逢坂剛の本格系ミステリ作家バッシングについて

 今年もよろしくお願いします。
 以下の冊子を拾い読みしてたら、面白いテキストがあったので抜粋。

ミステリが読みたい!〈2009年版〉

ミステリが読みたい!〈2009年版〉

 以下、「逆風の中の秀作群(2008年ジャンル別サマリー・日本部門・本格)」千街晶之(p68)より。太字は引用者(愛・蔵太)による。

 本格ミステリに、思いがけぬ方向から逆風が吹いてきた。そう感じたのは、日本推理作家協会の会報に逢坂剛が連載しているエッセイ「新・剛爺コーナー」の第三十六回「真理と芸術は、誰のものか?」を読んだからである(全文は日本推理作家協会のホームページで読めるので、そちらを参照していただきたい)。ここで逢坂は、第六十一回日本推理作家協会賞の候補に残った柄刀一三津田信三を槍玉に挙げ、「小説を書く者はだれしも<多くの人に読んでほしい>と、そう思っているはずである。<分かるやつにだけ読んでもらえればいい>というのは、いささかゴーマンな考え方だろう。少なくとも、出版社経由で商品として市場へ本を送り出すからには、<せめて赤字になりませんように>と祈るのが人情ではないか。お金のために書くのではない、というリッパな作家は出版社などとお付き合いせずに、私費で印刷製本して無料配布すればよいのだ」と説いているのだ。逢坂の個人的な小説観はどうでもいい。問題は、本格系の作家は本の売れ行きを意識していない浮世離れした連中だというイメージで一括りにし、しかもそれを、日本推理作家協会賞における自分の選考姿勢への言い訳として利用したことである(実際には、『密室キングダム』も『首無の如き祟るもの』も重版がかかっているのだが……)。これは明らかに、柄刀と三津田、そして多くの本格系作家への侮辱だろう(逢坂本人はそういう意図はなかったかもしれないにせよ)。売れ行きを基準にするというのであれば、当初はマニア向けと思われていた新本格が、ムーヴメントに発展し一定の読者層を掴んだ歴史について、逢坂はどう考えているのだろうか?
 このような暴論でも、母会の前理事長という権威ある立場の作家が発すれば、お説ごもっともとばかりに信じ込む人間が出てこないとも限らない。本格系の作家や評論家はこれに対し少しは怒ったほうがいいんじゃないかと思うのだが、作家は実作で批判を跳ね返せばいいという考え方もあるわけで、そういう意味で見れば、今年度はわりと優れた本格作品の多い年だったと思う。
(後略)

 ということで、言及テキストは以下のところで読めます。
日本推理作家協会
日本推理作家協会会報
日本推理作家協会・新・剛爺コーナー(36):真理と芸術は、だれのものか?キャッシュ

(前略)
 柄刀、三津田両氏ほどの筆力と集中力、粘着力を持つ作家は、そう多くはない。その点だけを考えれば、『密室……』『首無……』が最終候補に残ったのは当然、ともいえる。ただ、たとえトリックを一つ考えるだけの、わずかなエネルギーでもいいから、キャラクターの造型や、リアリティの補強に回してくれたらと、つい恨みごとが出てしまう。二人の筆力をもってすれば、その程度のことは楽々とクリアできるのに、そこにエネルギーを注ぐのを潔しとしないのが、なんとも惜しまれるのである。これは<ないものねだり>でなく、<あるものねだり>だと思っていただきたい。
(後略)

 その他にも、話題作『ザ・ロード』(コーマック・マッカーシー早川書房)に関する率直な意見もあったりして、
たとえ新刊書店がなくなっても、古書店はなくならない!
 いやはや、逢坂さんのテキスト、ちょっとまとめて読みたくなってきた。
 ちょっとこの件に関してネットで言及しているテキストを見なかったので、あまり話題になっていないのはもったいない、と思った次第。
 ぼく自身の本格に関する意見は、他の小説と同じで、「本格にはいいもんもある、だけど、悪いもんもあるんだよ」という感じです。まぁ、賞の対象になるレベルの作品が、悪いもんのようには思えませんが。