ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』第5巻「摩文仁の洞穴」のテキストをあれこれ考えながら引用してみるよ(2)

 これは以下の日記の続きです。
ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』第5巻「摩文仁の洞穴」のテキストをあれこれ考えながら引用してみるよ(1)
 
 ということで、引用を続けます。
 元テキストは以下のものから、p39-49。
 引用テキストの「太字」は引用者(=ぼく)によるものです。
『大日本帝国の興亡 5』アフィリエイトつき)

 六月二十一日夜、牛島が無電で大本営に決別の辞を送っているとき、自分のを書いていた長はこれを手渡すことができるよう望んでいた。「わが軍はあらゆる戦略、戦術を傾け、よく敢闘、善戦したるも、ついに敵物量の前には、いかんともするあたわず」と彼は書き、「心残りも、恐怖も、恥ずかしさや負い目もなしに」この世を去るとつけ加えた。
 最後のつとめを終えた二人の将軍は、いまや死の準備にかかった。きびしい顔をした八原大佐が、牛島に自決の許可を求めた。将軍は、穏やかだがきっぱりとこの要請を拒否した。「もしきみが死んだら、沖縄の戦いについて真相を知っている者は誰もいなくなる。一時の恥を受けて、これに耐えてくれ。軍司令官の命令だ」
 六月二十二日の日の出直後、牛島は比嘉に最後の儀礼的な理髪をしてくれるよう頼んだ。彼のユーモアのセンスはなくなってはいなかった。床屋が彼の頭を左右に回したとき、牛島は「おれは人間輪転機」と冗談を言った。正午までにアメリカ軍は、洞穴の北の部分を占領していた。それから数時間後、将軍はパイナップルの罐詰----これが洞穴の中の最後の食糧だった----をあけ、それをたまたま通りかかった者には軍人、民間人の別なく分け与えたのだった。
 午後遅く、牛島と長とは作法通り並んですわった。長は首がよく出るよう頭を下げた。剣道五段の坂口大尉が刀を振りおろしたが、右手を負傷していたため手もとが狂って刃が充分な深さに達しなかった。藤田軍曹が刀を取り、脊柱を切断した。
沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」腹部を出しながら牛島は残念そうに言ってから、平静に腹を切った。彼の脊髄が切断され、幕僚のうちの七人は、ピストルを使って集団自決をした。

 と、なかなかの名調子で自決の場面が語られます。
 少し知りたいことのメモ。
 長勇中将の言葉についてもう少し。どうもネットではうまく見つからなかったので。
 牛島中将の、八原大佐への遺言その他について。
 引き続きジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』からの引用を続けます。

 この日、嘉手納飛行場に近い第十軍司令部では、第十軍----二つの軍団と各師団----の代表が、軍楽隊がアメリカの国歌を吹奏するなかを直立不動の姿勢で立っていた。軍旗護衛が沖縄本島が確保されたことを示す星条旗を上げた。
 しかし、依然としてアメリカ軍の目から隠れている何千人もの日本の兵士や民間人にとっては、きびしい試練はまだ終わるにはほど遠かった。
 十三歳の金城茂は、彼の一家が避難していた洞穴からはい出し、初めて敵を近くから見た。彼らは腰から上は裸で、動物のように毛深かった。もうおしまいだ、と茂るは思った。捕虜は殺さないという敵のビラを彼は信用していなかった。鼻や耳を切り落とされてしまうだろう。彼は家族のいる洞穴に戻った。彼らは丸く固まっていた。誰かが手榴弾を岩にたたきつけて点火し、彼らのまん中に投げ込んだ。茂は、世界が爆発したと思った。彼は妹が何かつぶやくのを聞いた。臨終だった。
「おれは死んでいない」と言う声がし、嘆願の言葉が続いた。「もう一発頼む
 二つ目の爆発が小さな洞穴を揺るがした。肉片が茂に当たった。まだ数人が生き残っていたが、三発目をと言い出す者は一人もいなかった。誰かが動脈を切って死のうと提案したが誰も実行しなかった。彼らは無気力にひと晩中、洞穴の中にいた。朝になると、英語で叫ぶ声がした----「カム・アウト」(出て来い)それとほとんど同時に、白煙を吐いている罐が洞穴の中にころがり込んできた。催涙弾があと二つ爆発した。息を詰まらせながら外にはい出た茂は、両足から出血していた。持ち上げられて兵士の背に負われるのを感じた。真壁の村で、敵兵(海兵隊員だった)は茂をおろし、ハマグリの罐詰をあけた。罐詰には日本のレッテルがついていたが、この少年はきっと毒が入っているに違いないと思い、食べるのを拒否した。兵士が何か言って、それから茂のために竹のツエを二本切ってくれた。少年は収容場所の方へ足を引きずって歩いて行きながらいぶかった----いつ殺害は始まるのだろうか

