関東大震災における虐殺された朝鮮人は何人?(3回目)

↓この件に関する記述は、以下のところにまとめました
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20020901
↓これは以下の記述の続きです
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030902#p2
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030905#p1
で、その「6000人説」がどこから出てきたものなのか、というのは、『現代史資料・6 関東大震災朝鮮人』(みすず書房)という資料集に目を通してみたらすぐにわかりました。伏せ字になっている名前3文字の人(李相協という名前の人らしいです)が、大韓民国5年(西暦1915年)11月28日に、「独立新聞社・金希山(独立新聞社社長・金承学)」という人の前に提出した、いわゆる「金承学調査書」です。それ以外の資料は確認できませんでした。しかしこれ、私見では冒頭の、俺の既知の外にあるようなテキストや、具体的データに欠ける地名と人数の羅列だけで、とても「現在の研究史で常識といわれている」(http://www.40net.jp/~kourai/home/shinsai.htm)と断定できるほどの決定資料と言えるかどうか…。
まず、「屍体を探せなかった同胞」(多分目撃者証言によるもの)が冒頭にあって、合計3240人、それに特派員の人が実際に見たのが1167人、以上の第一次調査に各県からの報告がいくらかあって、合計6661人、とのことです。
うーん、俺にとってはこんなの資料・史料じゃないです。20世紀の近代都市で、戦争や内乱といった致命的混乱があったわけでもない状況下(まぁそれなりの混乱があったとはいえ)で、具体的な個人名が欠如している数字の、数字部分だけが一人歩きしているデータを根拠に、「日本人が朝鮮人にひどいことをした」ということが、半島関係の人自身も、それが正しい行為だと本当に思っているんでしょうか。根拠のあいまいな「虐殺6000人(6600人)」で過去の日本人の行為を責めるよりも、公式記録として明らからしい「虐殺233人(司法省調査書)」「虐殺832人(朝鮮総督府官憲調査)」を元にしたほうが、嘘・捏造などと疑われる部分が皆無な分メリットはあると思うんですが。どうも韓国の教科書には「6000人説」が定説になっているようですが、その数字の根拠はあいまいなことだけは、韓国の人も知っておくべきでしょう。
裏読みをすると、あまり韓国の人には知られていないような自国の事件である「済州島虐殺事件」(3万人から6万人の島民が虐殺されたそうです)を、別の虐殺事件で隠蔽してる・しようとしているのかな、と思ってしまいます。
↓「済州島 虐殺」をキーワードにしたgoogle検索
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&q=%8D%CF%8FB%93%87%81%40%8Bs%8EE
今日は最後に、「金承学調査書」冒頭の檄文を引用しておきます。『現代史資料・6 関東大震災朝鮮人』(みすず書房)p338-339ページ。


   金希山 先生前
 先生と別れた私達は、千辛万苦して十日目に、やつと焦土化した倭京に着き、各々、確かと責任分担した地方に散つてゆきました。
 ですが、先生も想像がお出来のように、詳細に調査完了するには、極めて困難があります。従いまして、秋も過ぎ、白雪紛々たる今になつて、やつと各地の報告を綜合して、第一次として、大綱を記送致しますから以上より詳しいものは、次の便をお待ちになつて、ひと先づは胸のつかえをお解きになるようお願いします。
 果せる哉、私達の生活は甚だ不自由で、定処なく、通信も不便で、長報告の時間と便宜もないので、これを深諒されるよう願います。
 先生! 敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむ可きと云うよりも賀す可きであります。
 奴等が吾が同胞を虐殺したことを考えると、怒りで歯ぎしりがで、敵土が全滅しなかつたことだけが恨まれるのです。
 先生! だが私は血が沸立ち、肉は躍り、胸の動悸は激しく、涙が眼前を覆い、筆を執つてこれを書くことを敢えてなし得ません。
 これを見る吾が同胞中の誰が、そうでない者がありますでしようか。
 至る処の、苗束のような屍を見れば胸は痛み、両の眼で、焼け残つた肉の跡を尋ねては、身体が震えました。
 嗚呼! 天地は際限があるとしても、吾々の積り積つた怨恨たるいつかゃ、はらす日があるだろうか。哀哉。この寃讐をはらす者は誰であろうか。
 空山明月夜三更に、杜鵑が哀しくなけば、七千の吾が同胞達の孤魂を思い出すべきでありましよう。
 糠雨が止むことなく降り、稲妻が光り、真暗で静かな悔日の夜、遠くで響くかみなりを聞いたならば、倭地で寃魂となった七千、否、七千よりもつと多い魍魎の哀哭なのだと思つて下さい。
 嗚呼! 春の風、秋の雨が、これから幾度来るのか。唯、願うことは、吾々の一片丹心だけであります。
東京を「倭京」「敵京」と記したり、「敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむ可きと云うよりも賀す可きであります」と表現したりという部分などは、こんにちの視点からは、アジテーションであることを考慮したとしても、いささか常軌を逸しているものを感じます。たとえば当時の日本人だったら、自然災害によって数万人規模で亡くなったような事件が、海外の、敵国と思えるような国で起きたとしても、このようなテキストは書かないような気がします。極端に右寄りの人、あるいは第二次大戦中(交戦中)だったら別かもしれませんが。
まぁ、半島の人の「偏狭なナショナリズム」にもとづく、このテキストを元にした「6000・7000人虐殺」の主張は、他の国の人なので仕方ないですが、日本人でそのような主張をしている人は、もう少し元資料・史料(と称されているもの)の意味を知っておいたり、眼を通しておく必要があるのでは、と思います。