「沖縄集団自決訴訟」は、『沖縄ノート』の誤読に基づく、という説(罪の巨塊)

 今日のテキストは無駄に長いです。
 
 以下のところから。
「沖縄集団自決訴訟」の大江健三郎氏関係の記録 - 愛・蔵太の少し調べて書く日記(コメント欄)

ni0615 『このサンケイ「詳報」は、かなり重要なキーワードが省略されていることが、沖縄タイムズの記事との照合だけでもわかります。その一部を下記エントリーの中で指摘しました。大江証言が抽象的観念的なものにされてしまってる惧れがあります。のちに、公判速記禄との照合がかかせません。今の段階で、バイアスがかかったこの「詳報」を詳報だと信じて細かな分析を進めることは大変危険です。』

 以下のところへ。
沖縄戦裁判:訴訟の根拠を原告自ら否定する:イザ!

明瞭になったには4点。

イ)原告本人は第3者から訴訟をそそのかされた。
ロ)原告は読んだこともない『沖縄ノート』を告発した。
ハ)原告は曽野本にかかれている『沖縄ノート』言及を、『沖縄ノート』における表現だと未だに誤認している。
ニ)名指しをした『鉄の暴風』を告訴せず、匿名の『沖縄ノート」を訴えた政治戦術

 ぼく的に興味のあったのは「ハ」のことですが、そのほかにもいろいろ興味深いことが書かれていますので、「沖縄戦裁判:訴訟の根拠を原告自ら否定する:イザ!」のテキストはご覧ください。
 どうも一度、産経の報道による「沖縄集団自決訴訟の詳報」を、大江健三郎氏に関する部分以外も含めて言及しないといけないので、ちょっとやっておきます。太字は引用者=ぼくによるものです。
毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長 - MSN産経ニュース

毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長
2007.11.9 12:18
 
 「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。
 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーのスーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。
 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。
 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。
 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》
 助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。
 《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ
 戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。
 「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」
 転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後、集団自決は隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長は自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。
 さらに62年、助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。
 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」
 だが、隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。
 「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (1/4ページ)
2007.11.9 15:12
 
 沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。
 
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》
 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅沢さん「はい」
 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅沢さん「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅沢さん「戦えない」
 原「陸上戦は予定していたのか」
 梅沢さん「いいえ」
 原「なぜ予定していなかったのか」
 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅沢さん「していない
 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (2/4ページ)
2007.11.9 15:12

 原「どう答えたか」
 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅沢さん「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
 原「その後の集団自決は予想していたか」
 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
 原「集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅沢さん「昭和33年の春ごろサンデー毎日が大々的に報道した」
 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」
 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅沢さん「とんでもない
 原「島民に餓死者はいたか」
 梅沢さん「いない」
 原「隊員は」
 梅沢さん「数名いる」
 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (3/4ページ)
2007.11.9 15:12

 原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「団長以外の4人の運命は」
 梅沢さん「自決したと聞いた」
 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」
 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》
 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅沢さん「1人で行った」
 原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (4/4ページ)
2007.11.9 15:12

 原「どんな話をしたのか」
 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した
 原「その反対を押し切ったのは誰か」
 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」
 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅沢さん「資力がなかったから」
 原「裁判で訴えたいことは」
 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」
 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた
 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」 (1/4ページ)
2007.11.9 17:12

 《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》
 
 被告側代理人(以下「被」)「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたのは知っていたか」
 梅沢さん「島の長が島民に教育していたと思う」
 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」
 梅沢さん「それくらいは浸透していたと思う」
 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」
 梅沢さん「そういうことは、新聞や雑誌が言っていたことだ
 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」
 梅沢さん「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」
 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」
 梅沢さん「私から基地隊長にお願いした」
 被「軍の装備について。軍にとって手榴(しゅりゅう)弾は重要な武器か」
 梅沢さん「はい」
 被「女子青年団長が軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」
 梅沢さん「はい。団長から聞いた」
 被「(座間味村史を示し)『民間人だし足手まといになる』『万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いている女性のことは知っているか
 梅沢さん「知らない人だ
 被「こんなことがあった、というのは知っているか」
 梅沢さん「こんなことはありえない

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」 (2/4ページ)
2007.11.9 17:12
 
 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」
 梅沢さん「言うはずがないと思う
 被「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
 梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う
 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
 梅沢さん「ありえない」
 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」
 梅沢さん「知らない」
 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」
 梅沢さん「知らない」
 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」
 梅沢さん「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」
 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」
 梅沢さん「同じだ」
 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」
 梅沢さん「言った」
 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」
 梅沢さん「言った」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」 (3/4ページ)
2007.11.9 17:12

 《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》
 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」
 梅沢さん「違う」
 被「別の機会の会話の録音テープがあるのだが、助役の弟が『公表しないでほしい』と言ったのに対し、あなたは『家族や知人には見せる。公表は考える』と答えているが、間違いないか」
 梅沢さん「はい」
 被「じゃあ、家族に見せるためと、証言を頼んだんでしょう」
 梅沢さん「それだけのためじゃないですよ」
 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか
 梅沢さん「去年
 被「どういう経緯で読んだのか
 梅沢さん「念のため読んでおこうと
 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「昭和55年に出した島民への手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」
 梅沢さん「私は『軍は関係ない』とは言っていない」
 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」
 梅沢さん「全然認めていないわけではない

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」 (4/4ページ)
2007.11.9 17:12

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》
 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという軍令を島民に出したか」
 梅沢さん「出していない。兵も配置していない」
 原「軍は何かしたのか」
 梅沢さん「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」
 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」
 梅沢さん「ありえない
 原「軍は全島に展開していたからか」
 梅沢さん「はい」
 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、(曽野綾子さんの著書で軍命令説に疑問を示した)『ある神話の背景』は読んでいたのか
 梅沢さん「はい
 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか
 梅沢さん「知っていた
 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅沢さんの名前は書かれていなかったという意味か
 梅沢さん「そういう意味だ」
 《被告側代理人も再び質問》
 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」
 梅沢さん「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」
 《梅沢さんの本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態」 (1/3ページ)
2007.11.9 19:00

 《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎氏が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》
 
 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」
 赤松さん「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」
 原「沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」
 赤松さん「読んだ。大学の近くの書店で手に入れた」
 原「戦争の話には興味があったのか」
 赤松さん「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、よく読んだ」
 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」
 赤松さん「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」
 原「お兄さんに確認したことは」
 赤松さん「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、本棚で見つけて持って帰った」
 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」
 赤松さん「2、3冊はあったと思う」
 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」
 赤松さん「そりゃショックだ。329人を殺した大悪人と書かれていた。もう忘れていたが、最近になって、ショックで下宿に転がり込んできたと大学の友人に聞かされた」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態」 (2/3ページ)
2007.11.9 19:00

 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」
 赤松さん「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できたのだと思う」
 原「『ある神話の風景』は、どういう経緯で読んだのか」
 赤松さん「友達が教えてくれた。無実がはっきり証明され、信頼を取り戻せた」
 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」
 赤松さん「間違った書物は削除、もしくは訂正になると思っていた」
 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」
 赤松さん「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた
 
 《大江氏が身を乗り出すようにして赤松さんの話を聞く》
 
 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか
 赤松さん「はい
 原「訴訟を起こしたきっかけは」
 赤松さん「3年前にある人から話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」
 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」
 赤松さん「難しい本なので飛ばし読みしたが、兄が誹謗中傷されているのはよく分かった
 原「悔しい思いをしたか」
 赤松さん「はい。沖縄で極悪人と面罵(めんば)されたのですから。兄は自決命令を出していないと無実を訴える手記を出していたが、ペンも凶器になるということだ。兄は手記の中で、『沖縄ノート』の資料の質を問い、証人を示すのがジャーナリストの最低限の良心と問うていた」
 
 《原告側代理人の質問が終了》

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態」 (3/3ページ)
2007.11.9 19:00

 被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」
 赤松さん「ない」
 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求めたことがあったか」
 赤松さん「なかったでしょうね」
 被「沖縄ノート』が店頭に並んでいると教えてくれた人が、裁判を勧めたのか
 赤松さん「そうなりますか」
 被「お兄さんの手記は読んだか」
 赤松さん「読んだ」
 被「『島の方に心から哀悼の意を捧(ささ)げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」
 赤松さん「知っている」
 原「裁判は人に起こせと言われたのか」
 赤松さん「確かにそうやけど、歴史として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」
 《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した》

 
 この次に「【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」」「【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」」が入るのですが、それは「「沖縄集団自決訴訟」の大江健三郎氏関係の記録 - 愛・蔵太の少し調べて書く日記」で紹介したので省略して。
 情報的には、以下のテキストは、
沖縄戦裁判:訴訟の根拠を原告自ら否定する:イザ!

明瞭になったには4点。

イ)原告本人は第3者から訴訟をそそのかされた。
ロ)原告は読んだこともない『沖縄ノート』を告発した。
ハ)原告は曽野本にかかれている『沖縄ノート』言及を、『沖縄ノート』における表現だと未だに誤認している。
ニ)名指しをした『鉄の暴風』を告訴せず、匿名の『沖縄ノート」を訴えた政治戦術

 原告は「二人」なので、「原告の一人は」というのが正確なところ。「そそのかされた」「政治戦術」という語法も、ちょっと表現が立ちすぎている言い回しなので、ぼくは回避するところですが、まぁそれはそれとして。
「沖縄集団自決訴訟」の大江健三郎氏関係の記録 - 愛・蔵太の少し調べて書く日記(コメント欄)

ni0615 『このサンケイ「詳報」は、かなり重要なキーワードが省略されていることが、沖縄タイムズの記事との照合だけでもわかります。その一部を下記エントリーの中で指摘しました。大江証言が抽象的観念的なものにされてしまってる惧れがあります。のちに、公判速記禄との照合がかかせません。今の段階で、バイアスがかかったこの「詳報」を詳報だと信じて細かな分析を進めることは大変危険です。』

 沖縄タイムスの記事から。
沖縄タイムス:大江氏「軍命」主張/「集団自決」訴訟

大江氏「軍命」主張/「集団自決」訴訟
 
 【大阪】沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、大江健三郎氏の「沖縄ノート」などの書籍に住民に自決を命じたと記され、名誉を傷つけられているとして、島に駐屯していた部隊の元戦隊長らが大江氏と著作発行元の岩波書店に、出版の差し止めなどを求めている訴訟の本人尋問が九日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。午後から大江氏が出廷。「集団自決」について「軍による命令と考えている」と語った。
 「沖縄ノート」の記述などをめぐって原告と被告双方の質問に約一時間ずつ答えた。
 
 大江氏は「集団自決」について「太平洋戦争下の日本軍、現地の第三二軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造によって、島民に強制された」とし、「日本軍による責任は明確で、『沖縄ノート』の記述を訂正する必要は認めていない」と述べた。
 
 原告側が戦隊長らの名誉棄損を主張している「沖縄ノート」の各記述について、大江氏は「日本軍の命令系統の最先端にいる責任者として、責任を負っている」としたが、「注意深く、隊長個人の名を書くことはしなかった。個人の名を挙げるよりも、問題が明確になる」とし、隊長個人は非難していない、との認識を示した。
 
 原告側は、大江氏が語った「タテの構造」の話は、「沖縄ノート」では説明されておらず「一般読者の注意と読み方に照らし、そうは読めない」と反論。各記述についてそれぞれ「戦隊長個人を非難している」などとただしたが、「文章を読み違えている」とする大江氏と平行線をたどった。
 
 大江氏は「『集団自決』が美しく、清らかだという欺瞞に反対するのが私の仕事だと思う」とし、「愛国心のために自ら命を絶った、国に殉じて美しい心で死んだと、事実をゆがめること自体が人間をおとしめている」と語った。
 
