日本のロケット記事(報道)に関する奇妙な出来事(やはり朝日新聞がらみ)

中国のロケットについてあれこれサイトを見ていたら、こんなのが。
的川泰宣教授インタビュー(インタビュアー:野尻抱介
http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no17_19980725/special1-1-2.html


的川: 当時、糸川先生は表向きには「後進に道をゆずる」という言い方で退官されたわけですけれども、事実上は朝日新聞のキャンペーンですね。朝日新聞が「東大のロケットはやめろ」と猛烈なキャンペーンをしたわけです。
 もう朝日とも仲よくなっていますので言ってもいいと思うんですが、朝日に木村繁さんという人がいて、この人が糸川先生とどうも基本的に仲が悪かったんですね。とにかく朝日はそういうキャンペーンをした。読売や毎日はそっぽを向いていた。NHKは我々を擁護してくれて。なんか非常に奇妙なキャンペーンでしたよ。
 で、糸川先生は若い時から持論があって、「男が同じことをいつまでもやるもんじゃない」というわけです。10年に1回くらいは別のことをやるのが男ってもんだ、と。確かにそれを地でいったわけですね。

野尻: マスコミ受けはよかったんですか?

的川: よかったですね。だから当時の朝日新聞のキャンペーンだけは非常に異様な感じでしたね。

ここで、「木村繁・朝日新聞」であれこれ検索してみると、こんなテキストが。
↓[コラム]宇宙開発報道のエース
http://www.jsforum.or.jp/pr/after_report/colum/colum7.html

 昭和40年代前半のマスコミは、近づくアポロ宇宙船の月着陸を控えて、ちょっとした宇宙ブームの中にあった。名越氏の話にあるように、ロケットがらみならなんでも記事になるという雰囲気だったのだ。その中でもエース格の記者が朝日新聞の木村繁だった。彼は昭和40年に渡米して長期取材を行い、米航空宇宙局(NASA)の所有するKC-135機に同乗し、記者としては世界で初めて弾道飛行による無重力状態を体験する。この記事は昭和40年11月26日の朝日新聞の一面トップを飾った。それまで社会部、政治部、経済部の独壇場だった一面トップに科学部の記事が初めて割り込んだのである。時代が後押ししたのだろうが、押しが強くて行動力抜群の、木村繁という個性なくしては考えられないことだった。

 しかしその後、木村繁は東大航空宇宙研究所の糸川英夫教授に対する攻撃を強めていく。その理由は判然としないが、彼が「科学朝日」誌に書いた記事からは、糸川が推進する無誘導の重力ターン方式では衛星を打ち上げることなどできないと考えていたらしいことがうかがえる。

 木村の筆鋒は糸川の私生活にまで及び、紙面に糸川がロケット予算の中から愛人の息子名義の領収書を切ったという記事が出るまでになる。昭和42年3月、糸川は東大を去った。最後に糸川は「なにか聞かれたら全部糸川が悪いと答えなさい」と言ったという。敵も味方も多かった糸川の近辺では、木村の記事を奇貨として糸川の動きを封じようとする動きもあったようだ。多分に分裂気質で、興味の対象を次々に変転させてきた糸川が「なにもかもいやになった」というのはありそうなことだ。

まだまだ見つかりました。
的川泰宣氏講演会レポート
http://www.ne.jp/asahi/contact/japan/event/misc/report/matokawa.html

 「おおすみ」は重量24Kgで、1970年に打ち上げられました。当時の方は知っていると思いますが、打ち上げは4回失敗しています。
 朝日新聞だけがこの失敗に対して大々的な反糸川キャンペーンを展開し、糸川先生は後進に道を譲るという形で東大を退職せざるを得なくなります。
 実はこの裏には朝日新聞の科学担当記者(木村繁)と糸川博士の銀座のママを巡る確執があったそうです。門田氏の小説に、本人も驚くほどの正確さで描写されています。
「銀座のママを巡る確執」かよ! この「門田氏の小説」というのが気になりますが…まさか「黒豹」シリーズの門田泰明…?
なお、SFの人には木村繁氏は、カール・セーガン『コスモス』の翻訳でも有名です。