 ここらへんから集団自決とか、いろいろ嫌なことのテキストがあります。
 引き続き、少し知りたいことのメモ。
 「十三歳の金城茂」について。どうもありがちな名前すぎて、これもネットではうまく見つかりませんでした。
 引き続き引用を続けます。

 北西一キロ半のところでは、アメリカ軍が一週間以上にわたっていくつもある入り組んだ洞穴を発煙爆弾でかたづけようとしていた。少なくとも三百人の兵士と八百人の民間人が中に閉じこめられた。宮城嗣吉少尉は、太田提督の死後、ハワイ人の妻ベティを探すために小禄半島から逃げ出し、探しあてていた。いま、煙のために洞穴内があまりにも息苦しくなったので、宮城----彼は沖縄における有名な空手の名人だった----は、気を失っている妻を背負い、腰まである泥のなかを洞穴の奥の方に運んで行った。
 泥は流れに変わり、水はやがて宮城の肩にまで達した。水はベティの意識を取り戻させた。もはや水底に足を触れることができなくなった宮城は、行く手を照らすのに使ってきたロウソクを彼女に持たせ、彼女の服のえりをくわえて泳いで行った。数メートル行くたびに足をおろして休もうとしたが、ねとねとした泥のなかに沈み、頭を水面上に出しておくのに狂気のようにバタバタやらねばならなかった。悪夢は果てしなく続くように思われたが、ついに足が固い地面に触れ、ひどく酷使した筋肉をやっと休ませることができた。宮城夫妻は土手に上がった。冷たい風が吹いてきたので近くに入口があるに違いないと思った。前方に光が見えた。それは五、六人の民間人の前におかれたロウソクだった
 このきびしい試練は、彼らに一つの信念を与えた----暗闇の中で息ができなくなるよりは、太陽の光を浴びて死にたい。入口でアメリカ人の声がした。ベティが「ヘロー」と叫び、自分はハワイ出身であり、兄といっしょだと行った。
「われわれはきみたちを助けに来たんだ」と、誰かがどなり返してきた。「出て来い」
 彼らは洞穴から外に出ると、そこは全くの行き止まりで、深さ六メートルもある穴の底だった。頭上にはずらりと銃口がこちらを向いていた。のたうちながら落ちて来たロープをつたって十人あまりの海兵隊員が降りて来た。宮城夫妻は殺されずに、すばやく上へ運び上げられた。二人は自分たちの身に起こっていることが、ほとんど信じられなかった。にこにこ笑っているアメリカ兵がK種携帯口糧と水とタバコを彼らに押しつけた。一人の中尉が宮城の手を握りしめた。海兵隊員たちは彼らを抱きしめ、頬をすりよせた。それからガソリン罐を洞穴の入口に運びはじめた。宮城はそれをやめさせようと図った。興奮したゼスチュアで、彼はガソリンに火をつけたら、上の方にいる日本兵だけでなく、下にいる民間人も殺してしまうことになると説いた。彼は洞穴の中に引き返し、民間人を連れ出してくる役を買って出た。真新しい海兵隊の作業服を着た彼は、武装した日本軍の衛兵の間を突破し、八百人の民間人全部を説得して降伏させた。
 その夜、さらに南の、島の最南端、水際近くの茨の茂みの中では、師範学校教官の仲宗根政善に引率された十三人の沖縄の学生看護婦が自決の準備をしていた----既に何千人もの民間人が真の日本人として死にたいという願望と、敵に対する恐怖の二つから自決していた。少女たちは輪になって座り、彼女たちの音楽教師が作曲した思い出の歌〈さようなら〉を歌った。頭が混乱した仲宗根は、自分の考えを整理するために、一人だけでその場を立ち去った。だれにも知られずに死んでしまうのは、なんと無益なことだろう。木々の露は、月の光を浴びて、美しく、神秘的にきらめいていた
 明け方、緑色の作業服を着たアメリカ兵がこっそりと近づいてくるのに彼は気づいた。これがアングロサクソンの悪魔どもだ。だが彼はもはや恐れなかった。何故自分と少女たちが自決しなければならないのか。彼が急いで教え子たちのところに戻ると、彼女たちは丸く輪になってぢぢこまっていた。
仲宗根先生。死んでもいいですか」と、手榴弾を持った少女が叫んだ。彼女は最初から自決をしきりに主張したのだった。
 仲宗根は彼女たちに待つように言った----アメリカ兵がやって来るまで彼女たちを押し止めておきたかったのだ。最年少の少女たちの二人は、母を恋しがってしくしく泣き出し、輪から立ち去ることを許された。榴弾を持った少女が、自決の時はまだ来ないのですかとまた尋ねた。仲宗根は、待つようにとまた言った。彼は敵を途中でさえぎるために浜辺の方に行った。一人のアメリカ兵が紙に「フード----ウォーター」(食物----水)と書いた。仲宗根は、そのアメリカ兵をあとに従えて少女たちのところに戻り、迫って来たアメリカ兵たちは絶対に危害を与えるものではないことを彼女たちに納得させようと努めた。だが、彼女たちは、片手に小銃を持ち、もう一方の手に赤ん坊を抱き、低い声で繰返し「ドウント・クライ・ベイビー」(泣くな。赤ちゃん)といって、あやしているアメリカ兵に気づくまでは「外国の悪魔ども」を恐れた。一人また一人と少女たちは輪から去って行った----残ったのは、手榴弾を持っている意志強固な少女だけになった。仲宗根はその少女の手から手榴弾をもぎ取った。彼女は全速力で海岸へと走り、海に飛び込んだ。兵士たちが、サンゴの切り傷で血を流し、なおも必死であばれる彼女を海から引き上げた。降伏した沖縄人は自分一人しかいないと思っていた仲宗根は、恥辱感を懸命に押し殺した。少なくとも自分の教え子たちの生命を救ったではないか……。
 だが、仲宗根一人だけではなかった。次の週には、少なくとも三千人の兵士が宮城少尉たちの呼びかけに応じた。宮城少尉ら日本人有志は、仲間を救うために何度も洞穴に入っていったのである。呼びかけに応じなかった者は火炎放射器や爆破によって洞穴の中で最期を遂げ、この期間に、九千人の軍人が皆殺しになった
 七月二日、沖縄戦終結が正式に宣言された。ちょうど三カ月の間に、アメリカの陸海軍および海兵隊の戦死、行方不明者は、一万二千5百二十人にのぼった。これは太平洋での戦争における最大の犠牲者であった。
 日本軍は十一万の兵力を失った。そのうえ、民間人の死傷者は空前の比率のものであった。二つの軍の間にはさまって、約七万五千の罪なき男女、子供が死んだ。しかも彼らの犠牲は何の役にも立たなかった。日本は、本土以外で戦うことのできた、最後の大きな戦闘に破れたのである。

 これで全部です。
 少し知りたいことのメモ。
 宮城嗣吉少尉について。この人、ちょっと面白いです。空手の達人で映画業界の人で、沖縄戦末期ではガマにいる人に呼びかけ投降をすすめた人、という感じ。→宮城嗣吉 - Google 検索
 師範学校教官の仲宗根政善について。
 
 これは以下の日記に続きます。
沖縄戦に関するぼくのテキストに対するツッコミテキスト