「正義の人」になってはいけない

今日は、他の人が書いたテキストで共感を得たものを置いてみます。


今日は今シーズン二度目の台風上陸の影響で未明ごろから凄まじい風と雨が吹き荒れていたのだけれども、「脱ダム」の長野県は幸いにも、前回に引き続き今回の台風でもさしたる大規模水害は起きなかったようだ。康夫ちゃんはさぞかしホッとしているだろう。
でも「脱ダム」に反対し、「県民の命を守るのが政治の責任だ」と声高に叫ぶ県議会議員は逆説的なのだけれども「水害が起きてほしい。出来れば大規模な惨事になって欲しい」と願っていたのではないだろうか。いや、きっとそう思っていたと思う。
「J.P.サルトル−A.カミュ論争」で、共産主義に傾倒していくサルトルの「革命」に異議を唱えるカミュが「強制収容所」の問題を追及したのだが、それに対してサルトルは、共産主義と聞けばすぐに鬼の首を取ったように「強制収容所」を持ち出すカミュ本当は心の底では「強制収容所」の存在を喜んでいるのではないか、自説の正しさがそれによって証明されたその喜びに打ち震えて隠し切れないといったように得意げに「強制収容所」の問題について語る、そういうのは下品だ、と斬って捨てていたのを、こんな時僕は思い出してしまう。
例えば「小泉の構造改革では日本経済は破綻しかねない」と反対している人たちは、言っていることとは裏腹にあらゆる経済指標の悪化に小躍りしているだろうし、教育問題にことのほか口を出したがる人たちは、少年による凶悪事件の頻発を待望するだろうし、自分の子供を交通事故で無くした親が、悪質ドライバーの問題を告発する時でさえ、これは公然と言うのは本当に憚られるのだけれども、多分彼らは自分たちの子供の起きたようなことが他にも多く起きて欲しいと願っている。
当たり前のことなのだが、「不正」を告発するにはまず「不正」が存在しなければならない。ありもしない「不正」を糾弾することは出来ないからだ。だからこそ「不正」を告発しようとする人たちは「不正」を待望するようになる。これは多分必然的なメカニズムだと僕は思う。僕たちは「不正」に依存せずに「正義」の側に立つことが出来ない。
もちろんサルトルは何も「不正」を告発することなんて「偽善」に過ぎないのだからそもそも無意味だなどということを言ったのではない。「不正」に依存せずに「正義」の資格を得られると信じ込み、得意げになって「不正」を言い立てるその態度を「下品」だと言ったのだ。
大切なことは「正義の人」にならないことなのだと、僕は思う。
「正義」の人はそうであればあるほど必然的に「不正」に汚染されている。そして「不正」があってはならないことである以上、それを待望する声高な「正義」は出来うる限り無いほうがいい。最も理想的なのは「正義」の告発なしで、誰も知らないうちに「不正」が消滅しているというかたちではないだろうか。もちろん現実的にはそういうことは難しい。だからこそ「不正」を「不正」と認識し、告発する「正義」はなくてはならないものなのかもしれない。でも「正義」というのはそもそも不健康で下品なものだ、しかもそれが声高であればあるほど、という認識はやっぱり持っておきたい、と僕は思う。
と、ここまで書いてきてなんなのだが、どっかで似たような話をウェブ上で読んだ気がする。
それが何処なのか、ちょっと思い出せないので、もし似た話を見かけたらメールでも下さい。でもそうなると僕も無意識のうちに「パクリ」をやっていることになるのだろうか。うーん。
(太字は引用者=俺)
実は、引用元のサイト(ブログ)は今はどこに行ってしまったのか不明です。もしご存じのかたがいましたら教えてください。(追記・さっそく教えていただいて、リンクも張り直しました。ありがとうございます)
こういうデッド・テキストは、俺の手元に残しているテキストの半分ぐらいになってます。いい言葉が、当然のことながら多いです。