック)でも、大人の力もちが少年に負け、下山長平『イナズマ君』(少年画報)ではプロレスラーが、福田福助『拳闘パンチくん』(痛快ブック)では柔道の鉄というナラズものが、吉田龍夫『鉄腕リキヤ』(冒険王)では、赤月龍之介という巨大空手師が、それぞれ少年にやっつけられている。きびしい現実をとらえたような読物の中では、その現実をオナミダ物などに解消し、一方、柔道ものプロレスものでは、このように甘やかしているのでは、編集者や作家・画家たちが口ぐせに言っている“子どもの教育者であり、児童たちのよき兄であり、友達でもあるのだ”という言葉はどうしたのだといいたくなる。
 
子どもの共感よぶ
チャンバラものよりは進歩
 
 子どもの興味の中心が、いわゆる殺伐なチャンバラものに代って、柔道もの、プロレスものに移行しつつあるのは、考えようによっては、一つの進歩ともいえるかもしれない。
 大ていの作品では、主人公の少年が、悪漢や心のねじけた武術の達人とたたかって勝つ----という筋立てになっている。そして、身体が小さくて、力は弱くても、業が身につけば、非凡な達人になる----という設定は、多くの子どもの共感をよぶ。その身についた力で、忍術や魔術・奸計など超人的な魔力によらないで、堂々とたたかい悪者をたおしてゆく----正義感と自力によるたたかい----それは、その限りでは健康な読みとり方を子どもに与えているといえよう。
 
ゆがめる国際理解
 
 プロレス・柔道ものは、アメリカないしアメリカ人の登場するものが多い。
 吉田龍夫『嵐をこえて』(少年画報)は、少年柔道家・新一と、レスラー・ロス・赤熊との、アメリカを舞台にしての活劇もので、それに悪漢が介入する。湯浅利八『少年拳闘王』(野球少年)は、ユタカがペリーという悪童相手の活躍をアメリカを舞台にして展開する。
 東富士と力道山をもじったような少年レスラー「東力弥」は吉田龍夫『鉄腕リキヤ』(冒険王)で、空手の業をふるって大活躍をする。
 土屋一平『黒帯旅日記』(冒険王11月フロク)は、「東宝柔道漫画」と銘うたれ、“日本の虎”前田六段武勇伝とうたわれている。この中に(四〇頁)次のような文句がある。
「柔道をおしえ、ひろめたいとはおもうが……見世物にまではしたくないですな」「柔道のよさを…力を…世界にひろめたいわたしには、どんな試合もよろこんで受けますが……」「全力をつくしてたたかえるりっぱなスポーツマンなら、よろこんでやりましょう」
と主人公に言わせている。これはコトバ自体立派なことで、結構なことであるが、このような類いの作品が、全体として、子どもにどのような影響をあたえるか----民族的なゆがみ、戦時中のような国粋主義礼讃一辺倒になる----という心配を拭うことができない。このことは
 アメリカとの特約絵物語『ブラック・ホーク』(漫画王)の場合はっきり言える。この物語では、仮想敵軍はソヴェトの軍服と星印で、水爆によって皆殺しにあう。この作品に関する限り“偏向もの”として編集者の良心を疑いたい。
 以上あげたような作品が、総じてアメリカの暗黒街を印象づけるかのようで、国際理解もこんな形の理解では困る。
 
実在の人物登場
だが歴史物語とはいえぬ
時代もの
 
 チョンマゲをのっけた無時代的人物が、やたらに白刃を振りまわすものから抜け出ようとする意図は、最近若干みうけられるようになってきた。
 その一つに、実存した人物を主人公にする物語がある(だがこれはあくまで歴史物語とはいえない)。一番多く目につくのは宮本武蔵である。吉沢日出夫『宮本武蔵』(マンガ・おもしろブック)小山勝清『少年宮本武蔵』(絵物語・少年)等々……。同じ系列のものには、高木彬光堀部安兵衛』(絵物語・おもしろブック)や沙羅双樹『少年太閤記』(同・おもしろブック)久米元一『少年太閤記』(少年クラブ)中村英夫『木下藤吉郎』(冒険王)鈴木光明『織田信長』(冒険王10・11月号フロク)等々と数え切れない。
 これらに共通するのは、いわゆる剣士であり、義士であり、立身出世をとげた怪人たちばかりである。
 
立身出世主義の偉人
 
 これらの作品で、偉人をとりあげる態度は、彼らがいかに奇智と力を用いて、権力と結びつき立身出世をはかったかということを認め、たたえているところから一歩も出ていない。その時代背景も持たないし、歴史の流れとは全く無関係にえがかれている(年号や年代をかくことは別問題なのである)。このことは、作者が「太閤記」などの古い物語を種本にして易しくダイジェストしたにすぎないことを示すものとはいえ、作者の不勉強が責められねばなるまい。現在必要な、これに対する批判や位置づけを少しも試みようとしていない。つまり、時代物といい歴史物語といいながら、力道山出世物語となんら変りのないものといえよう。
 
時代がもつ歴史性を
 
 もう一つのゆき方は、ある時代を背景に架空の人物を動かすやり方である。中村英夫『つばめ流之助』(漫画王)をみると、天正ごろの一人の武士をえがこうとしたものらしく思われるが、なぜ主人公が、こうした運命に置かれねばならなかったのかが、筋としてしか分ってこない。この時代の野武士なるものを、もっとくわしく書くことによって、この物語はもっと興味あるものになったであろう。ただ時代を設定しただけで時代物語になるというわけではないことを、作者たちは考えてほしい。その時代のもつ歴史性をかく意欲がほしい。『オテナの塔』の亜流はもう不必要である。
 
野心作『嵐源平』
 
 以上のような欠点は、いいかえれば、作者がすべて古く、勉強不足であるということだ。
 その中で、山川惣治『嵐源平』(少年)は“熱血柔道絵物語”と銘うってはあるが、明治維新で没落した旗本父子を描いた歴史小説的な絵物語であり、『少年ケニヤ』の作者にとっては新領域の開拓をめざす野心作と思われる。
 大仏次郎などの明治物にみられるように、時の敗者が官軍や新しくのしあがった田舎武士出身の官僚にしいたげられ、反抗心をもやすといった筋立てで、社会性のある主題・時代設定であり、作中の人物にも(絵物語としては珍しく)生活がある。時代の説明にはナマなとこともみえ、主人公の少年は最初から柔道の天才として現われ、その点では『少年ケニヤ』のワタルと同工異曲ともいえるが、調べようという意欲は十分うかがえ、今後の展開に期待がもてる。
 
低俗にとって代る
 
 尾崎士郎真田大助』(五年の学習)は、関ヶ原のあと紀州へ引きこもった真田幸村、子大助を中心に猿飛佐助、清海入道などの武勇伝である。さすがに尾崎士郎らしく文章は明快で、これは講談節でなく浪花節でもない。子どものためにこうした素材をとりあげた今までの多くの作品に比して清潔で、かつユーモアがある。
 会話が現代調で、たとえば、
 よかったですね(佐助)おい、さがせよ。さがしてくれよ(入道)はらがぺこぺこだよ(同)
 などという言葉が、そこにうまくはまりこんでいる。
 素材として上等とはいえないが、これなら低俗な時代ものにとって代れる作品である。
 
子供にうけた作品
 
 三町半左『少年いなずま隊』(小学六年生10月フロク)は、堺の町が織田信長軍に攻略されたときの防衛闘争のマンガ物語。架空の主人公を登場させたチャンバラ漫画の形式だが、作者が歴史観や思想を生かそうとしている努力は読みとれる。実際に読んだ子どもにきいてみると、六年生にも、もっと低学年の子にも、「とてもいい」という評判であった。
 会合衆自治政府機関)が、町の人を裏切って信長軍に屈伏し取引きするといった、時世の風刺とも見れるような複雑な事情も、子どもたちは読みとっていた。町の平和を守るために自衛のたたかいをするという主題は子どもにもわかりやすいようだ。
 だが、自衛のたたかいを、副題にもあるような「七人の少年の物語」として描き、町の人びとからかけ離れた英雄になっている点は、当節の流行語でいえば「主観的な極左冒険主義」であろう。野心的な問題作といえるだけに、作者の再考をうながしたい。
 同じ作者が『太閤記』(小学六年生11月フロク)の長篇連作をはじめた。筋立てに異色をみせようと、工夫をこらしているが、こりすぎたきらいがないでもない。
 
俗悪から低俗へ
少ないが良いものもある
幼年もの
 
 児童雑誌は俗悪で、子どもに害毒を与えている----という非難が高まって、それに対し雑誌編集者たちは機関紙「鋭角」で躍気になって怒ったり、居直ったりしているが、われわれとしては、あくまで“児童娯楽雑誌を良いものにしたい”という意図から過去数回にわたって批判をしてきたのであって、率直に言って、「児童雑誌は俗悪だ」とは言い切らぬが、「低俗な部分が圧倒的に多い」ということ、特に学習雑誌と銘打っている小学館の学年別雑誌でも、四年生以上は、低俗な部分がはるかに多くなっているという事実だけははっきりと申しあげる。
 低学年向の雑誌は、高学年のものに比べて、たしかに俗悪なものは少ないし、子どもに与える害毒はないといえよう。しかし「これはいい」といって推せる作品、記事も案外少ないことは事実である。
 
推せる幼年向作品
 
 まず推せるものを挙げよう。
 土家由岐雄『ゴンじい先生大旅行』(三年の学習)は、なかなかいい作品だ。高学年の雑誌になかなか見られないような、意欲と創作性がある。
 小川未明『遠い北国の話』(小学三年生)は、未明としては珍しく連載の生活童話である。こんな開拓をしてくれるのは、低調の児童文学界に、やはり意味のあるしごとといえる。
 筒井敬介『おなかをわるくしたよしえちゃん』(小学二年生)は短篇だが、二年生の生活に密着した、しかもユーモアもあり、ゆかいな生活童話である。こんな調子の連載はできないものか。同誌の森いたる『でぶくんやせくん』もいい。
 浜田広介『おとなりのはと』(小学一年生)は、文も美しく、広介童話のひとつとして、すすめられる。詩のようだ。安奈の絵も良く、何か新しいさしえの形になりそうである。この雑誌には、一年生向として他に、とりたてて秀れた作品も、わるいという作品もない。
 
欠点はあるが…
 
 次にやや良い点が見出せるものをあげてみよう。
 白木茂『ぞうのおうじ』(二年の学習)は、いささか文章に味わいがなく、解説調であるが、まず健康なものといえ、また和田義三の絵を見せる作品でもある。白木茂の作品として、よい動物童話として発展させてもらいたい。
 住井すえ『大きなおみやげ』(小学三年生)は、農繁休みに家の手伝いをしながら、機械を作る人になる希望を話す子ども----というだけの話。まず無難である。しかし文章が説明調で、子どもも躍動していない。
 那須辰造『川舟の子どもたち』(四年の学習)は文章のはこびがきびきびしていて快い。が、追跡の場面などを、これほど強調するのはわからない。今後に期待する。
 長尾宏也『尾白ワシのしゅうげき』(小学四年生)は動物ものがたりで、短い作品であるが、人間の闘争を鳥獣に移しただけではない。北国の自然の風景がかかれており、尾白ワシの本性が、闘いの意志を通して書かれているからである。文章も、てきぱきとして、活劇調でない強さを出している。ただ、これが短篇の動物ものがたりに終っているのは惜しい。
 
惜しまれる失敗作
 
 吉田光一『北海の子』(幼年クラブ)は、極北に近いらしい場面で、敵味方がたたかう物語。海上や雪の中ということに新しさがあって、期待されるものもあるように思えたが、闘争のくりかえしに終っている。山犬に襲われた時、かつて世話してやった片目のジム(山犬)が、少年を思い出して、仲間にたちむかい、少年を救う話があるが、こんな所がストーリーの山になれば、もっと見直せるような物語になったのではいか。
【少女ものについては七面に掲載】

安直なすじがき
おセンチ・活劇ものに堕す
少年小説
 
 まず代表的なものとして、いわゆる熱血小説がある。
 牧野吉晴『天馬少年』(冒険王)は“正義熱血小説”と銘うたれている。この作者は、現在少年小説を各誌に書いており、最も活躍している一人だが、総じて、ひどい俗悪さがないのはいい。しかしレベルの低い作品である。
 さらわれた小天花を救うためにのみ話がすすめられている、といっても過言ではないような作品で、大人のための大衆小説ならばいざしらず、少くとも少年小説であるならば、もう少し、少年少女の生活や、人間の生きがいや、社会のありようが描き出されて然るべきであろう。
 いくつかの事件が起伏して、興味をさそうことはたしかだが、どうも無理な設定と、燃焼の不足が感ぜられるのは、多作すぎるためであろうか。
 
編集者の意図に疑問
 
 同じく牧野吉晴『熱血の歌』(少年クラブ)は“正義小説”とあるが、未だ抜けきらぬ活劇の売ものである。谷俊彦のさしえも気品がない。この小説に対して読者の「どうかあまり健ちゃんをくるしめないでください」という手紙が載っているが、これは作品の方向をよく物語っているようだ。このような手紙は「まだくるしむ小説なんだぞ」という編集者の売り出しでもあるということを考えると、編集者の意図・態度に「これでいいのか」という疑問も出てくる。読者の手紙を編集者は、もっと大切に、そして真剣に分析し、自らの良心(機関紙「鋭角」で盛んに強調しているが)に照して、少年少女小説のもつ課題を掘り下げてほしいものである。
 さらに牧野『太陽の子』(少年)では、広島の子どものために帰ってきた秋本先生が、大上徳べえから悪に味方するか、さもなければ広島から出ろといわれて「大上が暴力をふるって広島から追い出そうとするなら、正義のために、大上組を相手にして戦う」と言わせている。重大な社会的な問題を、一個人の英雄的なセンチメンタリズムにすりかえてしまうのだ。
 これらの物語が、せっかく良いところをねらいながら、おセンチものになったり、活劇ものになったりするのは、まことに惜しいといわざるを得ない。
 
名ある作家でも…
 
 柴田錬三郎『熱血行進曲』(少年画報)は“立志小説”ということになっているが、一応作家として通っている(この作者は直木賞受賞)人たちが、どうして筆をそろえて少年雑誌に、こういうものを書くのであろうか。
 悪漢団(自由アジア団)のお国のっとりの活劇だが、これに立ち向かう日本少年清。白石大造は「バカな、きみのような少年の力で、どうしてとりかえせるものか」と言ったのに、清がツバメを生けどりにして見せただけで「うーむ、きみは剣道の達人だ!」と感心して許すといった安易さ。
 一人でのりこむとき、「おにいちゃん」とよばれ、せがまれて少女を一人つれていく。せっかくとりもどした黄金の象も、この少女の手足まといのために再び、とりかえされそうになる----すべて、運びが安直きわまりなくできている。
 このような筋立てで、読者の心をおどらせていたら、どうなるだろうか。「娯楽よみもの」だからといってすませられるものであろうか。
 作家として評価できる人だけに、「子どもの誠実のあらわし方や、生活の向上はどこにさがし求めたらいいのか」と言いたくなる。
 
成功した熱血小説
 
 同じく文壇作家の熱血小説として、田村泰次郎『ぼくらは負けない』(野球少年)がある。主人公の小太郎は愛犬ロンと朝鮮から引揚げるとき、黒眼鏡の男に、手紙と首輪に秘密書類をつけたものを頼まれる。日本に着いて母をたずねるわけだが、それに秘密の書類を取ろうとする男、小太郎をたすける「ハトの会」の友だち、牛飼いの壮太などが登場する物語。
 小太郎の協力者として力道山」が登場するが、力道山が試合前にテレビに現われて小太郎を紹介し、母をたずねる場面は、いささか唐突で安易であるが、ありそうなことであるし、子どもにはまっとうに受け入れられそうだ。現実のことと物語とが、たくみに織りまざって、いやみもなく、おしつけもなく、すすめられている。こんなところに、熱血小説の可能な線もあるかもしれない。大いに研究すべき作品といえよう。力道山をバカげた英雄視(力道ものの読みものは大ていそうなっている)していないのもいい。
 描写も、例えば、川べりに野宿しようとして、だれもいない遊園地のブランコにのってみる場面など、子どものものになっている。概して文章は、淡々としたはこびで、さらりとし、しかも興味ぶかい。ストーリの運びが書きこめられている。
 
少年小説の共通欠点
 
 以上の二、三例を見ても分るように、熱血小説といえば、1・かならず大きな男、つよい男、わるもの、悪党団があり、2・対抗するのは少年、しかも一人のことが多く、3・それに少女がからまり、4・大人たちが平気でその少年を危地にやっているし、5・レスリング、拳闘、柔道、剣道が必ず出てくる----といった組立てになっている。
 少年たちの身近かなもの、親近感をもつ場面で、まっとうな熱血をわかせることが少ないのは、今日大部分の児童向小説の大きな欠点である。子どもの場合、こういった作品を読み重ねていくと、つくられたものと現実との区別は小さくなって、心へのひびきが大きいことと、考えあわせなければならない。
 
清潔で明るい作品
 
 スポーツ感激小説と銘うったものに藤沢恒夫『この旗のもとに』(五年の学習)がある。これは城南校と双葉校の野球試合を背景にした作品で、いい少年小説である。清潔で気分が明るい。月並みな言いまわしの作品の多い中で、これは珍しく文芸作品らしい配慮で書かれている。
 ただ、今日の強い刺激になれている子どもたちに、この淡々とした手法が歓迎されるかどうか疑問である。今後の読者の開拓が伴わなければ折角の作品が生かされない。この作者あたりに、このような少年小説をさらに押しすすめてもらいたい。今日の児童読物の活路であるといえよう。
 
出そうとした新味
 
 “少年感激小説”小山勝清『山犬少年』(中学生の友)は、山犬とむすばれる少年を描いた点、一寸めずらしい。人間同志が闘争をくりかえす熱血小説、闘争物語とややちがって、作者が新味を出そうとしている意気がうかがわれるとはいえ、山犬の酋長といわれる白毛の犬などは、いささか作為が見えすぎるし、「山の証文」をもち出して奪い合ったりするのは探偵小説めいて、ごたついている。
 良い作品とはいえないが、まず従来の俗悪ものにとって代る段階に来つつある、とはいえよう。
 なお「中学生の友」には、良さそうな作品としてあげるものが、他にないのはさびしいことだ。
 
魚博士の感激小説
 
 “感激小説”と銘うったもので科学的な要素をいれた末広恭雄『サーカス水族館』(六年の学習)がある。魚博士の作者らしく、型のかわった科学小説といえるので、簡単に筋を紹介してみよう。
 原爆孤児川上士郎は上京して、不良仲間に入るが、金魚をおどらせる老人(三浦博士)に心をひかれて不良をやめる。三浦老人をたずね、金魚のしこみ方などを教えられる。三浦老人----大学教授であったが、バイオリンで金魚をおどらせるとき、悪い教授が弦を半音づつ下げておいたため金魚はおどらず、それがもとで彼は辞表を出し、研究生活に入る。十二月号では「金魚のスターたん生」という映画をとるため上京するところまでになっている。
 この作品は、正義感や温情、自然への愛情なども語られ、興味もあり、文章もいい。低級なよみものに、すっぱりととって代る作品である。科学者の書く文学作品、こんなところに子どもの良い読みものが生れはじめていることに注目すべきだ。
 
探てい小説は落第
 
 少年小説のひとつとして探偵ものがある。
 島田一男『猫目博士』(少年画報)同『暗黒十字星』(冒険王)江戸川乱歩『海底の魔術師』(少年)武田武彦『地獄の魔王』(痛快ブック)などはいずれも“探偵小説”と銘うっているが、このほか“大冒険小説”久米元一『覆面探偵』(少年画報)“科学絵物語小松崎茂『大暗黒星』(少年)も一応この部類に入る。
 これらは、相も変らぬ怪魔的なものの活躍である。乱歩がいくらかましなくらいで、あとは推理もなにもない。さらい、さらわれが中心で、宝ものさがし。そうかと思うと、冷凍人間の研究とか、宇宙線バクダンとか、そのこと自体ヒューマンなひとかけらも持ち合せない。
 
純情に訴えかける
感動的だが恐ろしい影響
戦争もの
 
 いわゆる戦争物といわれるものに、棟田博『燃える大空』(少年クラブ)がある。未来戦とか宇宙戦争などを扱った作品は多いが、太平洋戦争と真正面から取組んだ作品では、これが代表作である。戦記小説の作者としては年期が入っているので、部分的には少年たちの純情に訴えかける描写の真実性で迫るものがある。中学生の意見をきいてみると----「七つボタンの歌」をとってもいいと言うし、こういう小説には打たれるらしい。少年たちは、一方では平和がいいと思いながら、こういう張りのある、意地っぱりな男の世界にあこがれ、戦争というものを勇ましい場面としてだけ考え、心ひかれるものらしい。
 戦争中の少年たちも、このように純粋な、単純な動機を、あのいたましい特攻隊の尽忠報国に育てあげられたのだった。
 この小説が感動的であればあるほど、影響力のおそろしさが思われてならない。作者は十一月号で実戦部隊に出る日も近い主人公の少年に、こう言わせている。
「世界じゅうが、仲よく、ともに助けあってくらすようになる日を、ぼくは今、どんなにか、ねがっているかしれないのに」
 ここには二重の問題がある。敗戦日近い少年航空兵に、このような考えがあったろうか、ということ。不幸な時代の少年をリアルに描こうとせず、今日の時勢に戦争中そのままを肯定的にかいて、再軍備風潮に手助けするなかで、とってつけたように、こんな言葉をさしはさんでいることを、作者はなんの責任も感じないでいられるのであろうか。
 
ひそむ危険な問題
 
 戦争ものとしては、やはり年季の入った小松崎茂『大暗黒星』(少年)がある。これは、おそろしい遊星人が地球を攻撃する----という、国と国との未来戦を変形した戦争ものであるが、全篇をとおして、子どもに、戦争の恐ろしさを教えるものでなく、熱血!として描かれていることに注意されねばならない。
 遊星人のロケット隊と戦うのは日本少年高田わたる(少年ケニヤの主人公と同じ名)である。気の弱い池田少年の代りに飛び立つわたる少年----友情・犠牲の精神を説くわけだが、こんなきわどい命のせとぎわで、子ども(少年)の友情が語られるのは危険である。単なる任侠に堕しはしないか? 戦争にたいする子どもの任務というものを、どう考えたらよいのか。そのわたる少年が「みなさんとおなじ年ごろの」と説明され、読者に「血わき肉おどる」戦争として密着させられていることに問題がありはしないか。
 この作品の文章表現は、非常に概念的で、戦争ものの類型にはまりこんでいる。
 戦争のすごさだけが、あおりたてられ、戦争を興奮にまきこむ文体でもある。平和を求める雰囲気が消えている
「おかあさん、さようなら、ぼくは----死ぬかもしれません。ぼくは、おかあさんとふたりだけの、たのしいしずかなくらしがしたかった。でも、高田が死ねば、ぼくも生きておりません。ぼくが死んでも、かなしまないでください。おかあさん。」(池田少年のセリフ)
 この少年のなげきを、読者はどううけとるか。
 また、遊星人は原子力攻撃をしてくることになっているが、このような場面を、作者は自信をもって書いている。事実作者は十年もたてばこんな戦争になる----と断言もしている。だが、今日、現実に原子力についての国際会議で、平和利用や、戦争への使用禁止へ動いていることが、はかないものになってくる。
 宇宙を舞台の豪壮な物語にしてからが、戦争や探偵ものにおわっている。結局、科学は闘争の用にたつものでしかない。衛星をつくり、自由に宇宙を飛びまわる如くに、自在に、人命をもてあそび、人権は無視される。まだしも土人ものの方がいただける----と言いたくなる。山川惣治、阿部和助などの最近かくものの方が、これらよりは、かなり健康的である。

すべてが偶然で
病的な宿命に憧れさせる
少女小説
 
 原淳一郎『空はみどりなり』(少女)の主人公は月丘露子で、父は亡くなり母は行方不明、それをいじめる少女田鶴子----といったお膳立て。別れ、めぐりあい、スレ違いのメロドラマである。ここまでなら、小学五、六年の子どもが立てそうな物語の構図である。文章も同様で“作文”の域を出ない。
“待って、露子ちゃん!”
 血をはくようにさけびました。
 しかし、おそかったのです。
 どっとあふれる悲しみの涙。あきらめるには、あまりに身ぢかにいた露子のすがたに、おかあさんは、くちびるをふるわせて涙にむせびました。
 紙芝居の小父さんの文句と変りない。
 このような作品は、生活上のこと、事件などが、すべて偶然で支配され、別れた人はどこかで会うように出きている。会いそうになるとまた別れる。困った時はだれか救う人が現われる----自分の人生をそのように思いこんでくる少女が出来てしまう----という心配に、作家や編集者は、どのようにこたえるか。
 
ありふれた作品
 
 北条誠『美しき涙』(少女ブック)は“純情絵物語”である。主人公ユカリは幼くして母に別れ、ふとしたことからオバサマとハルミを知り、親しみをいだく。ユカリは自分が読んだ少女小説に身の上が似ているところから、オバサマが母ではないかと思う。ところがオバサマは片山早苗という名ピアニストで、近く海外へ行くので左様なら演奏会をひらく。ユカリは早苗に会いにゆくが、お豊ばあやが「ユカリに親切にして下さるな」とと早苗に頼んであるので、早苗はつんつんしているが、ユカリにかくしきれない気持が見え、ついにたおれて病気になってしまう----といったあらすじ。その場面を紹介しよう。
 片山早苗は、あいかわらずつめたい顔で、じっとユカリをみつめていました。
 が……やがて、その目が、かすかにうるんで
『ユカリさん……』せつなくあえぎました。
『だめ、私にはいえません』
『おねがいです!』
 と、いうせつないユカリのさけび声に
『かんにんして……』
 北条誠をわずらわさなくてもと思える、ありふれた作品である。
「少女ブック」にはこのほか大林清菊田一夫、北村寿夫、堤千代少女小説を書いている。
 
プチブル的に描く
 
 大林清『なつかしの花園』(少女ブック)。主人公堀田美沙は姫百合女学園の初等科生で、お金持の娘。その友人優木志津子。校長先生のお誕生日を祝う演芸会に、劇をやることになっているのだが、主役の志津子が母のために出演できない……という構図で話がすすめられている。
 ストーリーは平凡ながら、変なこじつけや、きらびやかさがないだけ、良の部に入りかけそうな作品といえる。
 前の北条誠にしても大林清にしても、不幸である子も、貧しい家の子も、ふつうの子も、なんとなくプチブル的に描かれているのはどういうわけか。これらの少女小説に現実感が出てこないのは、そうした所にも原因があるようだ。
 
感傷調で書き綴る
 
 絵物語だが、菊田一夫『白馬のゆくえ』(少女ブック)----あらすじ----真弓の父は仕事に失敗し遠くへ行ってしまい、母も家を出てしまう。真弓はその実家をたずねるが、母はおらず、見知らぬ町をトボトボとひきかえす。貧しげな老婆にすくわれる。ところがこの老婆は----「ああ、真弓をたすけてくれたろうばは、女の子を使って花売りをさせる女でした」そこで真弓は逃げる----切符なしで汽車にのりこむ----流行歌手のおねえさまに救われる----母を見たように思ってかけだす……。
 このような作品には新しい設定で作者の心を読者につたえたいというところもみられず、ああ、こうと安直に仕組んだストーリーだけが、作者の頭にうかんで、それを感動のない(あるごとく見せかけた)感傷調でさらさらと書きつづっているだけの作品だ。
 俗悪だとは言わぬ。読んですぐ少女たちが不幸になるとも思えない。しかし、もっと考える作品、高いところで、読者をひっぱってゆくものを書いてもらえないか。子どもの作品は、大人のものより力を落して書いているように思えてしかたがない。
 
文章感覚の悪影響
 
 同じく少女絵物語で、北村寿夫『母の湖』(少女ブック)があるが、これも同巧異曲のストーリーのむしかえしにすぎない。しかしドラマチックで波乱にとんでいることが特色である。文章はやさしくかいてあるけれど、文脈、文のにおいは大人のものだ。少女たちの文章感覚が、これらの影響を強くうけるとすれば困ったことだ。
 不幸な宿命を背負った少女ばかり出てくる小説----センチメンタルは、今の少女たちにあってもよい。なければむしろ不健康といえるかもしれない。しかし、病的な、宿命的な、そんな悲劇的なものにむしろ憧れるような人情を育てる作品を、われわれとしては歓迎できないのである。
 
こまやかだが平凡
 
 死者にむちうつのは不本意だが、堤千代『すずめ待てども』(少女ブック)はこの作者らしく、こまやかなはこびをもった文章だが、どこが作品のおし出しかはっきりしない。ただ起っては過ぎてゆく小さな事件、あわい生活のあとを読みたどって、読者たちは気をまぎらす程度であろう。高いヒューマニズムも、センチメンタリズムも滲み出ていない。可もなく不可もなしといった作品。
 
力を落す文壇作家
 
 以上、「少女ブック」に掲載された作品を見てきたわけだが、この雑誌は、知名の文学者に多くかかせているが、全作品を通じて、われわれの期待に応えてくれる作品はなかった。いうならば、低俗そのものを売りものにしている傾向が減ったということ、ふつう平凡な作品になりつつあるというのが“悪しき進歩”といえばいえる。
 上述のような、一応文壇に名の通った作家が、かかる少女ものを書いているが、いったい読者の読みどころはどこなのか、どんなことを与えようとしているのか、作者たちにききたいものである。
 
社会的関心の欠如
 
 物語の良否は別として、藤子不二雄『母の呼ぶ歌』(少年)はマンガ形式だが、母の遺産の山に、ウラニウムが豊富なことに目をつけた悪社長が、横領しようとするのを、純情青年がはばんで、悪人をとらえる----という話。同じくマンガ物語の高野よしてる『おセンチ交響楽』(少女クラブ)では、少女歌手が、親のない子どものために「少年の家」を建設してやる。ここでは商売の鬼の支配人も、人情の暖かさにまいって善にかえる----というような、社会的な問題を中心に物語が始められている。
 ところが、二友長半『歌のつばさ』(少女ブック)になると、食堂ガールの友だちの投書一枚をみて、デパートの主任が食堂ガールをくびにしてしまう。そして、おさだまりのかどわかしがあり、売られることになる。前述の菊田一夫『白鳥のゆくえ』(少女ブック)も、花売娘とそれをあやつる老婆たちの事件を、エピソードとして入れただけで、筋は主人公の行動中心に運ばれているにすぎない。読者である子どもは「なぜ警察に行かないんでしょう?」という疑問を大部分がもった。これは作者の社会的関心のうすさを示したものといえるのではなかろうか。
 日常の新聞にみる、家出娘や、売春少女の記事にいだく気持は、「何とかならなかったか」ということだが、これらの読みものは、悪者につかまったら、どうにもならないのだ、と読者に考えるようにさせなければ幸いだ。
 
ほめたい少女ものは
こういうものを増やしてほしい
 
「女学生の友」では、多くの連載少女小説がのっているが、とるべきものはない。辛うじて短篇の読切少女小説、三木澄子『花とパンの日』がある。これは、担任の女先生が、その月誕生の生徒を第一日曜に家によぶことにしている。たまたま十一月は、嫌われ者で成績がビリの信子と、男子ナンバーワンの隆、当の先生の三人が誕生月で、招かれているわけだが、信子は家事が忙しくてゆけない。そこで先生と隆がきて、店を手伝う----これをきっかけにして、級友も、信子のよき友だちになるだろいうという話。
 文章も、まずまずあくどくないし、物語としては他愛ないけれども、ありうべからざる架空ものより、前進している。
 そして、成績最低の子を出していること、先生の愛情みたいなものが出ていること----この二つをとるのである。
 
ありふれた設定
 
 西条八十『母よぶ時計』(小学四年生)にしても、悪者、秘密、誘拐……西条八十ともあろうものが、相も変らぬ設定ではある。
 田島準子『緑いずこに』(小学四年生)は“父のゆくえをさがしに東京へ出てきたルミ子とミチルの悲しい物語”。北海道から美しい女の先生----いじわるな同級生----母の病気----こういった少女小説の要素が、ここから抜け出すときに、新しい作品となるだろう。
 主人公の名前にしても、ルミ子、ミチル、ユカリ、マユミといった名や、宝塚調の名のつけ方で、おおよそ、バカげたものは見当がつくのも皮肉である。
 
本格的な少女小説
 
 以上、賞めようと思って、いくらかましな作品をえらんで取り上げてきたつもりであるが、御覧のような悪口を言わざるを得ない結果になってしまった。そこで、まあ良いものとして推せるものを以下にあげてみる。
 富沢有為男『山のさっちゃん』(少女ブック)は長い連載だが、プチプルで、悲劇の主人公で----といった少女ものの多い作品の中で、これは“山のさっちゃん”を登場させ、東北地方を場とした珍しい作品である。“海のさっちゃん”が仲良しであるという構想もいいし、馬の子が生れる話や、山崩れによる洪水を知らせるため川下の町に馬を走らせるさっちゃんのいき方など、山奥の村に、はつらつと生きる少女を描いており、夢や美しさをも忘れず、といったぐあいで、連載の今後も期待される。本格的な少女小説と、敢てよんでおこう。
 
よい明朗少女小説

 ユーモアというより明朗少女小説ともいうべきものとして、飯沢匡『トマトさん』(少女)がある。トマトさんとあだ名のある少女、走るのが速く、負けずぎらいで、ちょっとばかりウソも言い、さあとなると、少女らしい心づかいも出てくる。いたずらに紅涙をしぼろうとするおセンチの少女小説より、この『トマトさん』あたりに、今の新しい少女像が描かれているのではなかろうか。
 
良いおテンバもの
 
 NHK連続放送劇「青いノート」からとった乾信一郎原作・竹山のぼるえ『夢みる愛ちゃん』(少女ブック10月号フロク)は、マンガ形式のおてんば娘行状記だが、愛ちゃんの無邪気ないたずらや、はねまわりの展開である。なによりも、そう甘やかしていないのがいい。男のようなのを心配する一家の、愛の眼で見まもられる愛ちゃんの、開放的な動きの中にも、女らしいやさしさをうまく出している。
 最近うり出してきた手塚治虫の『そよ風さん』(少女)も、女の子のおてんばを扱ったものだが、子どもたちには人気がある作品。今日の女の子は、メソメソしているのを心よく思わないという点も相当ある。彼らは、物語りによる感動と、オセンチのメソメソをちゃんと区別している。手塚治虫が、『そよ風さん』そのほかの新作において、作風に変化をつけようとしている努力は買われる。実験室風な作品としておもしろい。
 
活路見出すマンガ
 
 入江しげる『めぐみちゃん』(りぼん)は登場人物が生活をもっているという点では、この種のマンガとしては異例である。いままでのマンガの多くが、無生活無国籍あるいは夢のような豪奢な生活をしている人々のみであったのと比べて一歩進んだものと考えてよい。ただ、この点----生活の中にある、現実的なおもしろさ、希望、愛情などというものを、もっとふかく掘り下げるわけにはいかないものだろうか。ここにマンガのひとつの活路が見出されるといえよう。
 同じ作者の『すみれさん』(少女ブック)も、マンガとして中学生活のリアリティや親近感がある作品といえよう。
 ついでに、少女ものではないが、マンガとして良いものに----
 馬場のぼる『カラスのとん平』(六年の学習)は、最近、マンガ家として注目されているこの作者の快心の作と見える。このマンガの絵には素朴さがあり、むしろ土くさいけれど、下品ではない。清潔でもある。ただ、バックなどにリアルな描写のカスみたいのが残っているのが気にかかる。ユーモアめいた文章のはこびもなかなか達者。佳作。
 また山根一二三『のんきなトン兵衛』(おもしろブック)も、ユーモアがあり、ヒューマニズムも感じられる。
 
