西山陣地近くへの「集合命令」に関する朝日新聞の記事はどの程度信用できるのか

 これは以下の日記の、ちょっとした続きです。
「兵事主任」ってそんなに「重要な役割」なのか? - 愛・蔵太のすこししらべて書く日記
 
 気になるのは、朝日新聞の以下のテキストなのでした。
朝日新聞1988年6月16日の富山真順さんの「証言」電子テキスト化と、謎の「兵器軍曹」について - 愛・蔵太のすこししらべて書く日記
 以下、記事の部分引用。

三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。「命令というより指示だった」とはいうものの、今も本当に健在の元巡査はその「軍指示」を自分ができる限り伝えて回ったこと、「指示」は場所を特定せず「日本軍陣地の近く」という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。

 この「日本軍の陣地」というのが「西山陣地」と呼ばれているわけですが、この証言によると、
1・比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が軍命令を伝えた
2・命令というより指示だった
3・元巡査はその「軍指示」を自分ができる限り伝えて回った
 富山真順さんがその「命令」を村民に伝えた、という記事ではないですね。
 この件に関しては、大江健三郎沖縄ノート裁判(この裁判の正式名称は不明なんですが、検索でひっかかりそうな裁判名にしてみました)の、被告側の準備書面その他ではこのように書かれています。
書面10沖縄ノート裁判の、被告側の準備書面

そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が村民に伝えられた(乙12、乙13−197頁)。

 この「ら」というのが引っかかるところ。
 ここでの「乙12」は、引用した朝日新聞の記事で、「乙13」は「『渡嘉敷村史 通史編』(渡嘉敷村 1990年)」で、こちらの元テキストを探すにはちょっと時間がかかりそうですが、ちょっと時間が取れたら見てみます。
 あと、安仁屋政昭さんの陳述書から。
安仁屋陳述

(前略)
  富山真順氏の証言は、つぎのとおりです。
(中略)
3・3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
(後略)

 いずれも、富山真順氏が「軍の集結命令を伝えた」という証言を採用しているんですが、それってどう考えても朝日新聞の記事とは矛盾するんですが。
 こういう「事実の証言」に関しては、類似テキストであっても「○○という証言もあるが、それは(部分的に)間違いである」とか何かで言ってもらえるとありがたいんだけど、「軍の命令があったことは、○○という(複数の異なった?)証言で証明されている」としか言ってくれないので、真実がよくわからなくなるのですな。軍の命令はあったかも知れない、でもそれを伝言する人間は誰だったのか。
 …やはり安仁屋政昭さんに手紙出してみようかと思った。裁判も一段落したみたいなので、時間も少しはあることでしょう。
 誤解されると嫌なので無駄に補足しておくと、これは「軍の命令がどのように伝えられたか」に関する疑問で、「軍の命令があったかなかったか」に関する疑問ではありません。
 そもそもぼくの日記のテキストに「軍の命令なんて存在しない」なんてことを言っているものがあるかどうか。
 ちょっと覚えてないけど、多分言ってないと思う。でも言ってるかもしれない。コメント欄でご指摘ください。修正します。
 あと、このテキスト。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会 第4回口頭弁論準備書面

(2) 昭和28年3月28日の日付のある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)の資料1の12頁には、「昭和20年3月27日駐在巡査安里喜順を通じ集合命令を伝えられた住民は、西山へたどり着いた。・・まもなく兵事主任新城至純をして住民の終結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は以外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。」とある。

 これは原告側の準備書面からなのですが、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』にも目を通さねばならないみたいです。