製糸工場の工女は結核にならない?(その2):左寄りの人のテキスト紹介

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051029#p2
 
前回、輸出=国策産業だった(=それで明治政府が軍艦を買ったり軍事費をまかなったりした)生糸の女工に「結核が多かった」というイメージ操作を左寄りの人たちがしていた(実際に多かったのは「紡績の女工」なんだけど、繊維業界ということでひとまとめになると、確かに多くなってしまうことは事実)のでは、という推測を提示しましたけど、今回は具体的に実例を挙げてそれについて語ってみます。
実は役人のサポーターだった石原修さんの資料以外は、ほとんどすべて左寄りの人の意図的な(あるいは伝言ゲーム的な)誤誘導で、何がどうしてこうなってしまったのか皆目不明ですが、富国強兵・軍国主義をとても嫌っている戦後の人たちがいることは確かです。
たとえば、『製糸工女と富国強兵の時代 生糸がささえた日本資本主義』(玉川寛治・新日本出版社)(→bk1)(→amazon)という、タイトルからして何やらわかりやすそうな本では、「工女と結核」という一章がありまして、このようなことが書かれています。p138-139

工場法制定の準備をしていた農商務省商工局工務掛が、1901年に各種工業部門の労働者の状態の調査を行い、その調査結果を1903年に『職工事情』として刊行した。その後同省は、1910年に、繊維工業における若い女性労働者の酷使が、とりわけ綿紡績業における深夜業が、工場で就業中の女性労働者及び帰郷女性労働者の健康状態に及ぼす影響について調査した。その結果が『農商務省工務局調査 工場衛生調査資料』(生産調査会、1910年)として刊行された。この調査を実際に担当したのが農商務省嘱託の石原修医師であった。この調査で、石原は、結核に罹病して農村に帰郷した女性繊維労働者が、農村に次々と結核を蔓延させていく実態に深い人道的な憤りを持つことになった。
石原は、綿紡績工場の昼夜二交代の深夜業と、製糸業及び製織業の長時間労働が女性の命を縮め、農村に結核を蔓延させる原因であることを実証し、年少者と女性の保護が緊急に必要なことを社会に訴えることを目的として、工場における女性労働者の健康状態の調査を行った。その結果を、『衛生学上より見たる女工の現況』(前掲書)として刊行した。

だいたい太字のところがミスリードになっているので、注意しててくださいね。
引用を続けます。p143

全国で毎年20万人が工場に働きに出てくる。そのうち8万人は故郷に帰るが、12万人は出たきりで郷里に帰らない。工場を渡り歩き、最後には体が続かなくなり、「気の利いた者は酌婦になるし気の利かぬ者は貧民窟の私娼になって仕舞ふといふようなことが甚だ多いのでございます」と、都市にとどまった女性労働者の悲惨な境遇について述べている。
故郷に帰った8万人のうち、6人または7人に1人は重い疾病にかかっている。8万人中1万3千余人が疾病、その中の4分の1、3千人が結核に罹っている。これらの結核罹病者が農村に結核を蔓延させ、故郷に帰らなかったものも全国に結核を蔓延させることとなった。

ここまでは石原修さんのテキストとほぼ同じで、その「結核罹病者」の割合についてはもう少しあとで細かく見ていきたいと思いますが、そのあとにはこう続いています(引用を続けます)。

石原は、結核の発病に一番大きな寄与をしているのは徹夜作業を行う紡績だという結論を引き出し、徹夜業を禁止する工場法の制定が緊急の課題だと訴えた。
こんなに結核が増えても、繊維資本はほとんど顧慮するところがなかった。

石原先生ははっきりと「紡績業」が悪い、と言っているのに、この『製糸工女と富国強兵の時代』の人は、「繊維工業」「繊維資本」という言いかたをして、読者を誤読させようとしているように俺には思えます。本のタイトルが『繊維工女と富国強兵の時代』ならまだわからなくもないんですが、やはり石原先生にならって「製糸業」と「紡績業」ははっきり区別をしておくべきなのでは、と。
ついでなのでもう一本やっておきます。『改訂新版・日本の歴史5』(家永三郎ほるぷ出版)から、「第10章・日本の資本主義とアジア 第2節・日本の産業革命」p130

1・糸の一生
明治政府の国際収支をうるおした生糸
「生糸がささえた文明開化」といわれるほど、明治における生糸のはたした役割は大きい。開港後、外国貿易が開始されたものの、日本では生糸よりほかに売れるものがなかった。
このころ日本の生糸は、品質のわりにねだんの安かったことなどもあって、需要はすこぶる多かった。そのため、生糸は、その後ながく輸出品の王座を占め、不平等条約のもとで財政難に苦しんでいた明治政府のドル箱となった。
生糸は蚕がさなぎの期間をすごすまゆから作る。だから生糸は、蚕と、蚕がたべる桑、まゆから繰りもどした数本の糸を一定の太さにする労働力があればできた。これはすべて国内でまかなえるから、外貨獲得の効率は100パーセントである。資源に恵まれない日本にとってたいへん有利であった。
輸出先の大半はアメリカであった。アメリカは伝統的な保護貿易国で、国内の産業を保護するため絹織物という完成品ではなくk、生糸という原料品を輸入していた。日本はまだ当時は、原料品の輸出ということしかできなかった。
しかし、この生糸関係商品(生糸・絹織物・蚕種)は、幕末から明治初年の貿易品の60パーセント以上を占め、日本の産業が急速に発展する明治末期から、昭和のはじめにかけても生糸は日本輸出総額の3分の1をくだることはなかった。
鹿鳴館やイルミネーション、電信・電話、汽車や汽船、お雇い外国人への俸給、日清・日露戦争のための軍需品や軍艦など、明治の日本は、莫大な資金が必要であった。その資金は、この生糸によってえられたといってもよいだろう。

