『火垂るの墓』は宮崎勤事件と関連して見たような記憶があった

A Successful Failure - 『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー
『火垂るの墓』に対する米Amazonレビュー 低評価版
ちょさかのひとりごと:「火垂るの墓」に関する低い評価(米Amazon)

このレビューの指摘はもっともであるし、評者は正しくこの映画のテーマを読み取っている。しかし、それをもとに映画の評価を下げるのは間違っているのではないか。
なぜなら、この映画のパンフレット自体に、野坂昭如自身が、評者と同じことを述べているのだ。この映画は戦争を描いたものではあるが、同時に、若い無思慮な少年が自分自身のつまらない自尊心を原因に妹を死なせてしまったこともあからさまに描いた物語なのだ。

 あの映画・小説というのは基本的に、清太に共感してはいけない話として、今は見なければ・読まなければいけないのが心理的に混乱するところ。たいていの人は、主人公に共感できない話に慣れていないので、少し慣れる必要があるかも。
 清太は「反体制(反社会)」で、戦争中はそれが「反戦」なんだけど、現在だとその「社会的適応力の乏しさ」が欠けるオタク=オタク批判になる。野坂の小説では「自尊心」という美しい言葉が使われているようですが、しみじみ嫌な話です。
 メッセージとして伝わるのは「反戦」ではなく「宮崎勤(と言っても、今の人はどのくらい知っているだろうか)にも生きる権利を」という主張で、ぼくはそれについて、どれだけ否定すればいいかの判断ができない。
 自分以外の人間を不幸にしてまで、自分というものは生きる価値があるのだろうか。若いときにそういうことをしっかり考えておかないと困ったことになりそう、という意味では、『火垂るの墓』はいい映画です。しかしみんなは「反戦映画」として見る必要はないと思います。戦争は嫌なもので、極力回避したいと思うことは間違ってはいないでしょうが、清太の不幸は多分、戦争とは無関係の(現在でも場合によってはあり得る)不幸でしょうか。
 ちょっと映画のパンフレット(野坂のテキスト)を見てみたら、また違う何かを言うかもしれません。
 また、この映画に関する公開時のアニメージュに、高畑勲が「この映画は宮崎勤と猛烈関係がある」的なことを言った、という情報もあるので、これも調べてみたいところ。
 個人的にはちょっと「社会」が息ぐるしつつなりつつあるので(格差社会とか)、バランスとしては反社会・反体制指向もほどほどにあってもいいか、みたいな気もあります。
(このテキスト、修正するかも)
 明日は終戦記念日か…。
 
 これは以下の日記に猛烈に続きます(必読)。
映画『火垂るの墓』で高畑勲監督が伝えたかったこと(アニメージュ1988年5月号から)