日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年4月4日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」

児童雑誌の実態 その二
 
 児童雑誌の実態・その一(漫画・闘争・戦争もの)=三月二十一日号=に続いて、今回は“少女もの”に焦点をあててみる。少女雑誌『少女』に例をとると、全二五四頁のうち、人気スターを扱ったものが六五頁、少女おセンチものが六九頁を占めている。すなわち少女雑誌は人気スターの記事とおセンチで全体の約半分がうずまっているわけだ。そこで、これらの雑誌が人気スターをどう扱っているか、少女小説はどんな内容なのか、さらにそれが読者である子どもや少女にどんな影響をあたえるかを分析してみた。今回対象とした雑誌は、少女ブック(集英社)なかよし(講談社)少女(光文社)少女の友(実業之日本社)少女クラブ(講談社)少女サロン(偕成社)の六誌である。
 この記事は、本誌学校図書館欄担当の各氏、本誌編集長の共同作業に基づいて樋口太郎氏(解読不能)がまとめた。
 
ずらりと少女歌手 かくて作られるミーハー族
 
 大半の表紙が、赤をバックに、けばけばしい色彩で、少女歌手のバストを出す。これらの少女歌手は、各誌共、内容として約二十頁にわたりグラビヤにも使われる。その度合いはざっと別表の通りである。
 その扱われ方をみよう。『少女クラブ』では「百年後の学校」「つよいぞフェンシング」「義太夫一日入門」、『少女サロン』では「私の春のスタイル」「ひばりの桃太郎」、『少女の友』では「もしも童謡内閣が生れたら」、『少女ブック』では「お花見珍道中」「巡礼おどり」、『なかよし』では「さいたさいた=舞妓」「こんな学校見たことない」「これはびっくり=商店がスポンサーのページ」等。
 これらはすべて、少女歌手が本来の歌をのけものにして、珍妙な、娘義太夫、巡礼、舞妓などになったり、はめを外した馬鹿さわぎの様を表わしたものである。
 義太夫、巡礼、舞妓などを美化している----『なかよし』の「なつかしの舞扇」----こと自体、問題であるが、これにおどらされる少女歌手自身、もしこれで得々としているなら、彼女らは、すでに心の健康を失った人間のいたましい形骸であり、これを敢てする出版社および成人の、人間侮じょくと搾取はにくみてもあまりある。
『なかよし』の佐伯千秋「花うつくしく」は「とつぜん映画スターになった市川和子さんのかなしく美しい」スター物語。これによると「あたし、試験をうけたい」という勉強への切なる願いは「じぶんでやろうと思ったことは、やりぬかなければいけません」という母によって、「手にトランクをもたせ」られ、ロケにおし出されて、はなはだ暗示的だ。
 しかし、これらの写真をみた読者の多くは、ノド自慢に出て、あわよくば……というはかない望みをいだき、さらにその服装をまねて、一歩でも近づきたいと望む。同時に、どうせ私なんかという劣等感をもっているものも多いことは見のがしえない事実である。
 そんな心理に対しては、愛読者代表として、これらのスターに接し得る機会を抜目なく与えている----「こんにちは八千草さん」(少女クラブ)「わあうれしい」(少女)など。「モシモシ鰐淵晴子さんですか」(少女)の記事もその例に洩れない。
 ちょっと趣向を変えると、小説の主人公をテーマにして“ミス・さつきさん”を六八七名の応募者中から選抜して発表する手などもある(『少女の友』)。いったい「さつきさん」(梅田晴夫)とはどんな生態をもつのだろうか
 中学三年、エトワール女学院の人気もの、おてんばで、おひめさま気取り、夏、海で知りあった、アルバイト学生を従者の如くしたがえる。パパとママが「おけいこごとでもさせてみよう」と悲願を立てる。ママにつかえるパパは娘(さつき)にむかっても「君は、やって見るキモチがあるかどうか」というふうにオドオドたのむ。娘は「あたし、やって見てあげる」と答える。ブルジョアの浪費娘が完全に肯定的な形で、スターとして描かれているのである。その“ミス・さつきさん”なのだ。
『平凡』『明星』に通じる、これら少女雑誌のスター登場は、とにかくスターを出せば事足りるので、内容はどうでもいいのである。だから、マンガに顔だけ人気子役の首を写真ですげかえたグロものが登場したり(『少女』)マメ写真とマンガと抱き合わせたりする。ミーハー族の映画観は、こうして作られていく。次のような、小説の主人公のスター見立てもある。
「わたし、配役をきめてみました、王女ナスカ鰐淵晴子、白ゆり少女のさゆり近藤圭子……」(『なかよし』投書らん)編集部が答えて「きっと、すばらしい映画になるわ、みなさんにつたえておくわね」
 
少女小説は類型化 期待の押売りする虐待小説
 
 連載少女小説・小糸のぶ「花いつの日に」(少女クラブ)で、主人公梅原ゆかりのたずねる東京の母と、事故死した父とのいきさつは、明らかでない。読者の子どもたちは「そんなこと、どうだっていいのよ」という。育ての母の、育てた理由も同様。その養母が、ゆかりを助ける少年秀夫の継母として登場するいきさつ、理由も問題でない。要するに、「先生、はやくしあわせにしてやってください。わたし、かわいそうで、なみだが出ました(千葉市、O子)(『なかよし』)なのである。
「花いつの日に」は、善意の人が多く登場するのだが、主人公自身が、つまらない、あさはかな考えで、自ら、不幸を求めるような形をとる。一方、ねたみ、ひがみ、あるいは何という理由なしに、主人公を虐待するものが出る。自虐、他虐、少女小説は虐待小説である。そして、小説の最後には、本文よりも涙をさそい、心わかせることばを羅列して、期待の押売りをする。
『なかよし』の連載マンガ「白雪小僧」に「白雪小僧って錦之介さんに似てるわね」(近藤圭子)とあるのが事実なら、何十万かの愛読者を代表する一つのタイプがまさに逆襲(?)男子だと見てもいいだろう。少女スターたちを身ぐるみはいで、なお骨のずいまで利用し尽くす商魂のたくましさも然ることながら、完全にそのとりこになっている哀れむべき少女たちヒューマニストならずとも、リツ然とせざるを得ない。
 
馬鹿な子に仕立てる
 
 少女小説の一つの型に“瓜二つもの”----「ナスビ女王」「星はゆれるよ」と“双生児もの”----小旗風彦「花の輪にいのる」大林清「あかい花、しろい花」(四つとも同一誌=『少女』=にあるとは?)がある。
 双生児ものは、必ず姉妹が順々にしかも、富貴にわかれて、金持の方が虐待されるということになるらしい。西本妙子「ふたつの花」(なかよし)は、一方は金持ちの美女になり、他方は似顔画家として生活する。「神さま、秋ちゃんをお守りください!! あたしたちをあわせてくださいませ」と、事情をきかされた金持ちの養女はかく祈る。これが「かなしい写真物語」なのだが、こんなものは警察へたのめばすぐ見つかるはず
 このように、ちょっと考えれば読者のだれでもが気づくものを、写真・挿画・ことばの魔術にひっかけてハラハラさせる。つまり、読者を考えさせまい、類型的な感情だけに訴えよう、バカな子どもに仕立てようというのが少女小説・雑誌のミソなのだ。
 北条誠「星も泣いてる」(少女の友)杉本苑子「涙のアルバム」(少女サロン)二反長半「虹よほのかに」(少女クラブ)同「母を呼ぶ鳥」(なかよし)大林清「星に誓いし」(少女の友)同「涙の母子鳥」(少女サロン)等の題名、あるいは主人公の名----感傷に震えること専門の感がある。それを具象化したのが挿画だ。
 
無性格な少女の画
 
 口が二つも入りそうなデカい目、三白眼、そして、ほほのあたり、胸の前にウロチョロと、不安、あこがれ等を表すような、病的な手があしらわれる。画家は変っても、その無性格ながは、みんな同じだ。人物のアクセサリーで、かろうじて見分けられる程度。ある読者はいみじくもいう。「みんな同じ形になっちゃうから、いろいろ手を」あしらったのだと。
 この挿画の影響はばかにならない。学芸会で早速、そのポーズが利用されているからである。
 現にこれらを愛読している子どもが、卒業式の練習に涙をあふれさせ、他人の卒業に、率先して号泣したという実例があった(東京下町の某小学校)。あらたかな現示である。そして、身にふりかかる問題には、すべてお手あげの形となる。いたずらな涙腺刺激の反射が急になるだけだ。これでは、人生の真実は見きわめられない。いや、人生からの逃避、思い余れば家出し、よいおばさんの出現をユメ見たり、あるいは自殺にまで、という傾向に走らせる危険性もないとはいえまい。
 
処世観をゆがめる
 
 少女小説には、また一つの型がある。“母の秘密”をテーマにするものだ。北条誠「星も泣いてる」(少女の友)富沢有為男「山のさっちゃん」(少女クラブ)大庭さち子「白ゆり少女」(なかよし)などがそれ。
 これらは恋愛の取扱いにつながる大きな問題である。
 青年の恋愛を戯画的にとり入れた「春のマンガ劇場」、先生の恋愛をからませた野呂新平「聖しろバラ女学校の鐘」(ともに『少女』)などはあくまでも恋愛を皮相的に、むしろ大人の眼で、一は皮肉に、一は表面的にとり入れているのだが、こうした大人の世界へのチン入は、「アンミツ姫」以下いくらもある。このようなものは、子どもにとって、人生の真剣な問題を皮相的にかいま見させ、ゆがんだ処世観を与える結果になる以外の何ものでもない。『少女の友』のストーリー解説では、「マイラも夜の女の群に加わって」いった時に、ロイに再会する。「後悔のおもい」「ロイを愛すればこそ、自分の過去がゆるせ」ない。そして死。----という中で、読者の少女に、どこをわからせようというのであろうか。
 
ほしい生活的な面
 
 また、人気歌手を登場させた「のんき裁判」(なかよし)「わたしたちは女代議士」(少女)など、裁判官の権力的ことば遣い、国会乱闘のマネなどさせてみたり、その態度たるや、今日、討論や社会科学習の進んでいる学校からみれば、愚にもつかないナンセンスで、子どもも笑うに笑えない現状だ。そればかりではない、これらは、真面目に考えさせるべき、社会機構なり、成人の世界をチャカしてみるくせをつける恐るべき教材でもある。
 雑誌が、真に子どものためを思い、読者のプラスになるように考えられているならば、それは、子どもが現実に生きることの支えにならなくてはなるまい。
「グチ日記を読んでいて思わず涙が出ることがあるの。おかあさんがいないときは、かならずグチ日記を読むの。同じところを、何回くりかえして読んだかわからないのよ。…福井県、○子より」これは『少女』の「私のグチ日記」(森いたる)によせられた読者の手記である。少なくも、ここには現実の生活にいくらかの支えをはたしていることが語られている。それではこの「私のグチ日記」とはどのようなものであろうか。
 日記体の女の中に、毎日のありふれた生活がえがかれ、周囲の人々とのからみあいにおこる、わずかなグチを、ユーモラスに書いたものだ。
 ここではグチとなってはいるが、それは一つの自己主張であり、幾分でも生活的な面をもつとすれば、正しく読者はくり返し読むこともありうるだろう。他に代るような生活的読物がないからだ。子どもはあくまで健康な芽をもっているのだ。これをのばすことが出版社の重大な責務であり、ここに誌面革新の一つのメドを見出してもらいたいものと切に願う。
 子どもの健康な生きる力を、くさった成人の固定概念のわくの中にしばりつけようとすることなく、のびのびと健康なユメをもたせるように切りかえてもらえるのはいつの日のことだろうか。官僚統制のきざしはすでにあらわれている。こうした反動の動きに乗ぜられることのないよう、子どもの文化史の中に光りかがやく雑誌を作るように重ねて祈ること切である。
 
お願い
 
「児童雑誌の実態」の次回は“マンガ”と“コトバ”の点について分析いたします(四月十八日号の予定)。さらに、それにひきつづき、これらの児童雑誌からいかに子どもを守ったらよいか、また児童雑誌はどうあらねばならないか、などの対策を考えて見たいと思います。
 そこで、子どもたちに「こういうように導きながら児童雑誌を読ませている」というような実例、または「このように導いてゆきたい」という意見がありましたら、お寄せ下さい。そのほか、子どもたちが児童雑誌の「どういう点に興味をもち、どういう反応や希望を示しているか」などの調査があれば、その資料を提供していただきたいと存じます。(日本読書新聞編集部=東京都文京区小日向水道町六)
 

歌手・誌名 少女ブック なかよし 少女 少女の友 少女クラブ 少女サロン
松島トモ子 4 4 5 1 4 1 19
近藤 圭子 2 2 4 2 1 2 13
上田みゆき 3 2 1 0 2 3 11
小鳩くるみ 1 3 2 1 2 1 10
伴 久美子 1 1 1 1 1 4 9
古賀さと子 1 1 2 1 1 2 8
鰐淵 晴子 1 3 2 0 1 1 8
安田 祥子 1 2 3 1 0 1 8
岩田佐智子 1 1 3 0 1 0 6
美空ひばり 0 2 2 0 0 1 5
畑中香代子 1 1 2 0 1 0 5
島野世紀子 2 0 2 1 0 0 5
佐藤 茂美 1 1 1 0 0 2 5
田端 典子 1 1 0 1 1 0 4
川田 孝子 0 2 1 1 0 0 4
白鳥みづえ 1 1 2 0 0 0 4
21 27 33 10 15 18 134

 
各誌四月号、大人以上のコミで出ているものを除く

 いろいろものすごく読みたいけれど、どれも今では難しいようです。
 しかし、批判のポイントがなんかズレてて妙な感じです。
 
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