唐の時代に日本がパンダをもらった、という誤報・誤訳について

 以下のところから。
「パンダ貸与」の意味するもの:NBonline(日経ビジネス オンライン)

「パンダ貸与」の意味するもの
1300年前に世界で最初にパンダの寄贈を受けたのは日本だった
 
 日本が唯一所有権を持っていた上野動物園ジャイアント・パンダ(以下「パンダ」)のリンリン(陵陵)が2008年4月30日に死亡した。1985年に北京動物園で生まれたリンリンは、日中国交回復20周年を記念して、日本生まれのパンダと交換する形で1992年に上野動物園へ寄贈されたものだった。現在のところ日本には合計8頭のパンダ(神戸市立王子動物園2頭、和歌山アドベンチャーワールド6頭)が飼育されているが、これらはいずれも研究目的という名目で中国から有償で貸与されているものであり、日本に所有権はない。
 
“寄贈”ではなく、有償の“貸与”とはみみっちい?
 
 リンリンの死亡時期が折しも中国の胡錦涛国家主席の訪日直前であったことから、日本政府は中国政府に対して胡主席の訪日土産の意味合いを込めてパンダ2頭の借り受けを要請した。5月6日午後に訪日した胡主席は同日夜の福田首相主催の夕食会で、日本側の要請に応えて「雄雌1対のパンダを研究目的で日本に貸与する」ことを表明した。
 しかし、中国の国家主席が訪日したにもかかわらず、これといった成果も土産も無いのに、パンダ2頭が“寄贈”ではなく、有償の“貸与”とはみみっちいという声が巷に溢れ、それならパンダ2頭の借り受けは必要ないという反対の声も高い。何故にパンダ2頭は“貸与”なのであろうか。
 2007年9月13日付の広東省広州市の夕刊紙「羊城晩報」は、国家林業局のスポークスマンである曹清堯が記者会見の席上で「我が国は今後パンダを海外へ寄贈することを取り止める」として次のように述べたと報じている:
1・中国は海外へのパンダ寄贈を既に停止しており、海外との共同研究を目的とした貸与だけがパンダを海外へ送る唯一の方法である。
2・中国がパンダを寄贈するのは、香港及び台湾の同胞に対してのみとする。
3・海外との共同研究は、パンダの繁殖や生理などの分野で関連技術を持つ外国動物園や組織を対象とするが、これは既に良好な成果を上げている。現在中国は5カ国の9つの動物園とパンダの共同研究を実施しており、海外で共同研究しているパンダは30頭に及んでいる。
 
海外貸与総数の3割以上を日本が占めることになるから
 
 上記の国家林業局の決定が、今回の訪日時に胡主席をしてパンダを“貸与”としか表明できなかった根拠となっているのである。今回日本が共同研究の名目で新たに2頭の貸与を受けることになれば、パンダの貸与頭数は10頭となり、32頭(30頭+2頭)中の10頭が日本ということになり、海外貸与総数の実に3割以上を日本が占めることになるのである。
 ところで、“同胞の地”としてパンダ寄贈の対象地域とされた香港と台湾の現状はどうなのだろうか。香港特別行政区に対しては、1999年に安安(アンアン)と佳佳(ジァジァ)という雌雄1対のパンダを寄贈したが、2007年4月には香港返還10周年を記念して楽楽(ルールー)と盈盈(インイン)の雌雄1対を新たに寄贈している。また、台湾に対しては、2005年4月に当時台湾の最大野党であった国民党の連戦前主席が訪中した際に、中国は台湾融和策の一環としてパンダ1対の寄贈を発表した。
 これに対して台湾の陳水扁総統は中国の身勝手な決定と反発を示してパンダの受取り拒否を表明したが、中国は寄贈予定のパンダの名前を国内で公募し、テレビで命名式典を放映して、2頭のパンダに団団(トアントアン)と円円(ユエンユエン)と命名した。
 
2008年にも台湾へ寄贈
 
 その後も陳水扁総統は断固拒否を貫いたので、パンダ2頭の寄贈は宙に浮いた形となっていたが、2008年1月の立法院選挙で野党の国民党が圧勝し、3月の総統選挙で国民党候補の馬英九が勝利したことから状況は大きく変化することとなった。3月下旬の当選後の記者会見で馬英九次期総統は2頭のパンダを基本的に受け入れる方針を表明しており、2008年中にもパンダ2頭の台湾への寄贈は実現することになろう。
 
