日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年3月21日より。
 これは「新聞」という形を取っていますが、まあ週刊誌みたいなもんだと思います。本(読書)に関する専門の新聞。だもんで多分発行日の日付も実際に出た日より少し早いはずなんだけど、昔のことなんであまり気にしない。
 社会的影響力もどの程度あったのか皆目不明ですが、朝日・読売よりは全然少なかったと思う。資料としては面白いです。

児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい
 
 この特集は本紙の学校図書館欄を担当する先生を中心に検討のうえ編集部がまとめたものです。特に今回は菱沼太郎(神田淡路小学校)久保田浩・森久保仙太郎(和光学園)氏らのお世話になりました。なお今後とも読者諸氏の御協力・意見をお寄せ下さい。
 
 “不良文化財から子どもを守れ”という声の高まりとともに、業界でも自粛への積極的な努力が始まりかけている。だが一方、法律によって取締ろうという動きも見られる。かかる法律が、やがて乱用され言論弾圧となって、どのような結果をまねいたかは人々の記憶に新しい。このような時に当って本紙が、ここに逆用される危険をおかして、あえて児童雑誌の実態分析を特集する理由はあくまでも、世の親たち・教師、そしてこれらの出版社、編集者、執筆者たちに児童雑誌の行き方について真剣に考えてほしいためである。
 ただ二、三の悪例を見て、直ちに法に頼るような軽々しい世論を作るよりも、真に子どもを愛するならば、自らの手で、これら出版物の内容をじっくり検討し、どのように悪いのか、どういうふうにしたら良くなるのかを正しく見きわめ、そして力をあわせ、厳正な態度でこれらを善導してゆくようにするべきであろう。その励ましによって、出版社・執筆者も自主的に、このような状態に終止符を打たねばなるまい。
 
 児童雑誌の低俗化はたしかに昨年の夏ごろからヒドクなった。いわゆる専門家や識者も盛んに指摘しているが、あたまからバッサリとやる式のものが多いようだ。だが、根深い商業主義に貫かれているこれら雑誌が、その程度の批判で簡単に良くなりはしない。そこで、今日の児童雑誌はどうなのかを概括し、それがもつ多くの重大な問題の中から、今回は“残虐-闘争-戦争”といったテーマのものに焦点をしぼって、忌憚のない分析を試みることにした。
 
七五〇万人が読む 各誌とも数十万部の売行き
 
【主な児童雑誌】大型判=野球少年、痛快ブック(芳文社)漫画王、冒険王(秋田書店)、太陽少年(太陽社)少年画報(少年画報社漫画少年(学童社)おもしろブック、少女ブック、幼年ブック(集英社)少年、少女(光文社)少女サロン(偕成社)ぼくら、なかよし(講談社)一-三年ブック(学習研究社)幼年クラブ(講談社)◆普通判=少年クラブ、少女クラブ(講談社)少女の友(実業之日本社)小学一-六年生、中学生の友、女学生の友(小学館)このほか市販されていないものに=ぎんのすず(松濤書房)一-六年の学習(学習研究社)一-三年の友(東邦出版KK)などがある。
 これら児童雑誌の販売推定総部数は七五〇万部に達するという(出版ニュース社調べ)から大変なものである。各誌の発行部数は「幼年ブック」「小学一年生」「少女」「おもしろブック」「少女ブック」「冒険王」などが四-五〇万部、「少年」「ぼくら」「なかよし」「少年クラブ」「少女クラブ」「幼年クラブ」「漫画王」などが二-三〇万で、少い所でも一〇万部を下らない。
 
マンガ絵物語が大半
 
 雑誌の大きさも、戦前には見られなかった大型判(B5判)が大流行だが、これは“見る雑誌”の影響であろう。右にあげた市販雑誌の平均をとって見たところ、いわゆる“見る”頁は全誌面の五二%をしめている(写真グラビア六%、マンガ二五%、絵物語二一%)。
 多いのになると、例えば「痛快ブック」四月号は全二一六頁のうち写真グラビア一九頁、漫画五七頁、絵物語一二四頁(計二〇〇頁)で、ほとんど全誌面が“見る”要素である。大型の雑誌はたいてい六〇%以上がグラビア、マンガ、絵物語でうずまっている。
 少い方では、さすがに学習雑誌と銘打つ「小学六年生」になると二二%しか占めていない。いわゆる小説(絵よりも活字の方が多いもの)などは(小型誌以外では)ほんのわずかしかない。学習的な記事も、せいぜい一行知識ぐらいがあるていどだ。小学館の学習雑誌になると約二割近い学習記事が入っている。
 平均頁数二四二頁、定価一一〇円なのだから、たしかに安い。だが児童雑誌の頁数(ノンブル)の振り方は独特である。表紙から始まり、折り込みは一枚の紙でも四頁に数え広告頁でもなんでもちゃんとノンブルを振って、総頁数の多さを誇っている。
 
フロク即単行本
 
 どの雑誌も連載ものが大部分で一篇の頁数は少く、どれもコマギレ的だ。予告篇的に本誌であつかって次号で別冊付録にするという手を使っているのも多い。従って付録は、単行本なみの別冊が圧倒的に多い。これらの別冊フロクが子どもたちの間では、単行本なみに売買されているところもある。変った付録としては、忍術巻き物が二つ現われた(「野球少年」「三年ブック」)。学習的な付録(例えば理科年鑑、国語辞典、英語辞典など)は人気が悪いというから良心的であろうとする出版社も辛いところだろう。
 他誌に比べたら学習的な小学館がその傍系の集英社から、また真面目な「X年の学習」を出している学習研究社が「X年ブック」というような、いずれも低俗ものに属する雑誌を堂々と出していること、そこにも見逃し得ない商業主義がみられる。
 
時代ものも増える
 
 左表(注:引用テキストでは最後にあります)でみる通り冒険・探偵ものが実に多い。西部活劇もの全盛の数年前にくらべると、時代もの・捕物などがぐっと増えてきたのも世相を反映している。小学館の学年別雑誌が示すように、低学年にはこの種低俗物が少いが四年生以上になると急激に増えている。これは低学年の場合は母親が買い与えるからであろう。
 
問題は沢山ある
 
 表紙は内容にくらべると、まだまだ良い方だ。ひとたび中を開くとギョッとする。あくどい色彩の絵(『漫画王』の「いなずま童子」。『冒険王』の「砂漠の魔王」。『太陽少年』の「黄金バット」)や、文章以上に輪をかけた残虐・グロテスクなさし絵(これは数えればきりがない)、カタナ、ヤリ、ピストル、ドクロなどがあふれている。
 言葉の問題もある。ことにマンガにおける言葉遣いのひどさ、語イの少なさは“話し合い無用”の傾向とあいまって、考えなければならない点だ。
 言葉の問題ともつながるが、やたらに泣かせるだけの少女おセンチものの本質も、その型にはまったさし絵の問題と共に、検討して見る必要があろう。
 更に子ども向でない残虐怪奇な映画でもおかまいなしに紹介していること、本文に関係のない壮烈(?)な戦争画を自論に使っていること、同一の作家が同工異曲の作品を書きなぐりしていること、相当名前の通った文壇作家、探偵作家がヒドイ作品を書いていること、など大きな問題がいくつもある。懸賞、読者の質など、細かい問題は限りがない。
 
まさに百鬼夜行
 
 各誌とも怪物、魔物、超人でいっぱいだが、ここに、その例をさがしてみよう----
 大魚人、大翼人、ゴリラ、チンパンジー、獣人魔、古代動物大トカゲ、大巨龍、全身に鉄ウロコがはえ口は耳までさけ大きなキバをもった怪物、地獄の炎からうまれた怪人悪魔王、白衣のガイ骨男、夜光鉄仮面、龍、黄金バット、人間をのせてとぶほどの大昆虫、大ヒトデ、船をひっくりかえす大蛸----いつまで挙げてもきりがない。まさに百鬼夜行である。
 
一冊に三百本の刀
 
 ヤリをかいこんだ中村錦之助を表紙にした某誌の三月号一冊で何本カタナが出てくるか数えてみると、おどろくなかれ二八二本(抜き放った白刃だけ)、ピストルは四〇ちょう。このほかヤリ、鉄砲、手裏剣、くさり鎌、毒矢等々、どの頁を見ても武器また武器。残虐さを増すための“道具建て”も実に多い。
 また“必殺のかまえ”とか“これが空手だ”式の絵入り伝授が各誌にずいぶん載っている。“殺す”という語「殺してやるぞ」という言葉も何と多いことだろう。「ギャーツ」という断末魔の叫びもよく使われている。
 
残虐の限りを尽す 娘の生血を吸う老婆も登場
 
 まず第一にあげられる“残虐性”の問題をみると“全誌全篇これことごとく残虐性”といってもよいほどで、例を挙げ出せばきりがない。(左にあげるのはあくまでも一例であって、その雑誌だけにかぎらない)。
「キャーツ! 人殺し……」春はまだ浅い江戸の夜。しとしとふる雨のなかから、おそろしいさけびがあがりました。わかい女がかさをなげすてて、くるしそうにのけぞっています……あっ! せなかから前につらぬいているのは矢です!(「怪人猫目男」の書き出し=『痛快ブック』三月号)
 ……窓をこじあけると、すーっと、部屋のなかへしのびこんだ。しばらく、ふたりのねいきをうかがっていたが、やにわに、きらり、ナイフがひらめいたとみるや、ぐさり……少年と少女のねている毛布のうえから、ちからいっぱいつきたてた。ぐさり、ぐさり……つづけざまの一撃に、なんでたまろう、あわれや兄妹ふたりは、うめきのこえをたてるひまもなく、そのまま石のようにうごかなかうなっていた」(「黒豹の爪」=『野球少年』三月号)
 ぬっと黒ふくめんがあらわれた。「おい小むすめ、ここは人間の生き血をすいとる、ひとだま御殿じゃ」……痛快太郎は、ここまできたとき、とつぜん猛犬にとびつかれた。「ふふふ、あの小僧、猛犬にかみころさせてやるのだ」(「痛快太郎」=『少年』三月号)
 ……船牢にうつされた一郎は、はだかにされると荒なわでしばりあげられて、その肌にべっとりと蜂蜜をぬりつけられた。その上に無数のアリがまかれた。アリはチクリチクリと一郎の肌をさす……メトロスネーク団の残虐きわまる迫害なのだ。(「恐怖の暗黒街」=『痛快ブック』三月号)
 ----「うひひひ……まむしの生血のかわりにおまえの生血を吸うのじゃ ひひひ……」「おまえの血を吸うとわしの妖術にききめがでるよ さあ おいで」まむしの血がたりないおばばは体がよわっている。(「夜光鉄仮面」=『痛快ブック』三月号)
 
まだあるヒドイ例
 
 このほか、怪血鬼(ゴリラ的魔人)によって役人が土中に生き埋めされて殺されるところ(「白虎仮面」=『冒険王』三月号)、獣人魔に刑事が首をしめられるところ(「獣人魔島」同)、人間の皮を腰にまいている西部の王者青仮面(「拳銃無敵」=『冒険王』三月号)、自動ノコギリで人間を丸太のようにひききろうとするところ(「怪魔団」=『太陽少年』三月号)、駅のホームの天井に下っている時計の中に首をつっこまれて、中吊りにされて殺される悪漢(「ワンダーくん」=『おもしろブック』三月号)----といったぐあいで、人間が考えうる限りの残虐さを網羅している。
 
平気で殺し合い
 
 物語の中には必ず、やっつけてしまわなければならない“敵”がいる。しかも、なぜ悪人なのか、なぜ敵とみなさなければならないのか、なぜ、やっつけなければならないのかは、殆ど問題になっていない。理由にならないような理由で一方が“悪玉”ということになると他方は殺されても切りすてられてもかまわない“敵”になってしまう。そして激烈なたたかいが展開され、争いは争いをよんで、物語の流行と共に残虐さを増して行く。いつのまにか、闘争そのものだけがのこされ、クローズアップされる。その間、善玉も悪玉も、共に残虐な手段を用い、殺したり、殺されたりするわけだが、そこに一貫してみられるのは善玉である味方が“敵”をたおすためならどんな行為も許されるし、どんな犠牲もはらわなければならないという考え方だ。こういう考え方をもとに、残虐性ははっきり肯定されている。
 
破壊すなわち痛快
 
“残虐性”ほどは目立たないが、見逃してはならないのは、多くのマンガにみられる“簡単にものをこわす”傾向である。植木鉢をこわす。たいこを人間に投げつけてこわす。椅子をなげる、畳をはがす。石燈ろうがひっくり返っている。チョンマゲを切る。柱を切る。大木を切る。洋服を破る。ころぶ。おっこちる。スパッ、ガチャン、ビリビリ、ストン。それが面白さの要素になっているところが非常に多い。これは怪力、強力、巨人が横行して、やたらにものをうちこわすことが痛快として扱われているのと同じだ。懸命になってみつけても、建設的な要素が少しもみつからないということはおそろしいことだ。
 最大の破壊は戦争であったということを前の戦争を通してわれわれは学んだはずだ。
 
いきなりケンカを ゆがめられたスポーツ精神
 
 スポーツものも各誌に相当でてくる。レスリングと柔道と空手が圧倒的で、そのほか拳闘、剣道があり、野球は案外少ない。特に力道山と木村の選手権試合があった後でもあり、いろいろ扱われているが、正しいスポーツ精神を養うようなものは一つもないといっていい。ほとんどのスポーツものには、ただ“勝ち負けを争う精神”だけが横溢している。話し合って理解し、解決しようなどというところは出てこない。いきなりケンカを始める。やむにやまれぬ暴力なら良いんだ、と思わせる。(北条誠「僕は男だ」=『おもしろブック』が好例)そこで便利な舞台として、飯場の土方部屋(タコ部屋)を登場させる(「花も嵐も」=『冒険王』三月号)。
 
力道山も“怪物”に
 
 力道山なども、マンガや物語の中に“超人”として登場してくる。一種の怪物、魔物として扱われるわけだ。また、このようなスターが“力”の象徴として善玉群の中に入れられ、さらに“力は善なり”にスリ代えられている。そしてしばしば“力”が法律や秩序に勝っている。
 
さかんな戦争もの 太平洋戦や昭和三十五年戦まで
 
 “やむにやまれぬ暴力ならばよいのだ”とか“相手が悪人ならばかまわない”とか、あやしげな正義感を巧みに利用して“闘争”を肯定していることは見逃してはならないことだ。この闘争肯定が戦争肯定に簡単に移行しやすいものであることは、太平洋戦争を体験した大人たちは十分に知っているはずだ。
 かつて“鬼畜米英”というコトバが使われたが、なぜ鬼畜なのかはっきりしなかった。このことを思えば極めていい加減な理由で悪玉を仕立てて、それをただひたすらに倒すことばかり出てくる現在の児童雑誌は太平洋戦争に国民をひきずりこんだ時と同じ傾向を早くも見せているとはっきり言えよう。真に寒心にたえない。
 
おそろしい無知
 
 また、西部密林もので、いわゆる未開人を登場させ、これを人間として待遇せず、きわめて無知ドウモウなものとし、それへの殺リクを当然なこととしているが、これなどは無知からおこる戦争(ことに日本が過去においてアジア人を無視したためにおこった)への危険を感じさせる。
 チャンバラや空手のマネをすることも、困ったことだが、こういう問題は、もっともっと重大な過誤を生み出すものであることを特に強調したい。
 
再軍備・戦争肯定も
 
『太陽少年』に小松崎茂「旭日は沈まず」という“大ひょうばん冒険絵物語”が連載されている。主人公は少年航空兵である。太平洋戦争たけなわ(三月号では)の昭和十九年六月、“敵アメリカ戦艦が、とつぜん海上からサイパン島にむけてはなった一発の砲声によって、ここに南太平洋のしじまは、ふたたびやぶられることになった。そして食うか食われるか! 攻める敵が勇敢なら守る日本軍もまたひっし。サイパン島は敵味方が国の運命をかけた大激戦となった”“が、しかしサイパン島を守っていた三万の日本陸海軍は、敵がおどろくほどにはげしくていこうし、世界にくらべものがないほどのがんばりをみせて、さいごの一兵までも戦ったのだった。”
『少年画報』にも“太平洋戦争中におこった、なみだと、かんげきの物語!”と銘打った連載感激小説「血に染む日の丸」(花村葵(?))がある。
『少年クラブ』には「燃える大空」(棟田博)がある。----“血しぶきあがる大空の決戦場に、花房直人のはばたく目はせまっている!”と冒頭にある。予科練たちの生活をあつかったものだ。主人公である花房直人たちの班長は「勇気と祖国愛と戦友愛」を説く。だが、真の勇気、正しい祖国愛というものを教えようとするのに、予科練に取材することは危険なことだ。まして愛する班長が出撃してゆく悲しみに打ちかった少年兵たちに“きさまと おれとは 同期のサクラ 同じ三重空の庭にさく さいた花なら ちるのはかくご”のあの歌をうたわすのだからあきれる。しかも、読者の投稿で「ぼくらも花房直人たちのように毎日毎日をはりきってすごそう」というのが載っているが、ぞーっとさせられる。知らず知らずのうちに、戦争を肯定し、さらに戦争を謳歌するようにならないと誰が保障しえようか
『冒険王』にも「燃える大空」(萩原孝治)という連載航空絵物語がある。台湾基地からヒリッピン奇襲の渡洋爆撃に参加した少年航空兵の物語。紙面の都合上、文中から二、三の言葉だけを拾ってみよう----敵艦とさしちがえて。すばらしい武勲をたてて。いつか近い将来に南海に散る覚悟をかためながら。整然とおこなわれる敵前上陸のすばらしさ。----いずれも大人には聞きなれた言葉である。十数年ほど前に。
 
国連否認も出る
 
 戦争ものでは、もっと悪質なものがある。『少年画報』の連載マンガ「ビリーパック」(河島光広)には、こんな文句が出てくる----「諸君らの若い命もようしゃなくいただかねばならん!」「戦友のかたき、うわッ!」そのうえ、あきれるのは「そうですとも、これで国連のかん隊もめちゃくちゃだよ」という文句。国連否認だ。
 
“滅私奉公ガンバレ”
 
 まだある。時代ものだが、漫画「清水次郎長」(土屋一平『冒険王』三月号)に----「バッキャロッ、質より量だ」「一たん子分となったおまえたちだ。滅私奉公大いにがんばれ」とある。滅私奉公とは、開いた口がふさがらぬ
 戦争ものでも、太平洋戦争肯定からさらに一歩を進めて、完全な再軍備を認めたものが出はじめている。またしても小松崎茂えがくところの“大評判の科学絵物語”「大暗黒星」(『少年』連載)だ。時は昭和三十五年四月(三十五年という数字に御注意)日本の誘導弾基地での物語で、さすがに仮想敵はアメリカでもソ連でもないが、主人公は立派な少年兵。この少年兵なかなか勇敢で“大雪のようにふる原子灰”の中を、上衣を頭上にかざして(!)格納庫に走り、ジェット機をうごかし、その排気噴流で、死の灰を吹きとばして上官の危険を救ってやる。そして「この死の灰を吹きとばす方法をソ連アメリカにも教えてやれ」とまじめでいっているクダリを読むとおかしくなってくる。だが笑ってばかりはいられない。この健気な少年兵は昭和三十五年の少年兵なのである。この雑誌の読者が丁度少年兵になれる年齢に達する頃の話だ。
 五年後には日本は完全な軍備をもち、そして君たち少年は、かように立派な少年兵になるのだ…といわんばかりではないか。
 
落下傘部隊訪問
 
 再軍備をしらずしらずのうちに子どもの頭にたたきこむようなものもある。『おもしろブック』三月号に「大空の孫悟空」というのがある。題名は極めてロマンチックだが、なんのことはない、内容は九州博多のパラシュート部隊訪問記だ。しかも訪問者は東京の小学五年生を使っているという念の入りようである。かつての予科練訪問者が南海の藻屑とはかなく消え去ったことを思うと、このようなことを不用意にやっている編集者・出版社の良心を疑いたくなる。反省してほしいことの第一だ。それとも、このような記事掲載を、すすめられたのだろうか。
 
ゆかいなせんそう?
 
 ある雑誌に何か変ったものが出ると、翌月号では一斉に各誌がマネをするのが、角逐はげしい児童雑誌界のきまりである。四月号では“戦争もの”がぐっとふえた。前に挙げた例のほか、太平洋戦争に取材した「絵物語」として『ぼくら』に「もゆる南海」(吉田光一)というのが始まった----“だいたんふてき、パラオ軍港の入口で、日本空母をたおしたアメリカ軍の潜水艦”----という書き出しで始まる“熱血絵物語”がそうである。“熱血”即“戦争”を意味する。熱血ものだけでなく“科学冒険”絵物語というのも正体は大てい戦争ものだ。『痛快ブック』の「海底兵団」(山田保徳)がそれだ----某国の飛行機で沈められた日本の駆逐艦には重要な秘密兵器設計図が載ってあった。それを引きあげるために少年兵曹勝彦は水中に潜り、うまく成功する。……そしてこの物語は次のような言葉で結ばれている----“勝彦少年が、二階級特進のくん章を胸に、にっこり笑っているのだった”。
 熱血とか科学とかに名を借りずに、はっきり“戦争絵物語”と銘打ったものもあらわれた。(『少年クラブ』四月号「空飛ぶ戦艦」萩原孝治)
 絵物語だけではない。マンガにも戦争ものがある。これは沢山ありすぎて例をあげるのは大変だ。ただ幼年ものから一つ。『二年ブック』(この雑誌社は他にかなりまじめな学習雑誌も出している)に「ゆかいなせんそう・どんがらじょう」という見開きマンガがある。絵そのものはあくどいものではないが、“ゆかいな”例として“せんそう”を出す必要はあるまい。こんな小さなうちから戦争と愉快などという言葉を結びつけて示すことの罪は決して小さくあるまい。【図は各誌さし絵より】
 ◇  ◇
 かさねて、教師・父兄・読者にこれら実物を一冊でもよいから手にとって読むようお願いする。現状を放任することがいかなる結果を招くか、そのおそろしさをじっくり考えていただきたい。そして出版元・その関係者たちへの強いよびかけを起そう。
 なお次回(四月四日号)は、いわゆる“少女もの”の中から、おセンチもの、お涙ちょうだい式のものの実際、人気スターの扱い方などについて分析する予定。
 
児童雑誌の娯楽読物の内容(各誌四月号のよみものの内容を分類しその篇数を表にした。勿論各種の要素を交ぜたものが多いが最も多い要素の項に入れた。)
 

雑誌名/種類 野球少年 痛快ブック 漫画王 冒険王 太陽少年 少年画報 漫画少年 おもしろブック 少年 少女 少女サロン ぼくら なかよし 二年ブック 三年ブック 少年クラブ 少女クラブ 小学一年生 小学二年生 小学三年生 小学四年生 小学五年生 小学六年生 少女の友 中学生の友
冒険空想科学 3 1 3 4 2 4 9 6 1 4 - - 2 2 1 1 5 4 1 2 8 3 2 4 1 11 84
探偵・怪奇 1 9 5 2 2 1 1 2 4 3 1 2 1 2 3 4 2 2 - - - 1 2 1 1 - 52
西部活劇密林 2 1 - 1 1 1 1 1 - 3 - 1 3 - 2 4 - - - - - 1 - 1 1 - 24
時代・捕物 7 4 10 5 12 7 5 7 6 6 2 4 5 5 7 6 8 1 - - - 4 4 1 5 - 121
熱血もの 4 5 2 11 4 3 1 5 - 3 - - 2 - - 1 4 - - - - - 2 2 - 1 51
戦争もの - 1 - 1 - - 1 - - - - - 3 - 2 - 1 - - - - - - 1 - - 10
伝記・立志 1 1 - - 1 1 3 - - 3 - - 1 - - - 4 1 - 1 1 1 1 3 - 4 27
少女おセンチ - 1 - - - - 1 - 6 - 8 5 - 2 1 - - 6 - 1 1 3 4 3 6 2 49
映画小説 - 1 2 - 2 1 - - 2 3 2 3 3 1 - - 1 2 - - - - 1 1 3 1 29
人気スター 1 1 4 3 - 1 - 1 4 3 6 2 1 2 - 2 - - - 1 - - - - 5 2 39
漫画ユーモア - 2 4 1 2 5 9 4 5 3 20 5 6 3 4 2 5 - 2 5 7 7 5 5 6 1 118

 ということで、あと何回か「日本読書新聞」のテキストを紹介します。
再軍備の懸念」というのが、今振り返ると「なんで漫画にまで?」という疑問が沸くばかりですが、まあ多分当時はそういった時代だったんでしょう。自衛隊ができたのは1954年7月1日のことでした。同じ年の秋にゴジラと戦ってます
 昔の漫画読んでみたいけど、紹介されているほどは面白くない気がする…けど読みたい。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク