「お前さん、いったいどんな夢を見たんだい?」と、落語『天狗裁き』の喜八の女房は言った

以下のコメントから。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060625#c
 

それでは、「元テキストが何に掲載されており、その前後の文脈が不明という、不適切な、引用ともいえない引用」をされて激怒しない人間は変わっていない人なのか、という件について、なぜそれが「変わっていない人」に入るか、という説明をお願いします。

どなたかのコメントにもありますけど、私がやったのは要約です。
要約は全体をまとめたものなんだから、「前後の文脈」なんてものはありません。
本当に変わった人ですね。

「私(seabass(仮)さん)がやったのは要約です」というのは、どなたかのコメントでの意見で、そのコメントテキストが出てくるまでは故意か無意識か、「引用」と「要約」の区別について言及していなかったように思うのですが。
ちなみに、seabass(仮)さんがぼくのコメント欄に書いた最初のテキストはこれでした。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060622#c

しませんよ。私は誰の書いた何という本を引用したか何も記していません。どうしてそれにたいして激怒したりするんでしょうか。

「引用じゃなくて要約ですよ」とは言っていませんね。
引き続き、「要約」の定義が不明なので、ぼくが「元テキストが何に掲載されており、その前後の文脈が不明という、不適切な、引用ともいえない引用」と呼んでいるものを、(seabass(仮)さん)は「要約」と呼んでいる、ということに仮にしておきましょう(どちらがどのように変わっているか、については判断を保留しておきます)。
で、引き続き、「元テキストが何に掲載されており、その前後の文脈が不明という、不適切な、引用ともいえない引用」とぼくが言っており、seabass(仮)さんが言うところの「要約」をされて激怒しない人間は変わっていない人なのか、という件について、なぜそれが「変わっていない人」に入るか、という説明をお願いします。

その哲学者の話をしたいなら、その本を明らかにすればいいし、昨日見た夢の話をしたいのなら「これはぼくが昨日見た夢なんだけど」と言って話をすればいい、というだけのことですね。

何を言っているんでしょうか。私が言いたいのは、前回も書いたように、「あなたの議論が感覚器官や脳の不正確さを根拠に外界の実在を疑うのと同じような議論をしている」ということです。
「それについて書かれた書名が分からないから何だというのですか?」と前回も書いたのに、その回答がこれですか。
結局、あなたがお得意の、「感覚器官や脳の不正確さを根拠にイチロー選手や東京タワーの実在を疑う」ような議論に、逃げ込むわけですね。

で、引き続きその「哲学者の本」という出所元に関する言及はなし、ですか。
だからもう「俺(seabass(仮)の脳内には存在している。なぜその実在を疑うのか」という話をしていてもしかたないと思うのですが。ぼくとしては「確かに、seabass(仮)さんの脳の中には実在しているんでしょうね」と、何かな人を相手にするようなことを言うしかないわけですが。

「翻訳が正しいかどうか」の比較はもちろん、誰がやってもいいんですが、その翻訳が「これ以上はないぐらい的確に伝えている」か、を判断するのは、私でもあなたでもPOWの人間でもなく、笹幸恵さんです。

だから、違うってば。(というか、たまには根拠というものを書いて下さい。)
「翻訳が正しいかどうか」というのは、原文と翻訳文の比較によって決められるものだから、読解力があれば誰にだって判断できるでしょ。

どうもseabass(仮)さんが納得するような「根拠」というものが不明なので、それでは少し考えかたを変えてみます。
翻訳の際に、元テキストが一つなのにもかかわらず、翻訳テキストが複数存在する例は多いのですが、これはどうしてだと思いますか。

「今、俺は○○と述べた。それに対し××という意味解釈をする人間がいるが、それは間違っている」というのは十分なコミュニケーションになりますね。

なりませんよ。
まず、あなたが言う「それは間違っている」というのは当然、「原文である○○の意味する所ではない」という意味ではなく、「自分の真意はそうではない」という意味だと解釈してよろしいですね。
だって原文の意味する所かどうかは読解力があれば誰でも判断できますから。
もし「いや、違う。原文の意味する所は著者にしか理解できないものである。」
というのなら、それは「今、俺は○○と述べた。この意味は自分にしか分からない。」
というのとおなじですね。

違いますよ。
そういう、ある種単純な問題ばかりだといいんですが、異国の言語の場合、たとえば英語と日本語の「ずれ」の場合は、なかなかそうはいかないわけで。
「赤」を「red」とだけ訳していいのか、女性の話言葉を「私、○○だわ」と訳していいのか。それを巡って第三者の、いくら読解力がある人間が集まっても判断できない、というのは普通です。
「俺が述べた「赤」は、どちらかというと「真紅」あるいは「緋色」に近い色なんだが(赤だと意味が全然違う)」というのは、当人が言わないとわからないわけですが、世間的には「赤」でテキストを読んでもたいていは問題にならない。
「真意」というと「意味の解釈」のニュアンスが強いんですが、小はキッチンの小物から、大は主人公の住んでいる家まで、著者と読者、あるいは翻訳者とがイメージするものは異なっており、それが問題になるのは「抗議」や「映画化」という、金や名誉のからんでくる事象で、映画化に口を出さない作家も確かにいることはいるんですが、「この主人公は私の小説のイメージではない」と言う作家のほうがむしろ多いでしょう。
本当に「原文の意味する所」については「読解力があれば誰でも判断」できると思ってるんですか?

その上で例えば、「今、俺は地球は丸いと述べた。それに対し地球は球形だと意味解釈をする人間がいるが、それは間違っている。俺の真意は地球は立方体だということだったんだ。」と言われて納得できますか?
当然、論者の言いたいことは原文に即して解釈されます。地球は丸いと述べた以上、真意では地球は立方体であると言いたかったとしても、そのようには解釈されないのです。

ということで、「俺は地球は丸いと述べたが、このような丸さではない」と言われれば、ぼくは納得できるし、元発言者の「真意」もわかります(元発言者のそれなりの説明も必要だとは思いますが、真意をわかろうとは努力します)。その発言者が「球体とは立方体のことだ」と言ったなら、ああ、この人はseabass(仮)さんの夢の中、あるいは脳内から来た人なんだなぁ、ということもわかるので、「どうかもといたところにお帰りください」と言うこともできます。

当然、笹氏の述べていることも原文に即して、解釈されます。笹氏の真意は笹氏にしか分かりませんが、その文章の中になければ、誰も汲み取ったりしませんし、
それのどこが問題なんでしょうか?
従って、翻訳が正しいかどうかも「原文が意味するもの」と「翻訳文が意味するもの」を比較することによってのみ可能で、笹氏でなくても原文を正しく理解できれば問題は何もありません。
本当にあなたは、言語によるコミュニケーションを何だと思っているんでしょうか。

「言語によるコミュニケーション」は「難しいものだなぁ」と思っています。その難しさをseabass(仮)さんにも理解してもらいたいものだ、とも思っています。

ああそうですか、それでは、伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間は、抗議の要件を満たしていません。
と、「思う・思えない」の部分を外して、自分の意見を述べておきます。

あのね、「思う・思えない」をはずせば客観的な議論になるわけじゃないんですよ。
とりあえず、ここ数回のやりとりを振り返ってみましょう。
lovelovedogさん:

翻訳本は、そのテキストに対し、何か批判・異議その他のリアクションを取るための要件は満たしていない
seabass:
なんでー?どーしてー?根拠はー?
lovolovedogさん:
伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間に関しては、抗議の要件を満たしているとはとても思えない
seabass:
「そう思う」ってわけですか?
lovelovedogさん:
伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間は、抗議の要件を満たしていません

もしこれに対して、なんでー?どーしてー?根拠はー?と訊いたら、上のやりとりを永久にループすることになるんでしょうな。

そうだなぁ、今の質問のしかたでは、その質問をしている人が「田舎の中学生」もしくはそれと同レベルのふりをしている人だとぼくは判断せざるを得ないので、
根拠は、もう少しオトナになるとわかるかもしれない。
とか、「あと、これ試験に出すから丸暗記しといて」というような回答で、ループを止めることを考えてみましょうか。
大学生レベルなら「英語でシェイクスピアぐらい読めないとだめだよ」とか言えるんでしょうけどね。

これで、あなたの主張の肝である、「翻訳は原理的に不正確だから、笹氏に確認せずに抗議をするのは抗議の要件を満たしていない」というのは、何の根拠もない自分勝手な「俺様理論」に過ぎないことが、はっきりしました。
そしてあなたが、根拠もなしに「そう思う」ってだけで、他人を非難したりする人であることが、改めてはっきりしました。(繰り返しますが、「思う」をはずせば良いってもんじゃないんですよ。)

何がはっきりしたのか、ぼくにはまったくわかりませんが、何かがはっきりしてよかったですね(棒読み)。
ぼくのほうではっきりしたのは、seabass(仮)さんが伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間なんだな、ということでしょうか。seabass(仮)さんには、大地震があっても朝鮮・韓国の人を伝聞・間接情報だけで虐殺したりしないことを、これはギャグではなく真剣に望みたいところです。

ものすごく違っていたとしたら、日常生活が成り立たないので。翻訳の微妙な不正確さみたいなものです。

長々と議論してきた甲斐があったいうものです。
もちろん、前半はその通りで、イチロー選手が我々の認識通りに実在していると考えても、日常生活で別に問題ないから、その実在を疑ったりしないのです。
しかし、後半はいただけません。どさくさ紛れに、「翻訳の微妙な不正確さみたいなものです。」などと書いて、その微妙な不正確さが何か問題を生じているみたいなことをほのめかしていますけど、一体どんな問題が生じているって言うんですか?
あなたは、何一つ具体的な例を挙げていないでしょ。
逆に言うと、「感覚器官や脳に不正確さがあっても、イチロー選手が我々の認識通りに実在していると考えて日常生活で別に問題ないから、その実在を疑ったりしない。それとおなじように、翻訳に微妙な不正確さがあっても、日常生活で別に問題ないから、その正確さが十分であることを疑ったりしない。」と言われたら何て答えるんですか?
「伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間は、抗議の要件を満たしていません」と「俺様理論」を馬鹿の一つ覚えで繰り返すんですか?

ぼくの認識しているイチローや東京タワーは、seabass(仮)さんが認識しているそれらとは絶対に違っているけれども、実在を疑ったりはしないし、イチローと松井を間違ったりはしない。ただ、「微妙な不正確さ」によって問題が生じることはあるわけで。
えーと、
「黙殺」を「ignore it entirely」「Reject」と翻訳されて日本がひどい目にあった話とか、
日本と中国の「親近感」に対する意味の違いが、変なアンケート結果になったりとか、
外交文書で使われていた文字をめぐるコミュニケーション・ミスが征韓論の原因になったりとか、
まぁ、そういう話はぼくの日記の定番みたいなものなので、半年ぐらい読み続けていただけると「微妙な不正確さ許すまじ!」みたいな気分になってきますから、おつきあいいただけると幸いです。

もちろん、あなたもそこら辺のことは分かっていて、しきりとイチロー選手の「噂」だの「伝聞情報」だのと論じているわけ。それで、「翻訳」の正確さもそのレベルだとほのめかしているわけです。
「噂」や「伝聞情報」がときには不正確でそのことが問題になることは事実ですが、それは我々の体験的事実に基づいているわけでしょ。
でも「翻訳」はどうなんですか。そういう個別具体的な議論をしないといけないのに、あなたはそういう議論をいっさいせずに、「伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間は、抗議の要件を満たしていません」と「俺様理論」を振り回すだけなのです。』

ぼくの興味としては、まず笹幸恵さんのテキストに関連して言及されているテキストを可能な限り読んでみること、次にその「翻訳」テキストを分析してみること、なんですが、どうも今の段階でそういうことやってると「ムキになってバカじゃないの」と、ぼくの感情の、それも類推にすぎない部分だけが表出されて他の人たちに言及されそうなので、ちょっと時間を置きたいと思っています。あと議論もする気はありません。結局「こう思う」「思わない」みたいな話になりがちですからね。
(2006年6月20日
 

別に目の中の梁の大きさ比べをしているわけではないので。ていうかそのテキストは誤訳でしょ。誤訳というのは言いすぎですけどね

誤訳というのは言いすぎですけどね。(二度言ってみる)
これのほうなんですが、
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」(マタイ七・三、ルカ六・四一)(追記あり)
ちょっとネット上で探してみたんですが、それと同じテキストは見当たりませんでした。
こんなのとか、
マタイによる福音書
ルカによる福音書

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

こんなのとか、
マタイの福音書 5-7 (Matthew 5-7)

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

いろいろあるんですが、これが一番信用できるのかな。よくわかりませんが。
JBS/iばいぶる/聖書全文検索:マタイによる福音書・口語訳
JBS/iばいぶる/聖書全文検索:ルカによる福音書・口語訳

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

JBS/iばいぶる/聖書全文検索:マタイによる福音書・新共同訳
JBS/iばいぶる/聖書全文検索:ルカによる福音書・新共同訳

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

で、「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」というテキストは、いったいどの聖書から引用したものなんでしょうか。ぼくの探しかたが多分へたなんだろうし、キリスト教に関しては全然無知なもので、教えていただけるとありがたいことです。
「ちり」が「塵」である、なんて程度はまぁ、どうということのない「ゆらぎ」ですが、「ちり」と「おが屑」、「梁」と「丸太」、それに「気づかない」と「認めない」では、微妙ながら重要な違いがあるわけです。新共同訳の場合は、イエスが「大工の息子」だからこういうたとえをしたんだろうなぁ、というのがよりわかりやすくなっていますね。
例によってギリシア語は読めないのですが、英語だとこんな感じみたいですです。
以下のところで検索。
BibleGateway.com: A searchable online Bible in over 35 languages and 50 versions.

Matthew 7:3-5
Luke 6:41
Why do you look at the speck of sawdust in your brother's eye and pay no attention to the plank in your own eye?

ただ、英語でもこういう訳があるので難儀です。
Matthew 7

And why worry about a speck in your friend's eye* when you have a log in your own?

少し調べただけなんですが、イエス・キリストに対して「俺の目の何が大きかろうが余計なお世話だ」みたいな抗議をするためには、「大変申し訳ないんですが、イエス様、あなたは私の目の中の何が大きいと言ったんですか」という事実確認は不可欠のような気が。
ということで、apesnotmonkeysさんが何かを言うたびに、ぼくはくんくんしなければいけないので面倒なのです。それは何かの罠ですか。
まぁ、くんくんするたびに、「伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をしてはいけないよなぁ(ましてや、第三者による、元テキスト製作者に確認もしていない翻訳テキストで抗議をするなど言語道断、奇妙奇天烈)」という感慨が大きくなるわけです。
 
ついでですが、

司馬遼太郎の本を、何かの史料として読む人はいませんよね。ましてや「司馬遼太郎の書いていることだから信用できる」なんて思っている人はさらにいないでしょう。

へぇそうですか。私には心当たりがありますけど。

はぁそうですか、私には心当たりはありませんが。
…はて、apesnotmonkeysさんは私と茶飲み話でもしたいのですか。
そうでないのなら、誰がどこの、何というテキストで「司馬遼太郎の書いていることだから信用できる」的なことを言ったのか、第三者にも確認できるような形で何かを語ってもらいたいものです。
 
あと、こんなのも作ってみましたので、公開して「プロフィール」のほうにも入れておきましょう。

私的用語集
ぼくの日記の中で使われる、以下の言葉は以下の意味があるので、違う意味に解釈していたりしている人はご注意ください。
また、この「用語集」による定義・意味づけは、他者による他ブログでのこれらの用語の使用を限定・制限するものではありませんが、ぼくのテキストについて言及する場合は、無用なコミュニケーション・ミスを回避するためにもご留意いただけるとさいわいです。
(2006年6月20日作成・随時追加変更予定)
・「引用」
 引用元をたどり客観的にその引用内容が確認できるだけの情報が添付されている、元テキスト製作者あるいは別の人間によって書かれた別のテキスト。参考→「要約」
・「すごい」
 おどろくほど感心する、勉強になる、の意。
・「正確」
 客観的に事実であると確認できる事象・テキスト、もしくは言及されている当人によって「正確」である、という認証が出ている事象・テキスト。
 使用例:「ぼくのテキストの、その引用は正確ではありません」
・「正確なわけがない」
 「論理的に考えてそれは、正確である可能性は低い・きわめて低い」の意。「まったく間違っている・真逆である」という意味ではない。
 使用例:「伝聞情報が正確なわけがない」
・「フィクション(物語)」
 客観的に事実であると確認することが難しいことについて書かれているテキスト。
・「要約」
 元テキストのパラフレーズ(言い換え)。元テキスト者以外によっておこなわれた場合は、恣意的なテキスト創作。参考→「引用」
・「リベラル」
 現在の日本の(追記)政府・与党に対して批判的な立ち位置を持つ集団・個人。

今日は割とヘトヘトなので、続きはまた明日なのです。
(2006年6月20日