このあとに生糸業界の話とか、例によって「野麦峠」のエピソードなどが入ってますが、まぁ普通の日本人が歴史で習うのはこんな感じだったんじゃないでしょうか。
ただ、製糸工場の工女(女工)の仕事である「繭から生糸を取り出す」という具体的な作業は、『製糸工女と富国強兵の時代』の本によるとかなり専門的な仕事で、具体的には、タイピストや電話交換手なみの専門職というイメージでしょうか。デパートのエレベーター・ガールや女給より難易度高いです。高速で回転する機械に、繭の糸を切れることなく、一定の太さにつなげていく、なんていう労働はそんなに短期に覚えられるものではなく、けっこう長期にわたってその仕事を続けた(結果としてかなりの高給になった)女工も多かったようです。
引用を続けます。p137-138

3・明治の労働者
労働者の労働と生活
明治初期には、製糸工場の工女は女子労働者の約80パーセントを占めていた。工女たちは、前項でみたように、家族の多い貧しい小作農の出身だった。わずかの現金収入を求めて家計補助のために出かせぎに出たのだった。それは、口べらしの効果もあった。ゆめ多き青春などということとはほどとおく、彼女たちは、家へかねを持ち帰って親の喜ぶ顔をみて満足したものが多かった。
製糸ばかりでなく、紡績、織物など繊維産業においける寄宿舎の工女もみな同じ状況におかれていた。当時、これらの工女をうたった悲しげな歌がたくさんあった。

家永三郎さんのこの本には「工女の病気」というのは具体的にはあまり出てこないです。
ところで、「悲しげな歌」というのは、こんな奴でしょうか(『あゝ野麦峠』p394)

工場づとめは監獄づとめ 金のくさりがないばかり
かごの鳥より監獄よりも 寄宿舎住いはなお辛い
工場は地獄で主任は鬼で まわる検番火の車

それとも、こんな歌でしょうか(『製糸工場のエートス』山崎益吉・日本経済評論社・p275-277)

明治の御代のはじめより くるまのめぐりをやみなく
くりだすまゆのいとたえず 浅間の山ともろともに
ひびきとどろく汽笛の声
はるけき海のあなたより おほくのたからひきよせて
国富をませる富岡の 御荷鉾(みかほ)の山は高けれど
なおも名だかき製糸場
かよわきものの手さきなる わざよりなれる糸すじに
みくにの富をつなげれば 妙義の山はたえなれど
ましてくすしきわざぞこれ
しばしばみゆきあふぎつる ほまれをながくおとさじと
引き出す糸のひとすぢに かぶらの川のいときよき
心あはせてつとむべし

朝鮮民主主義人民共和国の労働歌みたいな感じもしないではありませんが、自分たちの職場と職業に誇りをもち、「はるけき海のあなたより おほくのたからひきよせて」と、国のために外貨を稼いでやるぞー、みたいな意気込みを感じさせる、これは富岡製糸場で働いていた人の歌です。なんか、職場環境が岡谷と富岡では全然違う(googleの正社員とエロゲのシナリオライターぐらい違う?)のかも知れませんが、こんな記事も。
製糸業の盛衰語る4万点asahi.com : マイタウン長野 - 朝日新聞地域情報)

「ある製糸工女哀史」と副題のある「あゝ野麦峠」で、岡谷の製糸業は今日に悲話として残る。しかし、博物館の鮎沢諭志学芸員は「哀史は極端な描写。当時の経営者たちは、質の良い糸を繰る工女たちを大事にした。往時の資料からは、賃金の高さ、十分な食生活、農村から岡谷へ来て家計を支えた工女たちの活気に満ちた姿が見えてくる」と語る。

「朝日の記事ですが」「朝日かよ。おまけに長野かよ」という擬似想定問答が成り立ちそうですが、「製糸工場の女工は悲惨だった」というイメージは、やはり左寄りの人の作りこみすぎるような気もします。
時間があったら細かなデータをもう少し調べてみますが、歴史について考える場合には、現代の価値観やものの考えかたをそのまま適応してはいけない、ということはあります。今の価値観では当時の女工は悲惨だし結核も多かったでしょうが、当時の全体的な傾向と比べても、結核が明らかに多かったと確認できたのは「紡績業」に従事している女工のかたがただけでした。
まぁ、ここらへんについてはのちほど。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051101#p1