製糸工場の工女は結核にならない?(その4):野麦峠越えの実際

lovelovedog2005-11-03

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051101#p1
 
今日は引き続き、『岡谷蚕糸博物館紀要』に掲載された、岡谷の製糸工場で働いていた元工女のかたの「聞き語り」をテキスト化してみます。第7号では「岩本きゑ」さんという、104歳の人の話です。p10

お盆には帰らない、正月に、みんなお仲間で
野麦峠を越えて…。寄合渡ってとこにな、泊めと(泊めたく)はなかったけんど、日が暮れてしまうし、情けないで泊めてやるって。ご飯がねえのでな、歩いて遠いところに米を買いに言って、それでご飯を炊いて。
川浦に泊まったな。野麦に泊まって、坂下に泊まって…。中之宿にもよう泊まったことがある。
〈明さん(注:岩本きゑさんの長男〉「ふたとこ(二ヶ所)くらい泊まらないと帰れない。こっちから行く時は野麦か中之宿まで行って、次の日は寄合渡まで行ったんでねえがな」
こっちからは大勢な、行かはった。(当時の仲間は)みんな死んじまってな。会社の人が迎えに来たね。坂下まで出て、坂下から汽車で、野麦峠越していったり、坂下まで歩いて行ったり、えらかった(大変だった)よ。野麦峠を越して川浦へ出て、薮原へ出て、そこから汽車で。
あいさ(合間)があってなあ、春と夏のあいさにどうでも帰って来たの。家で百姓の手伝いをしたり、そん時は野麦峠を行ったり来たり、正月ん時は霜があってなあ。
−−雪がある時も峠を越したことはありますか。電線を目じるしにして下りたと聞きましたが。
そういうこともあったねえー。それはもっと遅うなってから、はよううちは(早いうちは)電線なんてなかったでな。辞める頃(やめる前)、2年くらいのこと。雪の中を峠へ行ったこともあるが、雪山で工女が滑って落ちたという話はわしたちが行かんめえ(行く前)だな、聞いたことはある。滑って落ちたとか、何人途中で降りたとか話は聞いたけど、そうやたら大雪の降った時は通ったことはないからなあ。
着物着て、赤いおこしさげて、ハバキはいて、ワラジ、白い足袋はいて。
〈明さん〉「木綿の縞柄のハバキはいていったのやろ、ズンベ(藁沓)はかなかったの?」
そんなものはかない。着物の上は綿入れを着て、その上に羽織を着て、そんときはオコソ(御高祖頭巾)かぶって行った。モスのな、大きいオコソかぶって行った。紫の無地の、モスの立派な模様のついたおこしをして、それで着物をまくして。
〈明さん〉「弁当は風呂敷きで袈裟懸け?」
うん、そう。
高山から小僧が、丁稚っていうか奉公でな、その子が野麦峠の地蔵様の祠の壁になあ、炭で岩本きゑ岩本きゑって落書きしてな。今はもう祠もつぶれちまってねえが。
〈明さん〉「僕が野麦の学校にいたとき、上ヶ洞の入口にそういう建物があったんだけれど、中はビッシリ天井まで、そういう落書きがあった。その建物はもうない。野麦峠のもうすぐ頂上ってとこに地蔵さんの大きいのがあって、その裾の中にも一杯落書きがあった」

読んでるとどんどん引き込まれるエピソードばかりで、やはり機会があったらある程度の量転載してみたいですが、まぁこのへんで。俺のイメージ的にはアニメの製作(下請け)みたいな感じですか。違うのは製糸工場の工女は「100円工女」といわれてたりするぐらいなんで、熟練工はけっこう高給取りだった、という点でしょうか(今の金銭感覚では年収1千万ぐらい?)。
とりあえずひとくぎりとして、同じく7号に掲載された「小泉松恵」さん(92歳)の言葉を引用しておきます。p15,18

(会社の)中に売店があって日用品くらいは買えたし図書館もあったし。夜、外出なんていうときは本当に必要なもんだけk、めったになかった。(外出のときは)外出券をもらって門番で、両方にこう立っていて、窓があって、そこから外出券を出さないと外に出してくれない。帰って来た時は(券を)出すとこに顔を出してね、入れてくれる。
(門限は)9時、遅くなれば怒られるからちゃんと時間内に帰ってきて。
また懐かしい話を持ってくるねえ、こんな話、久しぶりにいき合ったから嬉しくていられない。
日曜は成田公園にでも行ったんじゃ。
〈娘〉「何がなくたって街へは行くよね」
ああ、店へね。ヤマキョウ(注:小泉松恵さんが働いていた製糸工場)のところをのぼればすぐ、あがったところに果物屋があって。そこをちっと行けばエンドウさんちゅうね、(だんなさんが)会社に出てくるウチのおばあさんがお菓子や食べ物の店をやっていて、あんな遠くにはね日曜じゃなくちゃ(行けない)。
成田公園には日曜なんかにのぼって。このあいだ行ってみたら、へえさみしいところになっちまって。昔の面影がねえじゃん。昔は喜んで成田公園にのぼったけんど。
−−そういう時はおしゃれして行きましたか。
しゃれても見てくれる人もいねえもんで。(みんなで大笑い)
(中略)
あたしは岡谷が懐かしいだよ。懐かしくて、寒い暑いよりもやたら懐かしい。なんにもねー(面影が何も残っていなかった)、ヤマキョウのところなんにもないじゃ。
〈娘〉「死ぬまでに行かれてよかったね」
よかったね。本当にありがたい。
(古い写真を見ながら)90歳になってもメガネなしで新聞も読めるだよ。懐かしいね。こりゃーまったく懐かしいね。10年いただ
−−80年前ですよね。
そうだね、だけど成田公園もかわっちゃったね。桜の木も勢いよくなっちゃって、小さい木だったからね。木がかわったね。
岡谷の話をしてくれというんで懐かしく、うんと喋っちゃった。

ああ、こういう人たちが出てくる話(物語)を、小説でも映画でもいいから読んで(見て)みたいものだと思いました。あまり右とか左とかイデオロギーのない奴で、青春っぽいのを。
 
本日の画像は、以下のところにあったものです。
ハバキ(脛巾)

履物と股引の間に下草などが引っ掛からぬよう、また動作を仕易くするために脛に巻きつけるもの

これは樵の人が使うようなもので、工女が故郷に帰るときに使用していたものとは少し違うみたいですが。