誤まれるクスリ
 
 少女マンガで、やはりおてんば娘行状記ふうのものに、大友朗『おてんき姫君』(少女クラブ)がある。これは、すべて大人を軽べつすることの上に立っており、女性の優越感を満足させる----というところに、くすぐりを持たせた作品。殿様は恐妻家で、奥様が絶対権をもち、姫君も父をバカにしているという話だ。
 これに対して、男性がわの場合は、身分的な優位をもって、権力によって女性をおさえるといういき方も多い。一例をあげれば、夢野凡夫『とんてんちゃん』(少女ブック)である。
 この作品の中で、失敗から起す物的損害や、物の価値の軽視に対しては、もっと心を配るべきである。
 
家出、誘拐の悪用
 
 少女もので、さらに指摘しておきたいことに「家出」と「かどわかし」の問題がある。
 原口透谷『母よいずこ』(痛快ブック)というのがある。これは“感動絵物語”だそうだが、捨てられっ子のさち子が、父母を探しに、ひとりで東京行きをする。車中の黒メガネ(実はスリの親分)に親切ごかしにさらわれるが、婦人警官の手で、父と再会できるという話。家出については何の心づかいもない。
 総じて、家出は正当化されている、というのが雑誌の現状だ。
 二反長半『母を呼ぶ鳥』(なかよし)という写真物語は、先生に引き取られている澄子が箱根へ旅行にいって、友をたすけるが、その時のやさしい婦人が母だとわかって、箱根へ出向く。そして芝居小屋へ売られることになる。
 同じ作者の『花びらのうた』(りぼん)は、仲よしのとよ子がいなくなるが、ひろ子が箱根へ遠足のとき、湖畔でおどる旅芸人のとよ子を、船中から見つける。家に帰ってから、とよ子を見つけに母と箱根へ行くが、わからない----という似たような筋立てを書いている。ここでも、売られる、さらわれる、である。
 例に「りぼん」をとって見よう。さらわれる話は、写真物語『まきばのうたごえ』、益子かつみ『かなりやさん』、母をつれ去られる話では南村蘭『さくらひめ』、菊田一夫こばとはどこに』、松沢のぼる『ははをたずねて』など曲のないことおびただしい。なぜこうも安易で、不勉強で、子どもをバカにしているのであろう。
 これらの家出と、かどわかしは、ここでは「かわいそう」として受けとられる。三面記事をかざるこれらの事実への、子どもの啓発には、考えも及ばないらしい。

 ということで、ざっくり紹介してみましたが、いい読み物も悪い読み物も、今ではほとんど実物を読むことが不可能になっているところが面白くも残念なことでもあります。
 半世紀前は、少年少女の数が多かったんだろうなぁ、としか…。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

日本読書新聞1955年5月2日の記事「児童雑誌の実態 その四」(良いものを探す)

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年5月2日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」

児童雑誌の実態その四
 
 この特集もすでに三回、今日の児童雑誌の実態として、欠点の指摘を中心にすすめてきたが、今回は、どこかに良い点はないか、すくなくとも“良い芽”は見られないか、という立場から検討してみた。
 本誌の記事は各方面の共感と反響を呼び、各界も活発な動きをみせはじめているが、これは一時の流行に終らせてはならないものだ。業界の反省はもとより、すべての親たち、現場の教師たちが、強い愛情とたゆまぬ努力によって、子どもたちに即して、この問題を解決してゆくほかない。
 そこで、では具体的にどうすればよいのか、実地に当ってどういう方法が可能なのか--実態調査と二、三の指導実例をあげて、考えてみることにした。
 
 本号は従来通り本誌学校図書館欄担当の各氏(菱沼太郎、森久保仙太郎、久保田浩、菅忠道、真船和夫、岡田日出士)のほか、藤田博(野方小学校)藤本一郎(京橋小学校)両氏の協力をえて本紙編集部がまとめた。なお、今回は特に全国各地から様々の資料、意見などを沢山の方々からお寄せいただいたので、それを使わせていただいた。
 
マンガと子ども
 
 大阪氏の某小学校の調査(同市指導主事尾原淳夫氏提供)によると、
 
▽マンガに対する家族の見方
 
「叱る」三〇名、「とめる」六六名、「無関心」一五四名、「ほめる」七名。

▽好きなマンガの内容

一年 二年 三年 四年 五年 六年
冒険もの 12 26 11 20 27 7 103
探偵もの 15 20 20 22 29 14 120
怪奇もの 1 1 3 13 9 0 27
架空もの 3 1 7 4 5 10 30
ユーモア 12 1 14 11 9 2 49
頓智もの 5 14 17 19 31 2 88
お伽もの 6 7 6 4 14 0 37
友情もの 2 2 2 6 14 5 31
悲劇もの 4 11 14 20 18 19 76
風刺もの 0 6 1 1 1 1 10
生活もの 2 3 2 8 10 3 28
歴史もの 5 9 9 23 23 23 79

 
どのように導くか
現場教師の記録
 
 現場の教師の記録を見る前に、読者の投書から二つの意見を紹介しよう----
「小学校の女先生も母親も、学習雑誌という名に信頼して子どもに与えっぱなしにしているが、それでよいのか」(山口県岩国市・葛原白葉氏)という声。もう一つは「最近東京近郊で急激な流行を見せている貸本屋と、地域子供会とが手をつなぎ、一体となって読書指導をしていったらどうだろう」(三鷹市・秋山礼孝氏)という提言。--前者は世の母親・教師たちがもっと子どもの雑誌に関心をもって“手にとって読んでほしい”ということを、後者は貸本屋さんたちの反省と協力を切望している。いずれも真剣に考えるべき問題であろう。
 東京神田の淡路小学校六年生の児童に、これらの雑誌を読ませてその感想からまとめてみると----1・恐迫感がある 2・妄想癖をつくる 3・絵に対する美感をゆがませる 4・映画スター・流行歌手へのアコガレを抱かせる 5・服装をマネたがる 6・類型的な割り切った見方をうえつける(事実を曲げて小説的にみるようになる)----というような心配されている通りの結果が出た。
 
計画的な読書指導
 
 三重県亀山市亀山小学校の松村安雄先生の場合----
「本校において男子の最も好むものはマンガである。マンガのうちでも西部劇は余り好まれず時代物、柔道、レスリングのマンガが特に好まれている。女子の最も好むものは少女小説である。男子、女子ともに、どちらも物語の筋などは大して問題でない。子どもの言うのには、全体を読み返すということはまずないらしい。しかしええとこだけは何べんも読むというのである。ええとことはチャンバラの場面、化ける場面、類型的な感情を煽ることば、といったところである。……子どもが、マンガや少女小説から高度なものに進むきっかけは、母姉兄が買ってきた、読書会に出席するための準備によみだした理由のものが多い。結局、家庭の教育的関心と、学校における読書会等の計画的な読書指導のための方法が、大きな役割をしているといえる」。(なおこの先生からは六年の児童三人に「読書の歩み」を書かれて送られてきたが、これはいずれ紙面に掲載したい=編集部)
 
漫画から脱け出る
望みたいたゆまぬ努力
 
 千葉県松戸市の高木第二小学校の鈴木喜代春先生の場合----
 マンガを足場に子どもの読書を高めてゆこうとして、まず子どもたちと一しょにマンガ本をどんどん読み、ついに子供たちも「うあ、このあいだ見たのと同じだな」といった調子で、マンガに対して批判的な空気を教室内に作っていった。そして一年たらずのうちに、この先生のクラスの子たちは、雑誌『青い鳥』(季刊児童文学雑誌・福音館書店発行)をつぶすなという声とともに「青い鳥子ども会」をつくった。そして二十一人の児童が『青い鳥』を買うようになった。そして読書会が生れ、めざましい発展をとげつつある。そして鈴木先生はいう----
「マンガ----まったくおそろしいことです。でもマンガでも読んでくれたら望みがあります。出発はここからです。それにしても、あまりにもひどい商業主義にあきれます。より子どもに親しまれるような作品、子どもを勇気づけるような作品の、本当に少ないことを痛感します。しかし、これらはお互いにせめあうのではなく、現場の教師と、作家と、手をとりあっていくこと。現場の教師は商業主義に負けずに、子どもを守り、もうければよいという方々も、反省してもらいたいものだと思います。お互にケンカにつらなり、取締法などの法律では、ものを解決したくないものです。」(なお、本号六面「本を読んで」欄参照のこと)
 
教師に望むこと
 
 出版界の反省を求めることが第一だが、教育者の力にまつところも極めて大きい。そして教師として考えねばならないことは----
1・社会悪の結果だから仕方がない、われわれは毎日の教室での学科の学習にせい一ぱいだ、などと言わずに、現状に対して少しでも抵抗していく態度をとること。
2・そのために教室で読書指導を計画的に、先ずやること。継続してやれば、必ず効果があがる。
3・ただ感想文を書かせるというように形式にとらわれず、いま子どもが一番多く接している雑誌やマンガなどをどう読むかということを、実物について学習させること。
4・教師対児童の教室内の学習活動として限定せず、母親たちと協力する方法をとり、大人の問題に発展させることで、PTAの組織など忘れてはならない。
 しかし、どんなに努力しても、クラスの中にいる一〇-一五人位の読書力のおくれた子は、雑誌やマンガから離れられない。その子どもたちのためにも“本当によいマンガや雑誌がほしい”と願わずにはいられない。
 
伸ばしたい良い芽
余りにも少いが
 
 三十誌をこえる児童雑誌の中から賞めるべき作品や記事を探すのはなかなかむつかしい。この特集を始めた当初から、そのつもりで各誌を見てきたのだが、正直にいって、良い点を見出すのに苦労した。以下紙面のゆるす限り拾ってみた。
 
低学年に良いもの
 
 いわゆる“学習雑誌”と自他ともにゆるしている小学館の学年別雑誌を見てみよう。
『小学二年生』『小学三年生』などの低学年向は全体として大体よいといえよう。『二年生』のつづきどうわ「ろばものがたり」(西山敏夫文・沢井一三郎画)は二年生にもわかるようかけており、絵も良いが、色の工夫がさらにほしい。童話「あめさんふっとくれ」(住井すえ)は、畠と田で働く農家の母と、雨とをむすんで、農業の仕事を教えながら、母の日の心を語りえていよう。つづきえものがたり「いえなき子」(槙本楠郎文・谷俊彦画)は、色の美しい絵でこの名作をやさしくよませる。りかどうわ「いもむし」(平井芳夫文・安泰画)は童話の形式をもって、自然に対する目を開かせうると思う。
『小学三年生』では、四月号のめいさくよみもの「きえたせん人」(槙本楠郎・井口文秀画)は芥川の「杜子春」の話を絵を中心としてかいており、大体あやまりなく子どもに杜子春を印象づける。スチーブンソンのおはなし「山のはつめい少年」(白木茂文・沢井一三郎画)は三年生むきの伝記として清潔である。しかしほんの小さなエピソードで、一号分では、伝記として断片的によまれすぎよう。連載第一回「とおい北国のはなし」(小川未明文・松野一夫画)は、めずらしいほど純粋な物語といえるが、三年生が果して、これに興味がもてるか(子どもむきの私小説的作品の今後はどうか)という疑問が出る。それは「そらのおうし」(和田伝文・武田まさみ画)も同じだ。四月号の短編「三ちゃんのケンカぐも」(北川千代文・黒崎義介画)は中間童話といったものだが、こんな段階から純化へむかうのもよいと思う。あまり観念的・高踏的なものより、まずこの辺から、という感じである。
 マンガにはこれといって良いものがない中で、「ししがりのタルタランさん」(せんば太郎)は新しい形式で注目されよう、色はよくないが、コマにしばられないところがよい。
 この雑誌では「ホロホロチョウのまだらはなぜできた」(八波直則文・森やすじ画)、中国むかしばなし「ありの国」(平井芳夫文・林義雄画)、つづきよみもの「トムのぼうけん」(西山敏夫文・谷俊彦画)なども比較的よいものだ。
『小学四年生』では、世界名作絵物語「アラビアのガラスつぼ」(土家由岐雄文・池田和夫画)は文章にケレン味がなくてよい、絵もまずまずといえる。文芸読物「おかあさん物語」(鶴田知也文・滝田要吉画)は清らかで美しい話だが四年生に感動を与えうるかどうか疑問。朝鮮昔話「ほととぎすになった男」(平井芳夫文・花野原芳明画)はおもしろいものになりそうな作品。同じく四月号の友情小説「星はいつまでも」(園田てる子文・松野一夫画)は清潔で面白い。
『小学五年生』では、連載小説「良太とみちる」(田中澄江文・沢田重隆画)は意欲のある本格的な少年少女小説といえよう。だが純粋ということは子どもにとって高踏的になり易い、どこかに生活とそれを結びつけるカギはないものか。連載小説「火を吐く富士」(沙羅双樹文・伊藤彦造画)は上代に取材した注目される作品。名作絵物語コーカサスのとりこ」(平井芳夫文・池田かずお画)、キュリー夫人伝「四等車のマリー」(大屋典一文・石井達治画)、映画物語「路傍の石」など、まずまずというところ。四月号のユーモア小説「ヨタじいさんのヨタばなし」(平塚武二文・鈴木信太郎画)は良かった。
 
