手塚治虫少年はイジメられっ子だったというのはどこまで本当か

こんな本を読んでみました。
→『手塚治虫少年の実像』(泉谷迪・人文書院)(アフィリエイトつき)
これは小・中学校(旧制中学校)と、手塚治虫と同学年で級友だった人による少年・手塚治虫に関する話で、子供の頃から天才だった手塚の思い出、というか別の人間による証言が語られていてなかなかいい本でした。後半の「手塚治虫論」的な部分はまぁごく普通のテキストで、読めなくはありませんがそんなにお勧めするほどではありません。しかし前半部分は、戦前の「中の上流家庭(少しインテリ傾向あり)」に育った子供がどのように生きていたのかを知る意味では、別に手塚治虫という強烈キャラクター抜きでも面白い本でした。
すでに知っている人はみんな知っていると思うのですが、手塚治虫大阪教育大学附属池田小学校(当時の名称は「大阪府池田師範学校附属小学校」)出身です。あの事件で有名になったところ。で、祖父(手塚太郎)は元裁判官で、父(粲)は住友金属の社員。旧制中学(大阪府立北野中学)の4年がまるまる戦争中に重なる、とかいろいろありますが、意外だったのは別に手塚治虫はイジメられていたわけではない、という複数証言でした。
手塚治虫は、自著『ガラスの地球を救え』で以下のように言っているそうです。『手塚治虫少年の実像』p26から引用。

ぼくはたいへんな〝いじめられっ子〟でした。幼稚園から小学校へかけて、本当にやせこけてひ弱な子どもで、ガキ大将、番長クラスにしょっちゅうひどい目にあわされていました。クラスメートからもたいへんばかにされて、いびりの標的になっていました……ぼくが登校すると、校門のあたりに何人かがまちかまえていて、
『ガジャボイあたまをふりたてて
今日も眼鏡がやって来た。
見えました、見えました。
六十メートルの眼鏡』
ぼくをいびる歌を歌いながらはやしたてるわけです。
六十メートルの眼鏡というのは、せっかく作った眼鏡の度が合わず、せいぜい六十メートルぐらい先までしかみえない、その先がボヤけて全然見えないので、ぼくはいつもブツブツ不平を言っていたせいらしい。

まず、いろいろな資料を見てみたんですが、手塚治虫が幼稚園に通っていた、という事実は確認できませんでした。
あと、町の普通の小学校ではなくて、それなりの試験のある附属小学校ということで、「ガキ大将、番長」的なものが存在するのかどうか、という疑問があるわけです。
面倒なので、『手塚治虫少年の実像』から少し長めに引用してみます。p29〜

自伝によると、彼は毎日いじめにあって、家へ帰ると母親が「今日は何回泣かされたの」と聞く。「今日は八回だよ」などと答えてベソをかくと、母は決まって「堪忍なさい」「我慢するのですよ」と言ったと書いている。しかし、彼は泣きそうになりはしても、本当に学校で泣いたのを見たものがいない。最も親しかった石原実君でも、彼が泣いたのを見たのは、六年間で一回しかない、と言い切っている。
事実、私たちの池附、特にわれわれ西組には、ガキ大将や番長といった〝いじめっ子〟は全く存在しない、本当に和やかな雰囲気の学級であった。今考えてみても、不思議に思えるほど、友達の仲がよくて、無理に思い出そうとしても、入学してから卒業するまで、喧嘩をして相手を泣かせたり、言い合いをして仲たがいしたり、意地悪をして仲間はずれにするような情景は、全く思い浮かばない。従って当然のことだが、彼が自伝に書いたり、講演の中で言っている「ガキ大将のいじめっ子にいじめられて、毎日泣かされた」とか「クラスメートからもいじめの標的にされた」とか「ガジャボイ頭をふりたてて……」と言っていびられた、という〝いじめ〟なるものを、私たち同級生は、どう首をひねってみても実感できないのである。
小学校生活の六年間を通じて、彼の真面目で真剣な時の顔つきや、楽しそうに、にこにこしていたり、ほほをふくらませて、得意そうにしている時の表情など、いろいろな場面での彼の面影は脳裡によみがえってきても、泣いている彼の姿など見たことがないので、思い出しようがないとしかいえない。

「いじめ」の実態を知るのはなかなか難しいことで、同級生だった泉谷迪さんにとっては「いじめ」とは思えないような、ちょっとしたからかい的なことでも当人にとっては深刻なものだったりするわけで、そのような「からかい」はけっこう手塚治虫は標的にされていたみたいです。
まぁ、引用を続けます。p30

当時の手塚君を知る級友にすれば、全く想像もできないような彼の虚像が、本人の言葉や文章から世間に広まり、当然数多く出版された手塚君関係の書物が、それに影響される表現にならざるを得なかった結果、現在ではすっかり人々の間に定着してしまった〝いじめられて泣かされた〟話は、現実にはあり得なかった、彼らしい冗談めいた創作であって、今となっては、手塚君に申し訳ない気もするが、共に学び共に遊んだ、小学校時代の手塚君の本当の姿を伝える意味で、あえてクラスメートの名誉にかけても、そのような事実は全くなかったと、はっきり否定しておきたい。
本人も豊中市の中学校での講演の中で「いじめられたと言っても、今のいわゆるいじめられっ子みたいに、殴られたり、ひどいいびりをやられたり、ということはありません。まあ、〝からかい〟なんですが……」と言っている。

豊中市の中学校での講演」は、ちょっと確認が難しそうですが、人は自伝の中では実に正々堂々と嘘を書くことが多い、ということと、手塚治虫は嘘つきだった*1、ということから、ぼくの判断としては時代を加味して、1980年代に流行した「いじめ」の、「いじめられっ子」を励ますために手塚治虫がついた「いい嘘」の一つなんじゃないかなぁ、とか思っています。
別の人の証言として、泉谷迪さんが「当時のクラスメートの女性」から聞いた複数の「手塚治虫に関する証言」(これもまた面白いテキストなので、ぜひ読んでみてください)から、こんなのを引用してみます。平賀翠*2さん。p90

私の妹と手塚さん妹の美奈子さんが、やはり附属小学校で同級だった関係で、手塚さんの死後美奈子さんから、「兄はしょっちゅう学校で、いじめられて泣かされたと、本に書いたり喋ったりしていますが、その辺りの様子がよく分からないのですが、実際にそのような事があったのでしょうか」との問い合わせの電話があった。小学校時代を振り返り、いくら考えても、どうしても思い当ることがないので「教室や運動場で、ほたえて追っかけ合いをしたり、冗談でお互いにからかったりはしていましたが、男の子も女の子も、とても仲がよかったので、いじめて泣かしたり泣かされたりした人は、クラスの中には誰もいなかったですよ」と答えておいた。

本当のところはどうだったんだろうなぁ。
 
少しだけ関連テキスト。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか
 

*1:嘘をつくのがうまい人だった。

*2:どうでもいいことですが、昔の人の名前が今回やたら入力しにくくて身もだえました。