パンダ外交の終焉
 
 中国の推計によれば、現在パンダの生存総数は野生も含めて約1595頭であり、2006年末までの時点で人工飼育されているパンダは217頭であるという。しかし、統計によれば、これら人口飼育されているパンダの雌の78%は妊娠しないし、雄の90%は育たないという。こうした意味合いから、中国政府が「海外へのパンダ寄贈を停止した」ことは当然の帰結とも言えるが、それはまた中国政府が長年にわたって実施して来た“パンダ外交”の終焉をも意味している。即ち、唯一の抜け道である研究目的を名目とした有償の“貸与”と“寄贈”とではその有難みが天と地ほどに異なり、現に日本で起こっている“貸与”なら不要という声が上がるほどに、“貸与”の外交的効果は極めて小さいと言わざるを得ない。
 
西暦685年にシロクマ2頭と70枚の毛皮を贈っていたとの記録がある
 
 それでは、中国によるパンダ外交の始まりはいつだったのか。中国の学者の研究によれば、日本の皇室の資料に、西暦685年に中国唯一の女帝である唐の則天武后が日本の天武天皇に“白熊”2頭とその毛皮70枚を送ったのという記載があるという。従来の解釈では“白熊”は北極の白熊であると考えられていたようだが、唐が遠く離れた北極の白熊を贈るというのには無理があり、この“白熊”がパンダだったというのである。
 天武天皇(在位673〜686年)は日本の各種特産品を則天武后に送ったが、則天武后はこの返礼として熊とその毛皮を贈ろうとしたが、日本には熊がいると聞いて、日本にはいない“獏”とその毛皮を贈ったという。現在では“獏”という文字は動物の“バク”を表すが、当時はパンダを指し、これを受け取った日本側は“獏”という文字の意味が分からず、毛皮の色からこれを“白熊”と記録したというのである。筆者も肝心の資料を確認しておらず、事の真偽は不明だが、当時の唐の宮殿ではパンダが飼育されていたという記録があるそうで、この説をでたらめと一笑に付すことはできない。それにしても、パンダ外交の始まりが1300年以上も前の日本であったと中国の学者が論じていることは興味深い。

 ちょっと待った。
武則天 - Wikipedia

武則天(ぶそくてん、623年?-神龍元年11月26日(705年12月16日) 在位690年-神龍元年1月24日(705年2月22日)

 天武天皇武則天則天武后)の在位は全然重なってません。
 引用を続けます。

 
中国がパンダを切り札と考えたのは1941年・・・
 
 一方、中国がパンダを外交の切り札として起用したのは、1941年に当時の大財閥であった宋家が難民救済の謝礼としてパンダ1対を米国に寄贈したのが始まりで、1946年には国民党政府が英国政府にパンダ1頭を寄贈している。ある統計では、1936年〜1946年の間に中国から運び出された生きたパンダは合計16頭で、これとは別に70頭ほどの標本が欧米の博物館へ送られたという。その後、1949年に中華人民共和国が成立し、パンダは本格的に外交の切り札としての役割を担うことになる。
 中国政府は1957年に四川省で捕まえた3頭のパンダの内の1頭を当時の友好国であったソ連のモスクワへ寄贈したが、1959年にはもう1頭を配偶者として追加寄贈している。また、1965年から1980年までの間に北朝鮮へ合計5頭のパンダを寄贈している。その後、1970年代からパンダ外交は本格化することになるが、その最初は1972年の米国のニクソン大統領の訪中であった。
 ニクソン大統領訪中時の宴会の席上で、時の周恩来総理がニクソン夫人にパンダ印のタバコを差し出し、「お好きですか」と尋ねた。ニクソン夫人が「タバコは吸いません」と応じると、周総理はタバコの箱に印刷されているパンダの絵を指差して、「これはお好きですか」と尋ね、「もし米国が2頭の麝香牛を贈ってくださるのなら、北京動物園も2頭のパンダを米国へ贈ります」と述べたという。これを聞いたニクソン夫人はニクソン大統領に「あなた聞いた、パンダよ、総理がパンダを贈ってくださるそうよ」と狂喜したという。
 この米国を皮切りとして、中国はその後、日本、フランス、英国、西ドイツ、メキシコ、スペインにも外交の切り札としてパンダを寄贈し、次々と国交を開くこととなる。1957年から1982年の間に、中国は友好の象徴として9カ国に23頭のパンダを寄贈しており、上述した685年から1982年までに約40頭のパンダを外国へ寄贈している。
 