おもしろくする工夫
 
 さてここで、学習的な記事について触れてみよう。『小学五年生』四月号を例としてあげると、「楽しい名画展」「目で見る社会科」「絵で見る日本史」などであるが、これらはいずれもぜひ育てて行きたい企画である。目でみる社会科「火山の国日本」は七頁にわたる記事だが、もう少し生活の面を出してほしかった(火山地帯の村の生活など)。こうしたページが、あまりに事典的になるので、子どもたちが興味をもたないのだ。絵で見る日本史「ほろびゆくマンモスと生きる人間」は、良い試みだが、五年生になったばかりの子にはむずかしすぎる。
 マンガや小説にアッピールすることを一生懸命に考えている編集者たちが、こうしたページになると急に子どもの興味や理解度に無神経になるのはどうしたことだろう。
 特集読物「私たちの児童会」もおもしろい試みで賛成できる。だが、以上あげたようなページは、このままでは子どもが喰いついて来ないだろう。マンガや小説のページに比べて、ずっと読みづらい(組方、割付、頁数などの点)おもしろくするために、いろいろな工夫をしてほしいところだ。
 
生活の問題に切込め
 
『女学生の友』にゆくと同じ小学館と思えぬくらいガラリと変る。『中学生の友』では、時の話題、世界の話題、科学の目、日本の文化のあゆみ、国旗の知識、科学の話題などがあるが、いずれも二頁みひらきで、おそえものの観。これだけがいいというのではないが、突っこめば、もっと正しく中学生にアッピールするのではなかろうか。“知識の袋”ではなく、生活の問題に切りこみ、面白くしてゆけば、科学記事などは殊に喜ばれると思う。
 
希望もてる紹介ぶり
 
 学習研究社の『一年ブック』では、特に取りあげるものはないが、マンガ「らんどせる」(秋玲二)は軽いユーモアでよいが画面がくらい。にほんむかしばなし「おいもころころ」(鈴木寿雄画)で、日本昔話をこのぐらいに紹介できるなら、間もなく子どもに入ってゆけそうだ。『三年ブック』では残念ながら賞めたい頁はない。
 
美しい実話など
 
 講談社の『少年クラブ』五月号では、少年感動小説「ラッパの亀」(氏原大作文・林唯一画)と、ほんとうにあった話「感謝の捕物」(高村暢文・矢車涼画)の二つがとれるものといえよう。前者は、頭のおかしくなった亀という男が、比較的ヒューマンに書かれており、後者は美しい実話で、もっとくわしく紹介してもよかったのではなかろうか。
 その他では連載「風雲児義経」(沙羅双樹文・山口将吉画)は、山口の絵は古いし、文も闘いを中心にしているが、義経を中心として、まっとうな戦記ものである。しかし特に推奨するほどのものではない。少年詩「ぼくらの五月」(サトウ・ハチロー)も清潔だが、コトバのリズムに流されないようにしてもらいたい。プロレス「遠藤幸吉選手物語」(永見七郎)は半生の概要が比較的要領よく紹介されており、生活の上でも強さと正義をもつことが押し出されている。
 偕成社の『少女サロン』ではユーモア小説「コケコッコ物語」(森いたる分・武田将美画)と連載明朗絵物語「ペコちゃん」(北町一郎文・かじかんいち画)、マンガでは「おねえさん」(若月てつ)の三つが、比較的いいものとして推せる。
 光文社の『少年』では中扉の「○月の絵ごよみ」がいい。少年映画館「一五〇〇メートル快勝」「ふろたき大将」はもっと大きく取り上げても良いのではなかろうか。
 
一応成功した読物
 
『少女』の「私のグチ日記」(森いたる文・石田英助画)は健全な読物といえよう。生活の中の、ありそうな事実に親しみを感じさせ、一応ユーモア(言葉の)も成功している。実際に子どもたちに読ませて見たところ、「読んでいて気持がいい」という感想が多かった。これは“健全さ”への子どもの関心の現われと見ることができよう。この作品の言葉のユーモアには、たぶんに駄ジャレ的な面もあるが、一般マンガよりはいい。実際に子どもたちが面白がったところを左にあげてみると----
「綿貫先生のアドバルーンみたいなおかおながめて…」。電車が混んで「おまんじゅうだったら、とっくに、アンコがはみだしててよ」。忙しく夕食の支度をするところで、「お米といでちょうだい」「おとうふ、買ってきてね。それから…」。主人公の愛子が女中さんと間違われて怒り、スリコギを振りあげたら「ワァ、おそろしく、気のつよい女中だ」……。赤ちゃんのため、オムツをぬってあげたら「まあこれじゃ、ぞうきんだわ」と、ねえさんに笑われ、「じぶんだって、ざぶとんみたいなおむつ、つくってるくせに」。
 
こうしてほしい
 
 以上を検討してきて、結論めいたことを言ってみれば----
1・北条誠大林清小松崎茂などの既成作家に編集者がよりかかりすぎているのが欠陥である。意欲的な新人にある程度の紙面を解放してはどうだろう。
2・映画物語などは決して悪いものではない。取り上げ方に工夫がいる。映画会社の広告(予告篇)じみた取上げ方から脱して、長いもの(相当ある)を、もっと丁寧に取上げるべきだろう。できれば鑑賞のカン所なども取上げて見ては?
3・学園ものが、あまりにも学習くさい。先生根性がまる出しであり、しかも子どもの現状に不感性である。
4・全体の編集に統一がないのが問題だ。もっと企画に力を入れ、子どもたちのものにすべきである(現状では編集者の勉強不足が明らかだ)。
 
各界の反省たかまる
批判に応えて努力
「児童雑誌編集者会」誕生
 
 児童雑誌批判の声が十把ひとからげの域から具体的なものになるにおよんで、雑誌編集者側もようやく具体的に動き出した。組織的な動きとしては日本児童雑誌編集者会(代表・小学館浅野次郎氏)の誕生があげられる。同会では今後、雑誌をよくして行くために大いに反省勉強し、評論家に編集者側の意見もきいてもらうようにして行くという。
 この会としての動きは今後にあるわけだが、すでに各社の編集者たちは、それぞれの編集会議において反撥したい批難はあるにしても反省、自重しなければならない点は大いにあることを認め、何とか努力しようという動きをみせている。秋田書店などは、滑川道夫氏を囲んで研究会を開くという熱心さである。
 
編集者の意見
 
 また「東京児童マンガ会」の編集者と話しあう会、「日本子どもを守る会」主催の出版社、母親、作家の懇談会(四月二十日)や、「七日会」主催で行われた編集者、さしえ画家、絵物語作家の懇談会にも、各社編集者は多数出席、いろいろ意見をのべている。二十日の会で出た編集者側の主な意見をひろってみると----
 グロテスクな絵、ちなまぐさい絵はできる限り書きなおしをしてもらうようにしているし、一般に、画家の選定には慎重を期している。(集英社・石橋氏)
 わるいものを駆逐できなかったのは、よいものを出し、よいものを育てる努力が足りなかったのだと反省している。編集者、作家、批評家の三者が一致して、面白さにおいて、現在の強い刺激に十分代わり得るようなものを育てて行きたい。(小学館・長田氏)
 批評家に不良文化財と烙印を押されることより、子どもがどう受けとっているかがわれわれの問題で、子どもが満足しているならそれでいい。現在の傾向はやはり、社会的環境から来ている。面白さは必要だ。ただ娯楽ものを読むためにあまり時間をとるのは心配だ。フロクをへらして、よいものをつくって行く努力など、協定すればできると思う。(秋田書店・森田氏)
 編集者としてもいやな仕事をしなければならないこともあるが、現状では一社だけよくしたらつぶれてしまう。ひんぱんに、こういう懇談会をひらいて欲しい。(少年画報社・山部氏)
「子どもがとびつくものであれば子どもに支持されているので、それだけが児童雑誌の身上である」という考え方がまだあるのは遺憾だが、とにかく現状ではいけない、何とかいいものにして行こうという気持を全部が持っていることは、それだけでも心強いことだ。
 
積極的に動き出す
 
 五日後に開かれた「七日会」の懇談会では、編集者側は一様に、こんど、本紙をはじめ全国のジャーナリズムが児童文化を多くとりあげはじめたことを、非常にいいことであり、むしろおそかったといっている。批難への説諭や希望はあるが、批評の対象になり得なかったことが低俗化を招いたことを思えば、対象にされはじめたことは喜ぶべきことだ。今後とも文化時評的にとりあげてほしい。たたくばかりでなくほめることもしてほしい。マンガや絵物語、時代もの、冒険ものはみんな悪いというのではなく、テーマが問題なのだから、面白さの質を研究しあって向上させて行きたい。編集者の集りもできたし、団結して行き過ぎにあたって行きたい。等々、よい方向へ持って行くために建設的な批評を望む積極的な態度がみられた。
 
もっと意識を高めよう
教師・父兄・子供の話しあいを
 
 父兄、母親の関心もようやくたかまり、編集者、作家との懇親会では、お母さん方が編集者の痛いところを突いたし、地域によっては“買わない”運動もおこり出しているが、一般には、母親の意識はまだ低い。ひどい絵やことばにびっくりして、すぐ法で取締ってくれと云い出す母親が多い。「残虐ものには顔をしかめても、スターものや戦争ものは悪いと思わない人もいる」(志水慶子氏)という。
「雑誌は今の社会の子どもには必要なものとして存在している。この認識の上にたって、母親が手を結ばなければどうにもならないということ、学校でも学習時間に雑誌をとりあげてほしいなどの声が出はじめた。
 
教師への大きな期待
 
 この父兄の希望に応え得る教師はどれだけいるだろうか。不幸にして読書指導はまだまだ“課外”という観念しか持たない教師が多いようだ。まして一番よまれている雑誌をとりあげて正しく指導している教師は非常に少いのが現状だ。
 日教組の「第四次教育研究全国集会」でも雑誌や、マンガの読書指導の体験から討論が行われ、具体的に子どもは何に心をうばわれているかを知り、親も含めて、目を開かせるためにねばり強く話しあいを重ねなければいけないという反省が出た。
 
