「ネットカフェ難民」の定義と報道の問題について

 これは以下の日記の、ちょっとした続きです。
ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です
 
 年末なのでこのような記事も出たわけですが、
中日新聞:静岡・ある『ネットカフェ難民』の実情 58歳男性『娘と孫に会う日』夢見て:静岡(CHUNICHI Web)

静岡・ある『ネットカフェ難民』の実情 58歳男性『娘と孫に会う日』夢見て
2007年12月30日
 
『漂流』生活 抜け出したい
 
薄い壁で仕切られた個室で過ごすノボルさん=静岡市葵区
 
 イルミネーション輝く年末の街。人々が足早に行き交う雑踏で、今夜もインターネットカフェへと足を運ぶ人たちがいる。「ネットカフェ難民」。住居がなく、インターネットカフェに寝泊まりして暮らす人を指す言葉として、今年の流行語にも選ばれた。東京など大都市では彼らの存在がクローズアップされたが、静岡ではどうなのか。実情を探った。 (静岡総局・諏訪慧)
 JR静岡駅から徒歩数分、静岡市葵区にあるインターネットカフェ。午後9時半ごろになると、大きな手提げバッグや紙袋などを持った人々が、店の入り口の前に集まり始めた。
 「ねぇ、もう10時になったでしょ」
 「あと2分待ってください」
 従業員とやりとりしつつ、多い日には10人前後が、泊まり込みのセット料金の受け付けが始まる午後10時を待ち構える。
 ほぼ毎晩列をつくるノボルさん(58)=仮名=は、この冬からインターネットカフェで寝泊まりする。手にはカップラーメンと菓子パンの入ったポリ袋。その日の夕食と翌日の朝食だ。
 左右を薄い壁で仕切られた約一畳のスペース。背後のカーテンを閉め、翌朝6時まで過ごす。料金は1泊千数百円。インターネットカフェだが、ノボルさんの泊まるスペースにはパソコンは置いていない。
 「居心地が良いわけないよ。誰だってこの生活から早く抜け出したいって思ってる」
 2年前の冬まで、ノボルさんには家も家族も、定職もあった。しかし親族の不幸や兄弟との金銭トラブル、妻との不仲に離婚、高校生だった娘の出産と結婚−。安倍川の土手で睡眠薬を飲み自殺を図ったが未遂に終わり、静岡市の自宅を逃げ出して、同市や焼津市で路上生活を始めた。
 地下道で寝泊まりを続けながら、知人から紹介された内装関係の仕事をしていたある雨の日。このインターネットカフェが偶然目に付いた。他の店と比べ、格段に安かったのも魅力だった。
 ノボルさんは現在、建設現場の仕事で約1万円の日当を稼ぐ。持病のヘルニアは手術が必要なほどだが、「拾い食いや盗みをするようになったらおしまい」と、今後も仕事を続けるつもりだ。
 目標は資金をためてアパートを借りることパチンコも競輪もやめた。浜松や名古屋、東京に行けば仕事はもっとあるかもしれない。でもノボルさんが静岡市内にいるのにはわけがある。
 「近くに住む娘と孫に会いたいんだ」
 1年前、娘の自宅前まで行ったが、引き返した。でもこの生活から抜け出せば−。
 勇気がなくて押せなかった娘の家の呼び鈴を、来年は押せるのではないか、と思っている。
 厚生労働省の調査によると、住む家がなくインターネットカフェなどを週3−4日以上利用している人は全国で約5400人以上。県内の状況は「不明」(静岡県厚生部、同産業部)で、実態調査の予定もないという。
 全国のインターネットカフェなどでつくる日本複合カフェ協会は今年9月、イメージ悪化につながるなどとし「ネットカフェ難民」という言葉を使わないよう求める緊急アピールを公表した。一方で「ネットカフェ難民」は12月3日、出版社の主催する「2007ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに選ばれた。

 もうネットカフェ難民」の語の定義の根本部分から間違っているような気がします。
 ぼくは「経済的困窮」以外の理由でネットカフェしか利用できない「難民」まで「ネットカフェ難民」というのは、「難民対策」を考える際に障害となりすぎるので、やめるようにしてもらいたいのですね。
 今回引用した記事の「ノボルさん(58)」の場合は、「経済的困窮」はあるのでしょうが、そもそもの原因は「家庭の事情」でしょうし、「資金をためてアパートを借りる」ことを目的としている以上、難民というよりかなり一時的な避難民という気がします。
 なんでもかんでも「ネットカフェに寝泊りする人」を「ネットカフェ難民」という形でクローズアップするのは、「経済的困窮」に苦しみながらもネットカフェを利用しない(利用すらもできない?)社会的弱者に対する視点が欠け落ちてしまうだろうし(←ここかなり重要)、マスコミ報道的には「ネットカフェ難民(ネットカフェで生活する人たち)」というのは映像・記事的に面白い(視聴者・読者の興味を引く)存在ではありましょうが、そういう生活を選んだのか、選ばざるを得なかったのか、各人には各人の事情があると思うのに、「ネットカフェで暮らすかわいそうな・奇妙な人たち」という視点で固定されてしまう。
 ぼく個人の判断は、前の日記でも述べたとおり、経済的理由で「ネットカフェ難民」を選んだ人間は、「ネットカフェで(ほぼ)生活している人」の中の何割かにすぎず、多くは「個人的な事情(家庭の事情)あるいは趣味」でネットカフェを生活の場にしているのでは、という感じです。それは具体的に個々の例について見てみたテキストがぼくの日記に存在しますし(「ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です」)、それを否定できるようなデータも今のところ確認できませんでした。
 もちろん、社会的弱者に対する援助・救済措置は常に必要だし、それに関する報道はおこたってはいけないと思いますが、それだったら「ネットカフェ難民」じゃなくても報道するものはいくらでもありそうな気がします。具体的には、生活保護手当て」打ち切りのひどい例とか何とか。
「絵(映像)になりやすい、わかりやすい人たち」の記号化は、フィクション(虚構)を作る人はあえて避けるか、パーソナリティを立てるかするものなのですが*1、報道の場合は逆にどうも「あえて記号化してみる」という方向に行っているようで、マスコミ報道の嘘くささは、TVの中で怒ったり泣いたり同情したりしている人の顔を見るたびに、年々ひどく感じるようになりました。そういうマスコミの演出が、事態の深刻さにどの程度対処できるか、というと、単に野党の与党攻撃(批判)の、最初の引っかかりにしかなっていないのですね。その「最初の引っかかり」が「調査」によってミスだったとしても、「マスコミの演出」の責任は曖昧になってしまう。マスコミ報道に対する不信は、まず野党側が持つべきで、「新聞が報道しているのだから与党は調査しろ」じゃなくて、「新聞の報道に基づき調査したらこういう結果になったので与党は対策を考えろ」と言わないと、これは野党不信にもなってしまうわけです*2

*1:たとえば「渋谷の女子高生」「秋葉原のオタク」を小説に出す場合は、それが単なる「記号」にはならないよう、それなりの小説家はそれなりの努力をします。多分

*2:そういう意味でぼくが信頼できる野党は、独自の調査能力を持っている共産党だけです。公明党も野党だったら信頼できる党になるかもしれません