もう「富田メモ」に関しては「敗北」宣言をしてもいいのですが(変わる可能性あり)

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060725/omoide
 
ということで、いろいろ調べた結果、「富田メモ」に出てくる以下の記述は、

 ■富田氏メモ靖国部分の全文■
 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま)

新聞に報道されていない部分も含めてさらに解釈してみると、徳川元侍従長その他のものというより、昭和天皇自身のお言葉である可能性が高い、とぼく個人は判断することにしました。
真贋博打」に参加してくれたかたには申し訳ないんですが、
児童小銃・2006年7月23日コメント欄

8月15日時点で大手四紙+日経のうち3紙が昭和天皇の発言でないとしたら僕の負け、というのでどうでしょう。

とのことなので、新たな何かが出てこない限り、2006年8月16日中に1000ポイントをid:rnaさんに支払います。
ぼくにカンパしてくれた人で「まだ負けを認めたわけではない」という人は、ぼくにメールをください(メールアドレスは「プロフィール」のところに書いてあります)。そういう人には、新たな何かが出てこない限り、2006年8月16日中に、カンパしていただいた「はてなポイント」はお返しします。
逆に言うと「新たな何かが出てきた場合は、負けにならないかもしれない」「勝ち負けとは関係ないけど、新たな何かが出てくると面白いんだけどな」という感じです。特に見たいのは、貼り付けてあった「メモ」が3枚あるわけで、それの全部ですね。
ここはたとえば、「イラク人質事件の三人については、『自作自演説』は未だに否定されたわけではない」みたいな感じで言い張って、「完全にその「私」が昭和天皇である可能性が証明されたわけではないので、負けじゃなくて引き分け」ということも可能なんでしょうが、少しかっこ悪すぎるかもです。
以下のところを参考に、少し考察してみます。
依存症の独り言: やはりねつ造だった「天皇発言」

まず言えるのは、これは昭和天皇の発言を記したメモではない。記者会見を開き、記者から「戦争の感想を問われ」るような身分の人物のものである。

1988年4月25日に昭和天皇は記者会見を開き、「戦争の感想を問われ」ました。
昭和天皇は1988年4月25日、生涯最後の誕生日記者会見で何を話し、その日は何をしたのか。それと「昭和天皇発言メモ」の検証

幹事記者 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください。
陛下 (中略)今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。

依存症の独り言: やはりねつ造だった「天皇発言」

そしてメモは、そのときの記者会見の内容を控えたものだ。

メモは「そのとき(1988年4月25日)の記者会見」に関する「感想」を、後日富田朝彦氏に語ったものである可能性が高いと思います。これについては内容を分析して、判断の根拠を順に述べていこうかと思います。
以下に9個並んでいる「正成」さんの分析を見てみます。

1.メモはプレスの会見を筆記したものである。

そう断言できるほどの判断材料は揃っていないので、「プレスの会見後の私的感想に関するメモ」という判断も可能だと思いました(これについては、少し判断保留してもいいかもです)。あくまでも個人的な判断ですが、昭和天皇との1対1、つまり昭和天皇富田朝彦さんの二人きりの場ではなく、昭和天皇が誰か(徳川元侍従長クラスの人間)を相手に話していて、それを富田さんがメモしていた、という感じなんじゃないでしょうか。推測なので、このメモ関連の「見えていない部分」を公開してもらえると違う判断が出てくるかもしれません。

2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。

これには同意しますが、そうすると「昭和63(1988)年4月28日」に「プレスの会見」があったかなかったか、ということになるので、その日に誰の、どのような会見があったか、「あった」と言っている人が何かを言ってくれるとありがたいのです。

3.質問に対する答えは率直な感想を述べているように読み取れる。発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。

「質問に対する答え」と思われるようなテキストがあるようには思えませんでした(「質問」部分に相当するテキストは見当たりませんでした)。「率直な感想」という点には同意ですが、「発言内容を事前にチェック」された・した結果というよりは、「発言内容については十分に吟味し、発言(記者会見)終了後(事後)に、ノーチェックの私的談話として語った」という解釈も可能のように、ぼくには判断できました。

4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく 、仕える立場の人物の発言と読み取れる。

薨去」というのは宮家同士も使う言葉なのでは。
天皇陛下のお誕生日(平成16年12月23日)に際して宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静

身内のこととして最近の高松宮妃の薨去は非常に残念なことでした。高松宮妃癌研究基金を創設して研究者の育成を心掛けられるなど様々な面で人々のために尽くされました。紀宮の結婚についても心配してくださっていたので,婚約内定の発表の日を是非一緒に迎えていただきたかったと思います。

ただしこれは「年長の身内」なのでそういう言葉を使ったので、「昭和天皇の弟」である高松宮に対してそのような言葉を使うのはおかしい、という説もあるので留意したいんですが、「高松薨去」とほぼ年少の身内にしか言わないような、「宮」を略した言いかたは注意したいところです。

5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。

客観的な表現であるかどうかは判断保留です。ただ、以下の「メモ」の記述に関して、なのですが、

[1]   昨年は
(1) 高松薨去間もないときで心も重かった
(2) メモで返答したのでつくしていたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった

これは、昨年(1987年)におこなわれた昭和天皇の記者会見と一致する部分が多いです。
1・高松宮薨去は1987年2月3日(ウィキペディア
2・1987年の記者会見は「質問項目を事前にお知らせしているので、昨年四月の会見では、陛下は回答のメモを用意して、読み上げられた」という、読売新聞の記述がある。→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060725/omoide
3・1987年の4月29日に吐瀉した、という、ぼくの日記の読者のコメントがある(ぼく自身は新聞記事は未確認)。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060724/kaiken#c

# mill 『「吐瀉」についてですが、メモの前年である1987年の4月29日に、宮中の宴席で嘔吐された記録が残っています。メモでは吐瀉は「昨年」の中の項目になっていますので、日付は符合します。
以下は1987年4月30日付けの朝日新聞の記事からの引用です。

天皇陛下は29日、一般参賀のあと、宮殿・豊明殿で午後零時50分から開かれた宴会の儀で、気分が悪くなられ、途中退席された。体調に異常は認められなかったが、午後4時からの駐日各国大使らとの茶会は大事をとって欠席され、皇太子殿下が代わって祝賀をお受けになった。
天皇陛下が公式の席で途中退席されたのは初めて。
宮内庁の発表によると、陛下は食事中に少し食べ物を戻されたため、予定より15分早い午後1時15分、歩いて退席された。
(以下略)』

で、このメモの「[1]」の(1)(2)に当たる部分は「心も重かった」「つくしていたと思う」と主観的感想が強い記述なので、その流れとして「(3) 4.29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった」も、客観的記述と判断するには要因が欠けているようにも思えました。

6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。

1998年4月25日の昭和天皇の記者会見のとき、天皇みずから「嫌な気持(嫌な思い出)」という表現をしたのは、前述の通りです。

7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。

ここのメモ部分は、ちょっと判断しずらい、というか何を言っているのか不明なので判断保留です。「閣僚」ではなくて「関係」とも読める、という意見もどこかにあったかな。それにしても意味不明は意味不明なんですが。

9.靖国神社松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。

昭和天皇が誰かに対して「○○さん」というような類の敬語を使った、というのはぼくの記憶にはないので(ここらへん、記憶違いがあったら補足してくれる人がいるとありがたいです)、「松平の子」という言いかたを昭和天皇がしていてもさほど違和感はなかったのでした。ただしこれも、ぼくの「記憶」に依存している部分が多いわけですが。
もっとも、このメモのほとんどが昭和天皇の記者会見後の感想に関するメモであったとしても、「私」が昭和天皇を指している可能性はあまり高くない(この部分だけ別の人の意見をメモしたものなのではないか)という意見などが出てきたら、ぼくにはそれを完全に否定することはできません。
ただし、メモの最後の1行、

・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意

というのは、以下のテキストと一致します。
昭和天皇は1988年4月25日、生涯最後の誕生日記者会見で何を話し、その日は何をしたのか。それと「昭和天皇発言メモ」の検証

陛下 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています。

つまり、「中ヌキ」で、別の人の発言が入った可能性は、最後の1行で否定してもいいのでは、という感じでしょうか。
最後に、
依存症の独り言: いわゆる「富田メモ」について(最終)

そして、次の発言である。

戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが それは後で云いたい
そして戦後国民が努力して 平和の確立につとめてくれた ことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである

これは、本人ではなく、まったくの「第三者の解説」に聞こえる。昭和天皇のお話しぶりをご存知の方は、皆そう感じるのではないか!

いや…ぼくには昭和天皇ご本人の「記者会見に関する感想」にしか思えなかったのですが(特に二行目など)、ぼくよりもっと「昭和天皇のお話しぶりをご存知のかた」がいましたら、そのかたのご意見をお伺いしてみたいところであります。
一応、「あのメモは昭和天皇の発言」説を取っているブログを紹介しておきます。
半休眠ぶろぐ 富田メモは本物。
特に以下のところが重要でしょうか。

ネットでは真贋の論評に注目が集まった結果、このままいけば、昭和天皇が奥野元国土庁長官の発言について昭和天皇は「バランス感覚のこと」「単純な復古ではない」と評価なさっていたという部分に関しては事実上無視されることとなるでしょう。ネット参加者はうまく日経のトラップに嵌められているようにすら見えます。
真贋問題に執着するよりも、天皇を政治利用しないためにも、天皇のお考えはお考え、自分の考えは自分の考えと割り切るほうがいいかもしれませんね(って、一番固執しているのが私かも)。

ただ、ぼく個人の「真相」に関する考えは、昭和天皇ご自身が「言った」と言わなければ信じないので(富田朝彦さんが「昭和天皇が言ったのを聞いた」と言ったとしても信じません)、あくまでも「可能性」の高さ・低さに限定しての話、ということになります。
この「真贋博打」は、実はid:rnaさんとぼくが裏で相談して、ネットリテラシーがらみで小銭を稼いでやろうと思った演出なのです。…ということはまったくありませんので念のため。