「処女作にはその作家のすべてがあると言われているが」って、いつ誰がどこで何時何分何秒に言った!(2)

 これは以下の日記の続きです。
「処女作にはその作家のすべてがあると言われているが」って、いつ誰がどこで何時何分何秒に言った!
 
 村松友視『淳之介流-やわらかい約束』(河出書房新社)(→amazon)を 読んでいたら、「昭和47年(1972年)の土屋隆夫」の例よりさらに古いテキストで、そのものずばりっぽいのが出てきたのでご紹介。p81

 処女作には、その作家のすべてが含まれている、ということが言われる。したがって、どんな作家も処女作から抜け出ることができない、とも言われる。すべてというのは、可能性の萌芽も含めてのことであり、そういう意味で「薔薇販売人」はまさしく私にとっての処女作である、とおもっている。(「私の文学放浪」昭和四十年)

 ということで、1965年のものが見つかりました。
 しかしこの時点でも吉行淳之介氏は「…ということが言われる」と、当時言われていたことの紹介をしているわけなので、さらにオリジナルを探すことは可能である(探さなければならない)ということになりそうです。
 あまり調べる気にならない(調べるとしてもどこから手をつけたらいいのかわからない)ので、これもメモ・ネタとして記録しておくだけにします。