ピタゴラスはなぜ豆畑で死んだのか

lovelovedog2006-01-11

こういう本を新年そうそう読んでみました。
『謎の哲学者ピュタゴラス』(左近司祥子・講談社選書メチエ
ピュタゴラスピタゴラス)といえばたいていの人が知っているのは「三平方の定理」とか「ピタゴラスイッチ」だと思いますが、実は彼、輪廻転生とワケワカラン教義を持ったカルト集団・ピュタゴラス教団のリーダーで、当時のギリシア哲学では「万物は○○である」というのが流行っていて、ピュタゴラスは「万物は数である」という、すごい理論を唱えたのでした(カバラの元祖?)。
アリストテレス全集には、そんな彼とその集団(教団)について、アリストテレス的視点で紹介してあるわけですが、それと同傾向の伝聞情報として、ディオゲネスによる『ギリシア哲学者列伝』というものにも、ピュタゴラスについて記述があるそうです。
で、ディオゲネスの本に書かれている、ということで『謎の哲学者ピュタゴラス』の著者が語っているのは、その奇怪な死の状況です。p155

入門を断られた恨みのゆえにある男が、あるいは、ピュタゴラスによる僭主制を恐れた地元農民が、ピュタゴラス派の集会所に放火したのだ。ピュタゴラスは逃げて、とうとう豆畑にまで来てしまった。彼は「豆を踏みつけて逃げるより、ここで捕まったほうがましだ」と言って立ち止まったところをとらえられ、喉を切られて死んだという。

ここで、ピュタゴラス教団の「豆」に関する奇妙なタブーの戒律(シュンボロン)が関係あるわけです。
豆を食べないこと、という理由については、アリストテレスが以下の解釈をしているそうです。p149

1・恥部に似ているから
2・節がないところがハデス(黄泉の国)の扉に似ているから
3・身体に有害だから
4・宇宙全体の形に似ているから
5・抽選に使われるので、役人を抽選で選ぶ寡頭制にかかわるものだから

まったく、今の人間にとっては謎解釈(なぞなぞ解釈)ですが、この本に紹介されている他の戒律と、その合理的な解釈も羅列してみます。p150-

テーブルに落ちたものは拾わない。食べ過ぎの習慣をつけないため、人の死のしるしにならないため。
月の神の所有物だから白い鶏には触れない。白い鶏が月の神の所有物だというのは、時を告げるし、白は善を表す色だからである。
魚の中の聖なるものを食べてはいけない。聖なるものは神のものであり、神と人が同じものを食べるのは、不敬であるから。
パンをちぎらない。昔の人は、友とパンを食するとき、分けずに、一つのまま食べていたから。

秤りを踏み越えるべからず。(人より)余計取ろうとするなということ。
火を剣で掻きたてるべからず。膨れて怒っている人を激しい言葉で突き動かしてはいけないということ。
花冠をむしるべからず。都市の花冠である法を破るなということ。
一日の糧の上に座るべからず。働かないで生きていてはいけないということ。
旅立ったなら、引き返すべからず。死んだのに、この世の生に執着してはいけないということ。
大通りを歩くべからず。多数者の意見に従うことを禁じ、少数の教養ある人の考えに従えということ。
ツバメを家に受け入れるべからず。おしゃべりで、口舌の抑制がきかない人々と同じ屋根の下に住んではいけないということ。
荷を負うものの荷を加えるのを助けよ、減らすのを助けるべからず。楽をするために協力するのではなく、徳のために協力することの勧め。
神々の像をつけた指輪をはめるべからず。神々についての思惑と言論は身近に持っても、あからさまにしても、多数の人に見せてもいけないということ。
神々への献杯は杯の耳を持って行え。神々を崇拝し、称えるのは、音楽によって行うことの勧め。

解釈を見るととてもまっとうですが、戒律だけ読んでいるとあまりにも謎なテキストで、それが少し楽しいです。
ピタゴラス豆畑に死す』(小峰元)というミステリーもあるんですが、これはツチノコとかが出てきて、どうやらあまり関係がない様子。