職人根性を捨てよう
絵物語・挿絵画家も動く
 
 作家側では、まずさしえ、絵物語作家の集り、「七日会」の動きがあげられる。同会では二十五日編集者との話しあいを行ったが、会員外の無関心な画家にも呼びかけ、職人的な気持をすて、芸術家として、人類の明日の幸福につながるよい仕事、独自性ある仕事をして行こう(鈴木御水氏)という反省と共に、やはり具体的な批評がくり返しなされることを望んでいる。(山川惣治氏)逆コース、戦争への道には断固反対すべきだという声(永松健夫氏)も出ている。
 
漫画家も反省
 
「東京児童漫画会」では、現状について、編集者にも罪があるという見解にたって、謙虚に意見をきき、編集者との協力で雑誌の質を向上させようと、四月十一日各社編集者との懇談を行った。続けて、漫画家同志遠慮のない批判ができるような空気をつくり、学校の子どもや先生の意見もきく機会をつくりたいといっている。
 その他、作家松井みつよし氏は「刀やピストルが出てくるから問題なのでなく、取材がよいところにあることが問題である」と発言。加太こうじ氏も「執筆者に無関心な者があまりにも多く、再軍備につらなる好戦ものを書くのもこういう人だから、無関心派を批判すると共に、反対に、逆コースに抵抗、努力している者には励ましを与えてほしい」といっている。
 
【七日会】会員約五十名。主要メンバーは山川惣治、梁川陽一、清水御水、水松健夫、古賀亜十夫、中村猛男、前谷惟光、中村英夫、武田将美氏ら。
 
【東京児童漫画会】会員四十名、会長・島田啓三、福会長・秋玲二、原やすお。主要メンバーは入江しげる馬場のぼる、太田二郎、福原芳明、山根一二三、松下井知夫手塚治虫、吉沢日出夫。
 
各団体の動き
 
 東京都出版物小売業商組合中野杉並支部では、小売商といえどもやはり売れればいいではすまされない、文化指導の一端を担うものとしてすすんで、よいものを店頭に並べお客にすすめたい、あまりひどいものは“売らない”運動にまでもって行きたい、という声が出ている。
 また出版団体連合会を中心として出版倫理化委員会ができ、出版社、取次店、小売店三者が一体となり、近く出版物浄化の声明を出すというし、全国出版物卸商業協同組合(理事長・松木善吉)では浄化声明を出し、「エロ・グロ的艶笑雑誌の絶滅を期し、発行責任者の住所と氏名を明記していないものは取り扱わない」旨発表。
 中央青少年問題協議会に設けられた「青少年に有害な出版物、映画等対策専門委員会」では、関係各界の自粛運動と、よいものを育成する運動をおこすこととし、今回は取締立法化は今後の研究課題として、見送ることに決定する見込み。

 …なんかあんまり「良いもの(作品)」で読みたいもの、ない…
 今となっては俗悪とされていたものも、良書として推奨されていたものも、そのほとんどが消えてますけどね。
 
 日本読書新聞の話は、もうあと少しで終わります。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年4月18日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
 今回は「児童マンガの実態」となってますが、元記事の通りです。

児童マンガの実態 その三
マンガ・ふろく・言葉など
 
“児童雑誌の実態”は残虐・戦争もの(三月二十一日号掲載)および少女もの(四月四日号掲載)に続き、今回はマンガ・ふろく・言葉その他の点についてその実態を分析してみた。例によって本紙学校図書館欄担当の各氏の協力と読者諸氏の投書を参考にして本紙編集部がまとめた。
 次回(五月二日号)では、これら低俗化した児童雑誌からいかに子どもを守ったらよいか、その対策について実例を挙げて考えてみる予定である。読者の皆さんからの資料・意見の提供と協力をお願いします。
 
推せん者の責任も
 
 児童雑誌の中の二、三には、大学教授などの推せん文がのっている。ひどく抽象的な推せん文だが、おそらく具体的に内容を検討した上での推せんではあるまい。児童雑誌をここまでに低俗化させてしまった責任は、こういう大学教授の態度にみられる大人たち、教育界全般の、無関心さにもあったことを、商業主義を責める前にもう一度反省してほしい。
 
漫画でない漫画
量も多いが内容がひどい
 
 まずマンガが本誌(ふろくは別として)総頁中のどの位の量を占めているかは左表の通りである。(いずれも五月号)マンガ専門誌とうたっている『漫画少年』は別としても、多いのになると『二年ブック』五五・四%、『三年ブック』四四%、『一年ブック』四二・三%がマンガ頁となっており、(最も少ない『少女サロン』が一一・七%)児童雑誌全体で平均をとると、マンガ頁が全誌面の二割以上を占め(四月号は二五%)各誌平均一〇篇のマンガが入っていることになる。
 
育てよう良いマンガ
 
 しかしマンガで問題になるのは今の場合量よりも内容だ。(量が多いことは必然的に作家の乱作という結果を招く訳だが=別項参照)。例えば大部分がマンガの『漫画少年』(学童社)には、残虐・殺人・闘争ものはほとんど見あたらないし、読者のマンガ投稿の頁も豊富でいいものを集めており、何でもマンガ物語にしてしまう近頃の傾向を廃して読者と共に健全な、おもしろいマンガを育てようと努力しているのは注目していいことだ。
 マンガという形式そのものは、元来排撃すべきものではなく、むしろ視覚教育の点からもっと有効に使われていいはずのものだが、現在児童雑誌にみられるマンガはマンガの良いところをまるで失っている。マンガの特長である“誇張”を悪用して、極端な破壊・暴力を痛快にすりかえていること、絵物語と同じように熱血・闘争もの、時代ものが圧倒的であること、どんな物語もたちまちマンガ化されているなど、今やマンガ本来の面白さとは全くかけはなれた低級なマンガがはんらんしている。
 
考える力を奪う
 
 マンガで、絵の側に説明・会話が書いてある形式は、ほとんどなくなり、みんな“吹き出し”(絵の中の人物が吹き出している形式)になっている。その方が苦労なしに読めるからだが、これと一しょにあげられるのは、マンガ絵に説明の擬音が多いことだ。キセルでたばこをすっている画面には「プカリ」という語、ころんだ絵には必ず「ステン」しょげた態度として「シオシオ」にらみ合った二人の視線がぶつかり、星が出て「カチッ」馬がはしっていれば「パカパカ」矢がとべば「ヒョーッ」ひきずっていけば「ズルズル」投げた弾があたれば「ボーン」当てられた方は「ぶあ」切りあいや格闘の場では必ず「やー」「トーッ」「タッ!」
 これはもちろん絵のまずさを補うものでもあるが、こうして何一つ考えずに安易に読めるマンガばかり見ている子どもたちに説明のない絵をみて理解する力、考える力が養われるはずはない。事実、サイレント・マンガ「クリちゃん」の面白さを理解できるのは五、六年生でも少いという。
 
貧困さをごまかす
 
 さし絵、マンガに盛んにみられるクローズアップは、やはり物語の盛り上りではなく、絵のものすごさで内容の貧困を補おうとするものだといえる。クローズアップのほかにも、マンガには映画の手法-カメラアングルやカットバックが盛んにとりいれられている。
 絵の問題ではほかにもある。一般にあくどい色彩、顔をそむけたくなるグロテスクな絵が多いことはすでにのべたが、アメリカ通信社との特約で、原色のひどい絵の闘争ものをのせているのがある。(『漫画王』『太陽少年』)アメリカの子どもたちがこれらの読みもののために、どんなに害われているかは、アメリカでも問題になっている時、“特約”“提供”と得意げにひどいものを輸入してもらいたくないものだ。現に輸入もののまねとみられる類の絵が一番ひどい。ピストル・殺人の原色絵を外国から買うより、こちらのいいものを育てる努力こそ必要ではないだろうか。
 
怖るべき時代マンガ
 
 マンガの中、時代ものの占める量は相当なものだが、特にマンガの場合は、時代ものといっても服装や道具だての一部だけがチョンマゲ時代で、ほとんどがパチンコ屋を登場させたり、城を出て行くさむらいが電気アイロンやラジオをかついでいたり、空にはロケットが飛んでいたり、トニー谷が一しょに槍持ちと歩いていたり----そういう時代ものでも現代でもない“無時代もの”だ。家康とか、秀吉とか、歴史上の人物が登場するものがたまにあっても、ただ筋を進行させる道具として登場させているだけで、史実とは何の関係もない。
 例えば、まぼろし城に家康がのりこんで、まぼろし党を味方にし、白頭巾が活躍する。大阪方は何もしらない。「天下をねらう家康の魔手はのびる----パチンコ姫、よわいのすけのかつやくは?」という具合である--『痛快ブック』四月号「パチンコ姫」若月てつ--
 トニー調や、パチンコなどで時代ものマンガも、まるで現代の感覚だし、スムースに子どもの中に入るだけに、子どもたちはチョンマゲを現代のものとしてうけとっている。西部劇に出てくることが現在もあるのだと思っている子どももたくさんいるというから、あまりにふざけた時代マンガの洪水にはバカにできないものがある。
 
名作マンガの弊害
 
たけくらべ」「家なき子」「二十四の瞳」「ああ無情」など多くの名作が、マンガになっている。ある名作マンガ「家なき子」の一こまに、母を探し歩いている子どもが街角でバナナの皮にすべってステンところぶ場面があったところ、「『家なき子』のお話を知っていますか?」という先生の問に「ああ、バナナをふんでステンところぶお話でしょう」と答えた子どもがいるという。
「名作マンガ」については、それを糸口に子どもが名作に親しんで行くというのが出版者のいい分だが、あまりに末梢的な部分のみ印象的にした名作マンガから、どれだけ原作に近いものを受けとれるか疑問だし、事実、一度、マンガで名作に接した子どもたちは、長い作品にとり組む意欲をなくし、あの話はもう知っているといって、リライトされたものでさえ読もうとしないのが大部分である。父兄はまた名作ものならば有害なものとは認めず安心して与えているのだから、安易な名作のマンガ化は考えてほしい問題だ。
 
ふまじめな生活態度
荒唐無稽・非科学性はザラ
 
 荒唐無稽、非科学的な箇所もかなりある。例えば、アメリカのフォード会社製のどれい型ロボットが、若がえりのガスをぬすみに工場へ侵入したり、薬をのんだサルが、往来でローラーをさしあげてなげたり、原子薬Bをのんだ類人猿まがいの原子男が出てきたり、ガマが胃袋を出して洗ったり、目をつぶされた浮寝丸がネコの目を入れたら夜でもみえたり、----こういう類は無数にある。
『少年』連載「少年ザンバ」(阿部和助・四月号では別冊ふろく)はアマゾンにすむ日本の少年がビラモン山にあるインカ神殿にどれいとなっている。そしてそこに出てくる動物はみんな中生代のものだが、これだけ道具だてがそろっていると、本当にアマゾンにおこっていることと思いこむおそれもある。
 現に東南アジア、アフリカ諸国に対する認識は“未開地一般”というものでしかない児童が多いのは「少年ザンバ」に類する読みものからの知識によっているのだ。
 猛獣密林もの、空想科学・冒険ものに多い無国籍ものも、子どもの日本と外国に対する正しい認識をさまたげている。
 