1987年から寄贈を自粛
 
 1975年に「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(=ワシントン条約)が発効したことで、中国は1987年から希少動物であるパンダの外交カードとしての寄贈を自粛することとなり、その後は共同研究を名目とする貸与がパンダの海外提供の主流となることになったのである。その共同研究が最初に実施されたのが1994年であり、相手先が和歌山アドベンチャーワールドであった。それ以降、共同研究を名目とするパンダの貸与は、韓国のソウル、米国のアトランタ、ワシントン、メンフィスなど世界各地の動物園に対して実施されている。
 しかし、“貸与”はあくまで有償ベースであり、貸与を受ける動物園側には多大な経済的負担がかかってくる。一般に米国の動物園が共同研究の名目でパンダの雌雄1対を期間10年間で貸与されると、その貸与料はパンダ1頭につき年間100万ドルで、10年間の貸与料合計は2000万ドルであり、さらに子供が生まれた場合は1頭につき毎年60万ドルが追加となり、子供は2歳になったら中国へ返還することが条件付けられるという。貸与料の高は交渉事であるので、個々の状況により異なるのだろうが、パンダの場合は飼育に関わる施設、飼料、人員の経費も巨額であり、いずれの動物園も貸与料と経費の捻出に苦慮しているようである。
 
「白」「黒」から「商業的な色」に
 
 筆者がパンダを初めて見たのは北京駐在中の1987年で、家族とともに訪れた北京動物園であった。当時5歳と2歳の子供たちはパンダが見られるというので前日から大興奮であったが、実際にパンダをまのあたりにしたらがっかり。檻の中のパンダは薄汚れていて白い毛は黄ばんでいるし、糞便の臭いが辺り一面に立ち込めていて臭くて立ち止まって居られないほどだったのだ。夢を壊された子供たちは落胆することしきりであった。当時は外交カードもその程度にしか扱われていなかったようだ。因みに、現在の北京動物園ではパンダはガラス張りの部屋に収容されていて、その待遇は過去とは比べ物にならぬほどに改善されている。
 世界の子供たちに愛されるパンダを絶滅から救うために国際的な共同研究を進めることは重要だが、そのパンダが過度に商業的色彩を帯びさせられて人間にもてあそばれることのないようにして欲しいものである。
 
追記:この原稿を書き終えた5月12日に四川省で大地震が発生した。今回の地震で犠牲となった方々やその家族に衷心より哀悼の意を表するとともに、一刻も早く本格的な救援活動が開始されることを切望します。なお、本稿の関連事項として、四川省には雅安(があん)、成都臥龍(がりゅう)の3地点にパンダの飼育基地があり、そのうちパンダ100匹近くを飼育して最大規模を誇る臥龍震源地に所在することから、パンダの安否が心配されたが、パンダは無事なことが確認されたという。
 
(北村豊=住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト)
 
(註) 本コラムの内容は筆者個人の見解に基づいており、住友商事株式会社 及び 株式会社 住友商事総合研究所の見解を示すものではありません。

 とりあえず全文引用してみましたが、「唐の時代のパンダ」に関しては、明白な検証テキストがすでに存在するようです。
日中パンダ交流史試論

去年北京動物園に行ったときに、来場者にくばっていてもらった四川省成都成都大熊猫繁育研究基地が出しているパンフに、以下のようなことが書かれていた。
 
中文
据日本《皇家年鑑》記載、公元658年10月22日、唐朝女皇武則天将一対活体白熊(大熊猫)和70張皮張作為国礼、送給日本天武天皇
てけとー訳
日本の『皇家年鑑』の記録によれば、西暦658年10月22日唐王朝の女帝である則天武后がひとつがいの生きた白熊(パンダ)と獣皮七十枚を国礼として、日本の天武天皇に贈っています。
(中略)
天武天皇の在位は西暦673(672)年から686年、武則天則天武后)の在位は690年-705年で、658年にはどちらもかぶらないよ。658年に即位していた日本の天皇重祚した皇極天皇である斉明天皇で、唐の皇帝は高宗だ。
もしかして、西暦685年の間違いかな? それならば双方の在位にいちおうかぶる。

 ウィキペディアの記述と、「日中パンダ交流史試論」の年表とは異なってますが、まぁそれはともかく。

 と、なんだか腑に落ちないような。ただ、日本書紀巻廿十六の斉明紀四年(658年)のところにこういう記述はあるのだ。
 
原文
是歳、越国守阿倍引田臣比羅夫、討粛慎、献生羆二、羆皮七十枚。
てけとー書き下し
是歳、越国守の阿倍引田臣比羅夫、粛慎を討ちて、生きた羆(ひぐま)の二、羆皮七十枚を献ず。
てけとー訳
この年(斉明四年=658年)に、越国守の阿倍引田臣比羅夫が粛慎(みしはせ=北部の民族)を討って、生きたヒグマ二頭、ヒグマの皮七十枚を献上しました。

 この元テキストが、ある人によって誤訳されたのではないか、という話。
||| TokyoZooNet |||:ジャイアントパンダの初来日っていつ?

ジャイアントパンダの初来日っていつ?
 
 先週、上野動物園オリジナルのパンダ来園30年記念ポストカードをご紹介しましたが、読者の方から質問のメールをいただきました。
 中国を訪れたことのあるこの方は、成都パンダ繁殖基地のスタッフから、遣唐使の時代に中国からジャイアントパンダが贈られた、とお聞きになったそうです。この件について、文献など手がかりがあるのでしょうか、とのお問い合わせでした。 
 中国に直接問い合わせないと、話の出どころはわかりません。でも、いろいろ調べてみると、ラモナ・モリス&デスモンド・モリス著『パンダ』中央公論社)にこう書いてありました(p.23)。

 ヘルベルト・ヴェントがしらべて、こういっている。雲南省の山岳の竹林の白熊は、唐の皇帝一世の治世六二一年に書かれた記録にすでに出ている。当時の『日本書紀』によると、六八五年十月二十二日、中国の皇帝が日本の皇帝に二頭の生きた白熊とその毛皮七〇枚を送ったとされている。(略)」

 著者のモリスらは、この「白熊」というのはジャイアントパンダかもしれない、と仮説をたてますが、さまざまな状況証拠に論は蛇行して、はっきりした答は出ません。なにしろ、「こうしたことからわかることは、中国の文明社会においても昔からパンダが事実上知られていなかったということである」とさえ書いているのです。
 しかし、それ以前に、日本書紀にはホントに「白熊」の記述があるのでしょうか? 上記『パンダ』の訳者はつぎのような訳注をつけています。

 原文では Japanese imperial annal(ママ、原著は annals )となっているが、おそらく『日本書紀』のことであろう。西暦六八五年十月二十二日は天武天皇十四年二十二日で、その該当箇所には本文中の記述が見られない。斉明天皇四年十一月の箇所に、「是歳(ことし)、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけたのおみひらぶ)、粛慎(みしはせのくに)を討ちて、生羆(しくま)二つ・羆(しくまの)皮七十枚献(たてまつ)る」とある。粛慎は蝦夷と同じとする説、蝦夷の一部、沿海州ツングース族という説、中国古典からの借りものという説等がある(岩波「古典文学大系」による)。

 うーん……、「白熊」とは書いてない……。しかも、日本書紀の685年に、ヴェントが書いているような箇所はない……。ただし、数だけ一致する部分が別のところにある……。じゃあ、羆というのはジャイアントパンダのこと? それでも、中国から贈られたわけじゃなさそうです。
 ヴェントはいったい、なにを見たんでしょうか。謎。中国の研究者も、モリスらの著書を参考にしたのでしょうか? それとも、ほかに文献が?
 ヴェントの本は『世界動物発見史』(平凡社)として邦訳されています。
 その中で、ヴェントはジャイアントパンダに関して数冊の参考文献をあげていますが、そのどこかに「誤解」のもとがあるのでしょうか?
 ヴェントの引用があやしいとすると、やはり初来日は1972年という結論です。──しかしさて、もう力が尽きました。どなたか詳細をごぞんじではありませんか?

 この「ヘルベルト・ヴェント」氏が猛烈怪しい、という感じです。
日中パンダ交流史試論」の人は、いろいろ調べて、
1・西暦685年は658年の間違い
2・「越国(守)」を中国の地方と勘違い
3・「羆」を「白熊」と誤読
という説をまとめています。

残念な結論だけど、パンダは飛鳥時代の日本に来ていなかったようだ

 元テキスト、ものすごく面白いのでぜひ読んでみてください。
 しかし、伝聞情報おそるべし、です。
 
 ちょっとそういうのに興味のあるかたは、以下のテキストもどうぞ(自分の日記からですが)。ほかにもいろいろありますです。
「百匹の猿」あるいは「百匹目の猿」という事象について
「ミシシッピの退役軍人に生まれた新生児の67%が劣化ウランのせいで奇形」というのは本当か
「第四の権力」という誤訳がマスコミとマスコミ批判者を誤解させている件について(←こういうのサイテー)
ア・バオ・ア・クゥーはどこにいる(どこにある)