25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・3

 これは以下の日記の続きです。
25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・2
 
 引き続き『家永教科書裁判と南京事件 文部省担当者は証言する』(時野谷滋、日本教文社)からの引用を続けます。
 今日は、「10・沖縄戦の記述と教科書問題」のうち、「(3)『沖縄戦記録』と一等資料」「(4)「検定制度の取り違え」発言」を引用してみます。
 以下のところも参考にお読みください。
25年前の争点に戻すべきではないか - bat99の日記
 

(3)『沖縄戦記録』と一等資料
 
 またこの『沖縄戦記録』の内容について「一級の資料でない」といったことは事実である。但し文字で書けば一級の史料としたろう。これについて、実は前にも触れた文部省は昭和57年(1982)度検定結果発表の際に次のように述べている。

 なおこの際、一等史料ないし一級史料といった歴史学研究上の専門用語について一言触れておくと、これはその史料の信用度に関する価値判断の標準の問題で、坪井九馬三氏が「史学研究法」の中で史料を「一等史料」から「五等史料」に分け、さらに「等外史料」を設けたことに基づく。同氏によれば一級史料とは「史学事項の起こった当時、当地に於いて其担当者が自ら作った資料、例えば担当者の日記の類、参謀官の覚書等」のことである。ただし、同氏の試みた等級付にはさまざまな批判があり、今日、それに従う人はいない。ただし、一等史料ないし一級史料という用語は今日も残り、その事件について調べる場合、一番信用できるものという意味で用いられている。すなわち当事者のその時の日記ないしメモとか、当事者がそのときに書いた手紙とか、目撃者のその時のメモとか、その時出された法令とか、そういうものを指して一等史料、一級史料とかいう用語が専門家の間では常識的に使われている。この意味からいえば、「沖縄戦記録」に収録されているのは、……その事件から二十数年後に、語られた記憶を記録したものであるから、一級史料とはいえないのである。ただし、それは単に史料の性質を分類する用語として、専門家の間で用いられているにすぎないのであって、この場合、一級史料ではない、というのはその事件の当事者がその時に記録した史料ではない、という意味である。従って、このことはこの記録の価値それ自体を評価するものではない。この当時の混乱の中で、当時記録された一般県民の記録が他に残されていない今日、「沖縄戦記録」に収録されたものの価値は、貴重なものとなっている。

 話がやや本筋から離れてわかり難くなるかもしれないけれども、ものにはついでということもあるので、このことに関するコメントが、家永氏の最終準備書面の他の部分にあるので、それを引くと次の通りである。

 なお、被告は、坪井九馬三のように古めかしい史学概論を持ち出して、史料の形式的な区分に固執している。すなわち、当事者が事件の当時に記載した第一次史料に比べて、後年の回想や証言は資料的価値が劣るとするのである。これに対して、江口圭一証人は次のよううな趣旨の反論をしている。即ち、第一次史料であるからといって必ずしも信憑性が高いとは限らない。第一次とはあくまでもオリジナリティの程度を示すものであって、真実度や正確度をしめすものでない。たとえば、太平洋戦争中の大本営発表は最も権威ある当事者によって、事件と同時に文書として作成された記録であって、紛れもない第一次史料であるが、それがどれほど真実から掛け離れ不正確であったか、大本営発表といえばうその代名詞であることは周知の事実である(江口証言第55項)。したがって、被告の第一級史料を重視し、聞き取り史料を軽視する考えは誤っているといわなけれればならない。

 しかしながら、坪井氏の言葉をなぞって、ある戦闘の経過に関する史料についていえば、その戦闘の際に、その戦闘の行われた現地において、その戦闘に参加した者が自ら作った史料、「例えば担当主任者の日記の類、参謀官の覚書等」を一級史料というのであって、大本営発表になると4等、5等史料になるであろう。但し世論操作とか国内謀略とかいう点から使うとすれば「紛れもない「第一次史料」として分類されることもあろう。ちなみにこの「江口証言」というのは、昭和58年(1983)5月16日及び9月5日に、東京高裁で行われた、第一次訴訟における江口圭一氏の証言のことである。
 なお今も述べたように検定側は、他に記録が残されていないのであるから、聞き取り史料集であるけれども『沖縄戦記録』を「貴重なものと考えている」のであって、ただその扱い方を問題にしているだけである。家永氏の準備書面はこういう史料論を展開する前に、昭和62年(1987)1月12日、第三次訴訟の東京地裁の法廷に証人として立たれた、弓削達(ゆげとおる)氏の証言に拠って、次のように主張しておられるが、これについては検定側にも異論はない。

 聞き取り史料であっても、十分な史料批判----1・陳述している事項と陳述者の関係、遠近、直接証言か、間接的な証言か 2・陳述している事項と陳述者との利害関係 3・陳述している事項について、陳述者が自己の目撃、経験以外のルートで知りうることがあり得なかったか否か 4・陳述している事項について、複数の相互に独立した証言があるか否か 5・陳述している事項について、陳述以外の他の史料(状況証拠、傍証となり得る文書など)等----を行った上であれば、十分歴史学上の批判にも耐え得るものになるのである(弓削証言)。

 検定側が江口氏に求めたのは、記録の一つ一つについて、自らの手でこういう十分な史料批判をして欲しい、ということだったのである。

 大本営発表は4等、5等史料だそうです。

(4)「検定制度の取り違え」発言
 
 江口氏は、私が「検定制度を取り違えていないか」と発言した「とのことでした」と述べておられるけれども、これは全くの誤伝であろう。江口氏が文部省に来られたのは、最初の検定意見告知の際の一回だけで、あとのいわゆる内閲調整で私と面接したのはすべて担当編集者である。この編集者は育ちのよさを思わせる若い人で、故意に違ったことを著者に伝えるはずはないから、電話のいたずらかもしれない。私が記憶しているのは、著者は史料批判ということをどう考えているのか、という趣旨のコメントを述べたことである。
 家永氏は準備書面の、この問題をめぐる部分を次のように結んでおられる。

 この点について、江口教授は、「いかなる表現であろうと、日本軍における県民殺害の事実自体を書いてはならないという文部省の強固な意志は、すでに明瞭であった。いかなる表現であろうと、日本軍における県民殺害の事実自体を書いてはならないという文部省の強固な意志は、すでに明瞭であった。合格をうるためのタイムリミットは迫っていた。私は最終的にこの事実の記述を断念するほかはなかった」と述べている。

 これについて江口氏は前節の終りに引いたように、「編集担当者も、もうこれ以上は、という判断でした」と述べておられる。但し「タイムリミットは迫っていた」というのは誇張のし過ぎである。江口氏自身が前々節でも触れた第一次訴訟の控訴審における証言の際、「これはもう82年の1月か2月で、時間が迫っておりまして、これ以上このことについて書くのは望みがないということを出版社の判断としてもいいました」と述べておられるのであって「1月か2月」ではタイムリミットが迫っていたとはいえまい。もちろん、検定合格の日付は3月31日とされるけれども、種々の都合で実際にはその後もズレこむことが、むしろ常習化していたことを、家永・江口両氏ともご存知なかったはずはあるまい。現に家永氏の昭和55年(1980)度本のいわゆる内閲調整は、翌年5月16日にまで及んだのである。
 但しこのとき、編集者が「それでは住民殺害のことは書いてはいけないということですか」とやや気色ばんで尋ねたことは、よく記憶している。これに対して私は、何度押し戻しても記述を裏付ける史料の提出がないという、異例な態度に疑問を感じないわけにはいかなかったけれども、ともかく「確かな根拠を示すことができないことは書かないでほしい」という趣旨の一般論で応じたこともハッキリ覚えている。こういう場合、執筆者が自ら足を運ぶなり、電話するなりして、主査と直接やりとりする場合も少なくないし、家永氏などが自らいわゆる内閲調整に臨まれたこともあったが、この時には、それが全くなかった。
 ここで「サンケイ新聞」昭和57年(1982)9月7日紙に載った次の伊藤隆東大教授の「談」を、参考のため次に掲げよう。

 私も執筆者の一人で、検定を受けた結果から言うと、修正意見(従わなければ不合格となる)でも、絶対に従わなければならないというものだけではない。私は修正意見でも、納得がいかなければ、徹底的に教科書調査官と議論しあい、何度か撤回してもらった経験がある。「時間がないから」という理由で簡単に引きさがり、修正意見どころか、改善意見(従わなくても不合格にならない)にまで応じている執筆者がいるようだが、こうした人は「教科書はどうでもよい」と思っているのではないか。もう少し、きちんと取り組んで欲しい。

 但し、「文責本紙」という記事であることを、念のため申し添えておく。また修正意見の撤回というのは、すでに繰返し述べたように、審議会の再審議の結果に基づいて行われるものであることを、これも念のため付加えておく。

 ただ、「伊藤隆東大教授」は、以下のエントリーに出てくる人なので、
「集団自決」に関する記述の、文部科学省「村瀬信一」氏の行為に興味を持ちました
 「サンケイ新聞」に載った彼の発言が、文部省寄りであることは注記しておかないといけないかも知れず。
 
 これは以下の日記に続きます。
25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・4