ふざけた生活意識
 
 ふまじめな生活態度は至るところにみられるが、『小学五年生』四月号「パピプペポちゃん」(入江しげる)では、五年生になった女の子が「かおりたかきロマンチックな本」を読もうと志し、「クラスのあこがれのまと」になることをめざす。「もう弟などとはあそべないのエヘン」という古い年齢意識をひけらかし「おしとやかに」なろうと気どって歩く。オセンチな詩をかく。そして制服をきて髪をおさげにすることをもって女学生(作者は女学生という今やふるめかしいことばをつかっている)の理想としているかのごとく感じさせる場面を出し、ひとに笑われて「まるで悲劇の主人公みたい」となげく。「やさしくなぐさめてくれるおねえさまがほしい」という。こういうたぐいのものは少女ものにかなりある。何ともなげかわしい生活態度が多すぎるのは、みのがせない問題だ。
 このほか、貧乏な主人公が、じみちに働いてお金を手に入れようとはしないで、賞金をあてにして拳闘に出、もらったお金であわれな子どもを救う話、家が貧乏だからスターになってお金持になる話も多い。
 買収されて客にしびれ薬をのませた茶屋の娘は、小判をもらって「オッホッホ ちょいとやって小判が一枚か、わるくないわね」といっている。----『痛快ブック』五月号「鬼面山谷五郎」(武内つなよし)----
 強くなる薬をのんで柔道や拳闘の試合に勝ったり、試合場の下から釘をうち、それで相手をひるまして「チャンスざんすね」とうちこむ「トニー谷の拳闘王」などフェアでない態度も沢山みられる。
 児童雑誌の中に正業にたずさわっている人間、現実の生活の中で生活している人間を見出すことはまず無い。
 少女ものに見られる“あこがれのお姉さま”式の、上級生との関係は、中学が義務教育となり、大部分が共学の現在、まさに、少女雑誌のためにだけある感がある。
 共学の中学が舞台になっているマンガが少なく“女学生”が沢山登場するのは、現実生活に根をもっていないマンガの姿をよく示している。
 
ここにもトニー調
逆行する「ことば」の問題
 
「ことば」の問題では、まずヤクザ言葉、トニー谷調の言葉が、あまりにひどくとり入れられていることと、それにもからまるが、問題をまともに考えることをさせないで、事実からそむけさせるような言葉のもてあそびが多くみられることが指摘できる。
「フン 大きな口をきくじゃねえか、だれだ、てめえは」「こどもあいてにドスをぬくようなチンピラどもに名のるひつようはないようだな」「フフフ 松、手をひくんならいまだぞ」----『痛快ブック』連載マンガ「パンチくん」(福田福助)----「おーい、みんな手をかせ、玉が逃げたぞう」「ほざきやがるな」----『野球少年』連載小説「ぼくらは負けない」(田村泰次郎)----
「げんこつ和尚」(夢野凡天『野球少年』)という時代もの連載マンガにはトニー谷が登場する。志水港をおとずれたげんこつ和尚と槍持とトニーは、次郎長のところでマンガ家にあう----「先生、あっしもわすれちゃいやザンス」。先生は同誌連載マンガ「森の石松」をかくのでいそがしい、じゃまにならぬよう帰れと言われて、
「おやまかちょいちょいゆであずき」「だんなあすこの宿へとまるこそよけれけれ」「ここが石松のうまれた家ざんしてね」「アチャ」。
 トニー谷は登場しなくてもトニー調は盛んに使われている。例えば
「やつを買収することはできんか」「おだめざんすね、アトムはあれでしっかりしていますからねえ」----『少年』連載マンガ「鉄腕アトム手塚治虫)----
 しかし一番ひどいのはやはり『少年画報』四月号別冊ふろく「トニー谷の拳闘王」(前谷惟光)だろう。これはザンス調だけでなく他にも沢山の問題をもっている。拳闘でフラフラになっているのに「つらいざんすね……ホホホ、だいじょうび。」投げられて塀を突き破って頭から出てきたトニーは、まだ止まらないまま「おこんばんわ----ここはどこざんす」といった調子。
 
新語・珍語ぞくぞく
 
『小学四年生』四月号別冊ふろく「松山たぬき合戦」(えとう・ふみお)の中では、税金にあえぐ民家のやせた子どもの一人が言う。「あさおかゆ、ひるもかゆ、ばんもかゆ、それであたしはやせたのかゆ?」
 驚くことにぶつかっても、おどろいている人間のセリフは「ヒャーツなんじゃらほい」とか「アジャア」とか「おどろきもものきさんしょのき」といった式である。「ござりやす」「おそかりしか」「あじゃ」「フギャーざんねん!」というようなものも実に多い。
 このほか『野球少年』五月号の「風の弥太郎」(竹内つなよし)には葡萄の新しい技として「たつまきなげ」という語を、『少年』五月号「ダルマくん」(田中正雄)では「つじなげ」という語を作っている(つじなげというのは明治時代の柔術がよくやった柔道のつじぎりのようなものだと説明している)。
「かくてちちうえは、ひごうのさいごを…」「ジュン真ヒゾク」というような今の子どもには解らないような古い言葉も(しかもカナ書きにして)見うけられる。
 人間の解放は言葉の解放とともにあるという線で、戦後の教育は素朴な感動を言葉にすることに力をそそいできたはずなのに、一方こういう言葉遣いが雑誌の中にはんらんしているのでは情けない。
 
影響は現れている
 
 こうした言葉の影響は、読者のページや、連載ものに寄せられた子どもの投書に、さかんに現われている。
「『花いつの日に』を読むたびにかなしくなってないちゃうんだけどやめられないわ」
「二月号のふろくの“人気スター劇場”よかったわ。大好きな中村の錦ちゃんや東のおにいちゃまが沢山出ているんですもの。一ぺんでいいから錦ちゃんにだいてもらいたいナー。アジャーネ(エヘヘ……)」----『少女の友』四月号より----
「ぼくは、まぼろし天狗が大好きです。悪人をやっつけるあのかつやくぶりはすごいですね。」
「ぼくは柔道三段で黒帯です。『一二の三太』がんばれ!!」
「百太郎がんばれ!うしお先生がんばれ!漫画王もがんばれ!」----『漫画王』五月号より----
 
付録は“別冊”の全盛
 
 児童雑誌というとすぐ「ふろく」が問題とされるが、ひところ騒がれた金属性のデタラメな玩具などはさすがに(鉄道輸送制限などのためもあって)影をひそめ、それに代って「別冊」全盛時代となった。二九誌のふろく数の合計と、そのうち別冊の占める数は次の通り。
     ふろく  別冊
四月号……九一点……五一冊
五月号……八八点……五〇冊
「ふろく」すなわち「別冊」である。一誌あたり三-四点のふろくをつけるのが普通だ。(ただし例外として『漫画少年』の如く皆無のものもある)。
 ここで見逃すことのできないのは、子供たちがなぜ「ふろく」に惹かれるか、ということだ。第一に別冊ふろくには驚くほど立派なもの(外見)がある。例えば『ぼくら』の長編漫画「川上選手物語」『なかよし』の名作まんが物語「牧場の少女」『少年クラブ』の怪獣映画絵物語ゴジラの逆襲」『少女クラブ』の世界名作「家なき子」(以上全部五月号)など、すべて堅表紙で単行本なら市価一〇〇円はするほどのシロモノだ。これが“本誌つき”で一〇〇円前後で買えるのだからたしかに安い。だから子どもたちの間で別冊ふろくの売買が行われるという事態を生じてくるわけである。
 
罪ふかい玩具フロク
 
「ふろく」には別冊以外にどんな種類のものがあるか----。
 ブローチ、スター・ブロマイド、時間表、壁かけ、カード、きりぬき、双眼鏡、組立カメラ、紙かばん、ボール紙製ピストル、忍術巻物、マンガ巻物、シネラマ・ブック、三色ノート、がくぶち、ボール紙製モデル・ピアノ…。
 といったぐあい。題名だけだと一寸したものに思えるが、手にとって見るとガッカリするようなものばかりだ。組立式のものは、大てい“出来ない工作”ものであり、全く駄菓子屋のオマケと変らないといわれても仕方のないような“子どもダマシ”ものが大部分だ。
 表面だけを飾りたてた〈イミテイション文化の象徴〉ものを、粗略にあつかう習性を子どもに植えつけてゆく、という悪い影響も考えられる。一、二度使うと壊れてしまうような安手な玩具などは最も非教育的で、メンコや忍術巻物などよりも、かえって罪がふかいともいえよう。
 
学習フロクにも問題
 
 学習的なふろくにしても、その意図は一応わかるが、それらを検討してみると色々問題がある。特に社会科ものについては次のような点が指摘できる。
1・逆コース的な社会科の主張にいちはやく便乗し、子どもにものしりになることが社会科の学習だと考えさすようなものを作ったり(地理・歴史のダイジェストもの) 2・誤れる現状肯定の社会解説をしたり 3・古い資料を平気でのせたり 4・まちがった統計表をのせたり 5・不正確な地図やグラフを粗製したりしているものがほとんどである。ことにこれに○○大学や国立付属の先生が執筆(?)しているのが大問題である。
 いずれにしても、これだけの努力と資材を本誌にまわして、本誌自体を立派なものにしてほしいという意見は正しい、という結論にならざるをえない。
 
マンガ頁の占める割合
各誌とも五月号(「漫画少年」を除く)
 

誌名 総頁数 マンガ頁 篇数 総頁数とマンガ頁との%
一年ブック 78 38 8 42.3
二年ブック 148 82 17 55.5
三年ブック 182 80 19 44.0
小学一年生 128 23 4 18.0
小学二年生 182 30 6 16.5
小学三年生 252 57 7 22.6
小学四年生 296 51 10 17.2
小学五年生 338 63 8 18.6
小学六年生 346 49 8 14.2
幼年クラブ 202 56 10 27.7
ぼくら 224 49 11 21.9
なかよし 220 46 8 20.9
少年 250 65 26 26.0
少女 248 40 11 16.1
おもしろブック 256 56 12 22.7
冒険王 234 55 9 23.5
野球少年 220 38 9 17.3
漫画王 218 65 15 29.8
少年画報 254 50 9 19.7
痛快ブック 216 49 11 22.7
太陽少年 200 34 6 17.0
少年クラブ 350 71 12 20.3
少女クラブ 278 54 11 19.4
少女の友 272 42 7 15.4
少女サロン 274 32 6 11.7
少女ブック 246 46 11 18.7
女学生の友 306 39 6 12.7
中学生の友 340 43 5 12.6

『パチンコ姫』『少年ザンバ』『トニー谷の拳闘王』ちょっと読みたいです。しかしトニー谷、当時はそんなに人気あったのか。
 このあたりの『鉄腕アトム』というと、「1955/02-1955/09 若返りガスの巻(原題:生きている隕石の巻)」かな?
 アメリカで低俗児童文化を思想的に批判したテキストとして、手塚治虫が挙げているものに、A・E・カーン『死のゲーム』というのがあるんですが…。
 なんと、元テキスト(英語)全文が以下のところで読めます。
Shunpiking History WAR ON THE MIND ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年4月4日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」

児童雑誌の実態 その二
 
 児童雑誌の実態・その一(漫画・闘争・戦争もの)=三月二十一日号=に続いて、今回は“少女もの”に焦点をあててみる。少女雑誌『少女』に例をとると、全二五四頁のうち、人気スターを扱ったものが六五頁、少女おセンチものが六九頁を占めている。すなわち少女雑誌は人気スターの記事とおセンチで全体の約半分がうずまっているわけだ。そこで、これらの雑誌が人気スターをどう扱っているか、少女小説はどんな内容なのか、さらにそれが読者である子どもや少女にどんな影響をあたえるかを分析してみた。今回対象とした雑誌は、少女ブック(集英社)なかよし(講談社)少女(光文社)少女の友(実業之日本社)少女クラブ(講談社)少女サロン(偕成社)の六誌である。
 この記事は、本誌学校図書館欄担当の各氏、本誌編集長の共同作業に基づいて樋口太郎氏(解読不能)がまとめた。
 