 午後の尋問では、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟秀一氏(74)も証言。「兄は尊敬の対象」だったとした上で、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」で、嘉次氏が住民に「集団自決」を命じたと書かれ、「ショックだった。人殺しの大悪人と書かれているわけだから」と述べた。曽野綾子氏の著作「ある神話の背景」で、「兄の無罪がはっきりし、兄への親近感を取り戻せた。家族も戦隊の方々も心の支えになっていると思う」などと語った。
 
 被告側の反対尋問では、命令を出したことを生前、嘉次氏に確かめたことはないと述べた。
 
 
     ◇     ◇     ◇     
大江氏、身乗り出し反論
 
 
 書き上げたのは個人への断罪ではなく、琉球処分以後、大和世、戦世、アメリカ世と続き、施政権返還後も続きそうな沖縄への抑圧とそこに暮らす人々の苦しみ。それに対する日本本土の人々の無関心さ、無自覚さ。そうした自分を含む「日本人」への反省と問いかけだった。「沖縄ノート」(岩波新書)の著者、作家・大江健三郎さん(72)は、なぜこの本を書き、なぜ「集団自決(強制集団死)」を取り上げたのか、法廷で言葉を紡いだ。
 
 濃紺のスーツ姿で証言台に立った。
 
 「集団自決」を命じた日本―日本軍―三二軍と連なる「タテの構造」と、「その先端にいた渡嘉敷島の元戦隊長(海上挺進第三戦隊の戦隊長・故赤松嘉次さん)の沖縄再訪」に、沖縄と本土にある差異に無知、無自覚な日本人の意識が表れているとの考えを述べた。
 
 「いまでも慶良間諸島の『集団自決』に日本軍の軍命、強制があったと考えるか」との問いには「沖縄の新聞、本土の新聞にそれを示す新たな証言が掲載され、確信を強くした」と答えた。
 
 原告側は反対尋問で、「沖縄ノート」の記述の解釈や、根拠について詳細な説明を求めた。
 
 「罪の巨塊」という言葉で、個人を断罪しているのではないか。作家・曽野綾子さんが著作「ある神話の背景」などで「沖縄ノート」の記述を批判しているのと同様の主張を尋問でぶつけた。
 
 大江さんは「罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」「私は『罪の巨塊の前で、かれは…』と続けている。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」と説明、「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」と指摘した。
 
 原告側は、別の記述を引用し「赤松さんらの個人の責任を追及しているように読める」などと、何度も詰め寄った。
 
 大江さんの反論にも熱が入った。顔を紅潮させ、身を乗り出すように「それは誤読です」「そうは読めません」と強く否定した。繰り返される原告側の主張を諭すように「説明しましょうか」と申し出て、「個人に対してではなく、『集団自決』を慶良間諸島の人々に命じ、強いた構造への責任を問う」ことが記述の主眼であることなどを説いた。
 
 「赤松隊長はどの時点で『集団自決』を予見できたと考えるのか」との質問には、「手榴弾が住民に配られた時点」と答え、体験者の金城重明さんや吉川勇助さんの証言を根拠に挙げた。
 
 二時間にわたる尋問を終えた大江さんは、大きく肩を上下させてシャンと背を伸ばし、正面を見据えて証言台を後にした。
 
 
原告と被告、溝鮮明に/解説
 
 
 「集団自決」訴訟の本人尋問は、民事訴訟の被告になったノーベル賞作家が法廷に立つことで、注目を集めた。ただ、戦隊長命令の有無をめぐる訴訟で、むしろ意味合いが大きいのは、戦後手だてを尽くして自決命令を否定してきた元戦隊長が、自らの言葉で何を語るかだった。
 
 原告側は、米軍の上陸を控え、村の幹部らが梅澤裕氏を訪ねて来た一場面に絞り、梅澤氏による命令を全面否定。皇民化教育を背景に、日本軍が島に駐屯した経緯をたどり、軍や戦隊長による強制・命令の実態をとらえる被告側との擦れ違いは鮮明になった。
 
 梅澤氏の主張は従来通りだったが、部隊の最高指揮官としての責任を否定した証言は印象深い。主尋問で「責任はない」と明言し、反対尋問や会見でも「一番の責任は米軍にある」「命令を出したのは軍ではなく県」とするなど、多くの犠牲者が出た「集団自決」という事実からの“逃避”をうかがわせた。
 
 七月にあった宮城晴美氏の証人尋問で、原告代理人は「梅澤さんは責任がないとはひと言も言ってない」と明言していただけに、梅澤氏の発言は、弁護団とのずれをのぞかせる場面ともなった。
 
 同訴訟の提起は二〇〇五年八月だが、原告側が名誉棄損の主たる対象にしている「沖縄ノート」を「去年になって初めて読んだ」と話す梅澤氏。赤松嘉次・渡嘉敷島元戦隊長の弟も、訴訟を起こしたきっかけを、嘉次氏の陸軍士官学校同期生から誘われたと述べた。
 
 軍の命令と戦隊長による命令を明確に区別し、原告側が元戦隊長ら個人の名誉回復を強調する一方、岩波側の支援者は「狙いは日本軍そのものの名誉回復」とみる。本人尋問では、訴訟の提起が少なくとも原告本人の発意ではなかったことを事実上、裏付けた。
 
 同訴訟は、係争中でも高校の歴史教科書検定の主たる根拠となった。判決は将来の検定に影響を与えるのに十分な可能性をはらんでいる。(社会部・粟国雄一郎)

 ぼくの部屋のどこかにある『沖縄ノート』を見つけるより、書店でまた買ったほうがいいとは思うのですが、大江健三郎さんのテキストはわかりにくくて誤読を招きやすいものであると言われると、「そんなことはない」という反論が難しいと思う、というのは、納得できる感じです。
 で、大江健三郎さんの『沖縄ノート』の、問題の箇所はこんな感じです。引用の引用ではありますが、
15年戦争資料 @wiki - 「沖縄ノート」"IX-「本土」は実在しない"より

慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変にカをつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。
本土においてすでに、 おり はきたのだ。かれは沖縄において、いつ、その おり がくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守傭隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぷりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。 おりがきたら 、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、その おり がきたとみなしたのだ。

 曽野綾子さんのテキストでは、こんな感じです。
【正論】集団自決と検定 作家・曽野綾子 それでも「命令」の実証なし - MSN産経ニュース

 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。

 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。

第34回司法制度改革審議会議事録

 当時の資料を列挙しますと、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦「太陽」(浦崎純著)
 などがあります。これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

 正直なところ「あまりにも巨きい罪の巨塊」という語は、赤松大尉を指しているようにはぼくには、文脈的には見えませんでした。みなさんはいかがですか。
 ただ、その語が「集団自決を命令した行為」なのか「軍の組織(日本軍という組織)」なのかは不明で、本のテーマを「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている」としている大江健三郎さんの意見を考えると、「赤松隊長=極悪人」と大江健三郎氏が言った、という曽野綾子さんの話も微妙にあやしくなります(誤読に思えます)。
 ぼく個人は、誤読に関してはかなり慎重にしているつもりなんですが(それでもテキストを誤読してしまう人がいるのは仕方ないと思いますが)、「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」と聞かれたら、どの部分をどのように誤読しているかの説明は、かなり「顔を紅潮させ」てやりそうな気はします。
 さて、みなさんはいかがですか。
 ぼくなら「プロフィール」の「【私的用語集】」に、

・罪の巨塊
 旧日本軍という組織集団自決の死体

 というふうに記述しておくかもしれません。
 でもまぁ、よくわからないけど、赤松隊長も含めて旧日本軍が「集団自決の命令」を民間人に出すほどのすごい組織ではなかったかも、とかが、争点になったりしたことは、それなりに考える素材になった分、益はあったんじゃないでしょうか。
 
 これは以下の日記に続きます。
人が書いてもいないことを書いたと書く(言う)のはカンニンしてください、曽野綾子さん(罪の巨塊)