ずらりと少女歌手 かくて作られるミーハー族
 
 大半の表紙が、赤をバックに、けばけばしい色彩で、少女歌手のバストを出す。これらの少女歌手は、各誌共、内容として約二十頁にわたりグラビヤにも使われる。その度合いはざっと別表の通りである。
 その扱われ方をみよう。『少女クラブ』では「百年後の学校」「つよいぞフェンシング」「義太夫一日入門」、『少女サロン』では「私の春のスタイル」「ひばりの桃太郎」、『少女の友』では「もしも童謡内閣が生れたら」、『少女ブック』では「お花見珍道中」「巡礼おどり」、『なかよし』では「さいたさいた=舞妓」「こんな学校見たことない」「これはびっくり=商店がスポンサーのページ」等。
 これらはすべて、少女歌手が本来の歌をのけものにして、珍妙な、娘義太夫、巡礼、舞妓などになったり、はめを外した馬鹿さわぎの様を表わしたものである。
 義太夫、巡礼、舞妓などを美化している----『なかよし』の「なつかしの舞扇」----こと自体、問題であるが、これにおどらされる少女歌手自身、もしこれで得々としているなら、彼女らは、すでに心の健康を失った人間のいたましい形骸であり、これを敢てする出版社および成人の、人間侮じょくと搾取はにくみてもあまりある。
『なかよし』の佐伯千秋「花うつくしく」は「とつぜん映画スターになった市川和子さんのかなしく美しい」スター物語。これによると「あたし、試験をうけたい」という勉強への切なる願いは「じぶんでやろうと思ったことは、やりぬかなければいけません」という母によって、「手にトランクをもたせ」られ、ロケにおし出されて、はなはだ暗示的だ。
 しかし、これらの写真をみた読者の多くは、ノド自慢に出て、あわよくば……というはかない望みをいだき、さらにその服装をまねて、一歩でも近づきたいと望む。同時に、どうせ私なんかという劣等感をもっているものも多いことは見のがしえない事実である。
 そんな心理に対しては、愛読者代表として、これらのスターに接し得る機会を抜目なく与えている----「こんにちは八千草さん」(少女クラブ)「わあうれしい」(少女)など。「モシモシ鰐淵晴子さんですか」(少女)の記事もその例に洩れない。
 ちょっと趣向を変えると、小説の主人公をテーマにして“ミス・さつきさん”を六八七名の応募者中から選抜して発表する手などもある(『少女の友』)。いったい「さつきさん」(梅田晴夫)とはどんな生態をもつのだろうか
 中学三年、エトワール女学院の人気もの、おてんばで、おひめさま気取り、夏、海で知りあった、アルバイト学生を従者の如くしたがえる。パパとママが「おけいこごとでもさせてみよう」と悲願を立てる。ママにつかえるパパは娘(さつき)にむかっても「君は、やって見るキモチがあるかどうか」というふうにオドオドたのむ。娘は「あたし、やって見てあげる」と答える。ブルジョアの浪費娘が完全に肯定的な形で、スターとして描かれているのである。その“ミス・さつきさん”なのだ。
『平凡』『明星』に通じる、これら少女雑誌のスター登場は、とにかくスターを出せば事足りるので、内容はどうでもいいのである。だから、マンガに顔だけ人気子役の首を写真ですげかえたグロものが登場したり(『少女』)マメ写真とマンガと抱き合わせたりする。ミーハー族の映画観は、こうして作られていく。次のような、小説の主人公のスター見立てもある。
「わたし、配役をきめてみました、王女ナスカ鰐淵晴子、白ゆり少女のさゆり近藤圭子……」(『なかよし』投書らん)編集部が答えて「きっと、すばらしい映画になるわ、みなさんにつたえておくわね」
 
少女小説は類型化 期待の押売りする虐待小説
 
 連載少女小説・小糸のぶ「花いつの日に」(少女クラブ)で、主人公梅原ゆかりのたずねる東京の母と、事故死した父とのいきさつは、明らかでない。読者の子どもたちは「そんなこと、どうだっていいのよ」という。育ての母の、育てた理由も同様。その養母が、ゆかりを助ける少年秀夫の継母として登場するいきさつ、理由も問題でない。要するに、「先生、はやくしあわせにしてやってください。わたし、かわいそうで、なみだが出ました(千葉市、O子)(『なかよし』)なのである。
「花いつの日に」は、善意の人が多く登場するのだが、主人公自身が、つまらない、あさはかな考えで、自ら、不幸を求めるような形をとる。一方、ねたみ、ひがみ、あるいは何という理由なしに、主人公を虐待するものが出る。自虐、他虐、少女小説は虐待小説である。そして、小説の最後には、本文よりも涙をさそい、心わかせることばを羅列して、期待の押売りをする。
『なかよし』の連載マンガ「白雪小僧」に「白雪小僧って錦之介さんに似てるわね」(近藤圭子)とあるのが事実なら、何十万かの愛読者を代表する一つのタイプがまさに逆襲(?)男子だと見てもいいだろう。少女スターたちを身ぐるみはいで、なお骨のずいまで利用し尽くす商魂のたくましさも然ることながら、完全にそのとりこになっている哀れむべき少女たちヒューマニストならずとも、リツ然とせざるを得ない。
 
馬鹿な子に仕立てる
 
 少女小説の一つの型に“瓜二つもの”----「ナスビ女王」「星はゆれるよ」と“双生児もの”----小旗風彦「花の輪にいのる」大林清「あかい花、しろい花」(四つとも同一誌=『少女』=にあるとは?)がある。
 双生児ものは、必ず姉妹が順々にしかも、富貴にわかれて、金持の方が虐待されるということになるらしい。西本妙子「ふたつの花」(なかよし)は、一方は金持ちの美女になり、他方は似顔画家として生活する。「神さま、秋ちゃんをお守りください!! あたしたちをあわせてくださいませ」と、事情をきかされた金持ちの養女はかく祈る。これが「かなしい写真物語」なのだが、こんなものは警察へたのめばすぐ見つかるはず
 このように、ちょっと考えれば読者のだれでもが気づくものを、写真・挿画・ことばの魔術にひっかけてハラハラさせる。つまり、読者を考えさせまい、類型的な感情だけに訴えよう、バカな子どもに仕立てようというのが少女小説・雑誌のミソなのだ。
 北条誠「星も泣いてる」(少女の友)杉本苑子「涙のアルバム」(少女サロン)二反長半「虹よほのかに」(少女クラブ)同「母を呼ぶ鳥」(なかよし)大林清「星に誓いし」(少女の友)同「涙の母子鳥」(少女サロン)等の題名、あるいは主人公の名----感傷に震えること専門の感がある。それを具象化したのが挿画だ。
 
無性格な少女の画
 
 口が二つも入りそうなデカい目、三白眼、そして、ほほのあたり、胸の前にウロチョロと、不安、あこがれ等を表すような、病的な手があしらわれる。画家は変っても、その無性格ながは、みんな同じだ。人物のアクセサリーで、かろうじて見分けられる程度。ある読者はいみじくもいう。「みんな同じ形になっちゃうから、いろいろ手を」あしらったのだと。
 この挿画の影響はばかにならない。学芸会で早速、そのポーズが利用されているからである。
 現にこれらを愛読している子どもが、卒業式の練習に涙をあふれさせ、他人の卒業に、率先して号泣したという実例があった(東京下町の某小学校)。あらたかな現示である。そして、身にふりかかる問題には、すべてお手あげの形となる。いたずらな涙腺刺激の反射が急になるだけだ。これでは、人生の真実は見きわめられない。いや、人生からの逃避、思い余れば家出し、よいおばさんの出現をユメ見たり、あるいは自殺にまで、という傾向に走らせる危険性もないとはいえまい。
 
処世観をゆがめる
 
 少女小説には、また一つの型がある。“母の秘密”をテーマにするものだ。北条誠「星も泣いてる」(少女の友)富沢有為男「山のさっちゃん」(少女クラブ)大庭さち子「白ゆり少女」(なかよし)などがそれ。
 これらは恋愛の取扱いにつながる大きな問題である。
 青年の恋愛を戯画的にとり入れた「春のマンガ劇場」、先生の恋愛をからませた野呂新平「聖しろバラ女学校の鐘」(ともに『少女』)などはあくまでも恋愛を皮相的に、むしろ大人の眼で、一は皮肉に、一は表面的にとり入れているのだが、こうした大人の世界へのチン入は、「アンミツ姫」以下いくらもある。このようなものは、子どもにとって、人生の真剣な問題を皮相的にかいま見させ、ゆがんだ処世観を与える結果になる以外の何ものでもない。『少女の友』のストーリー解説では、「マイラも夜の女の群に加わって」いった時に、ロイに再会する。「後悔のおもい」「ロイを愛すればこそ、自分の過去がゆるせ」ない。そして死。----という中で、読者の少女に、どこをわからせようというのであろうか。
 
ほしい生活的な面
 
 また、人気歌手を登場させた「のんき裁判」(なかよし)「わたしたちは女代議士」(少女)など、裁判官の権力的ことば遣い、国会乱闘のマネなどさせてみたり、その態度たるや、今日、討論や社会科学習の進んでいる学校からみれば、愚にもつかないナンセンスで、子どもも笑うに笑えない現状だ。そればかりではない、これらは、真面目に考えさせるべき、社会機構なり、成人の世界をチャカしてみるくせをつける恐るべき教材でもある。
 雑誌が、真に子どものためを思い、読者のプラスになるように考えられているならば、それは、子どもが現実に生きることの支えにならなくてはなるまい。
「グチ日記を読んでいて思わず涙が出ることがあるの。おかあさんがいないときは、かならずグチ日記を読むの。同じところを、何回くりかえして読んだかわからないのよ。…福井県、○子より」これは『少女』の「私のグチ日記」(森いたる)によせられた読者の手記である。少なくも、ここには現実の生活にいくらかの支えをはたしていることが語られている。それではこの「私のグチ日記」とはどのようなものであろうか。
 日記体の女の中に、毎日のありふれた生活がえがかれ、周囲の人々とのからみあいにおこる、わずかなグチを、ユーモラスに書いたものだ。
 ここではグチとなってはいるが、それは一つの自己主張であり、幾分でも生活的な面をもつとすれば、正しく読者はくり返し読むこともありうるだろう。他に代るような生活的読物がないからだ。子どもはあくまで健康な芽をもっているのだ。これをのばすことが出版社の重大な責務であり、ここに誌面革新の一つのメドを見出してもらいたいものと切に願う。
 子どもの健康な生きる力を、くさった成人の固定概念のわくの中にしばりつけようとすることなく、のびのびと健康なユメをもたせるように切りかえてもらえるのはいつの日のことだろうか。官僚統制のきざしはすでにあらわれている。こうした反動の動きに乗ぜられることのないよう、子どもの文化史の中に光りかがやく雑誌を作るように重ねて祈ること切である。
 
お願い
 
「児童雑誌の実態」の次回は“マンガ”と“コトバ”の点について分析いたします(四月十八日号の予定)。さらに、それにひきつづき、これらの児童雑誌からいかに子どもを守ったらよいか、また児童雑誌はどうあらねばならないか、などの対策を考えて見たいと思います。
 そこで、子どもたちに「こういうように導きながら児童雑誌を読ませている」というような実例、または「このように導いてゆきたい」という意見がありましたら、お寄せ下さい。そのほか、子どもたちが児童雑誌の「どういう点に興味をもち、どういう反応や希望を示しているか」などの調査があれば、その資料を提供していただきたいと存じます。(日本読書新聞編集部=東京都文京区小日向水道町六)
 

歌手・誌名 少女ブック なかよし 少女 少女の友 少女クラブ 少女サロン
松島トモ子 4 4 5 1 4 1 19
近藤 圭子 2 2 4 2 1 2 13
上田みゆき 3 2 1 0 2 3 11
小鳩くるみ 1 3 2 1 2 1 10
伴 久美子 1 1 1 1 1 4 9
古賀さと子 1 1 2 1 1 2 8
鰐淵 晴子 1 3 2 0 1 1 8
安田 祥子 1 2 3 1 0 1 8
岩田佐智子 1 1 3 0 1 0 6
美空ひばり 0 2 2 0 0 1 5
畑中香代子 1 1 2 0 1 0 5
島野世紀子 2 0 2 1 0 0 5
佐藤 茂美 1 1 1 0 0 2 5
田端 典子 1 1 0 1 1 0 4
川田 孝子 0 2 1 1 0 0 4
白鳥みづえ 1 1 2 0 0 0 4
21 27 33 10 15 18 134

 
各誌四月号、大人以上のコミで出ているものを除く

 いろいろものすごく読みたいけれど、どれも今では難しいようです。
 しかし、批判のポイントがなんかズレてて妙な感じです。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク