「はてなダイアリークラブ」と関連して違和感を語る

↓以下のコメントから
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/comment?date=20040205#c


# DocSeri 『ここに書いて読んで頂けるものかどうか判りませんが。以前から「はてなダイアリークラブ」という存在そのものに否定的な人がいることは認識しておりましたが、はっきり公言なさっている方を他にお見かけしないのでお訊きします。何が嫌なのでしょう。』
これは多分、キーワード「24」のコメント欄に関連してのことだと思いますが、違っていたらすみません。


↓そのコメント欄に、俺は次のように書きました
http://d.hatena.ne.jp/keyword/24?kid=51366&mode=edit#c


lovelovedog 『「○○自体に反対」ということが削除理由になるのなら、俺は「はてなダイアリークラブ」自体に反対なんですが。したがって××とか△△といった「はてなダイアリークラブ」も容認できないんですが。そういう私感で削除キーワードにするの、いい加減にやめてもらえないでしょうかね、cider_kondoさん』
コメント読み返してみると「反対」というのはやはり言いすぎで、「否定的」というニュアンスに比較的近いでしょうか。何が嫌かというと「つながっている人たち同士の気持ちよさげなのが気持ち悪い」ところですかね。そういうことやりたい人は多分、パソコン通信時代の「会議室」「フォーラム」あるいは草の根ネットワーク時代にはさぞ楽しい「つながり」を楽しめたんじゃないかという感じです。まぁ、ネットの原点とは言えるかもしれませんが、そういうのどんどん捨てる方向で、俺自身が生きてきた(少なくとも、サイトやダイアリーの方向を保ってきた)からでしょう。「ReadMe!面白サイト研究会」とか「劣化ウラン弾研究会」みたいなものを、みんなであれこれやる、みたいな発想は、俺の頭の中には出てこないんですね。創作や研究、あるいは「100選」みたいなネタは、個人レベルでやって、その「個性」でつながるのが楽しいところなんじゃないかと。年齢や生きている環境も違う複数の人間が「映画」や「音楽」のベストをみんなで作ったりとかして、楽しいですか。作っている人は楽しいかも知れないですが、読んでても俺は全然楽しくないんですけど。


かざきり羽」関係で撤退したサイトや、2ちゃんねる関連スレッドの「梅(埋め)」作業に残されたテキストに感じる、少し口に出しにくい違和感(キモチワルサ)あたりにも、どうも俺個人が「はてなダイアリークラブ」に対して好意的な形で興味を持つことができない理由と通じるものがありそうです。みんなで何かをやりたがる人間は、誰かが何かをやれと言ったらはじめて、○○だからやめろと言われたらみんなやめる、みたいな人間なんだろうな、と思います。そういう沢山の人間は、何かを自主的に考えることを望まない少数の人間にとって都合のいい存在なのかも知れないです。


同じようなことを、もう少し賢げな言いかたで言っているサイトも発見しました。


↓磁石と重石の発見
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040717


人間はすべてを知ることなどできはしない。不確かな情報を元にどこかで<決定>をするしかない。この<決定>を個人に<権利>として付与するとは、それによって個人を認めると言うことに他ならない。更に、その<決定>に対する<責任>を引き受けることにより、個人は自由を得る。権限と責任が表裏一体となり、個人を形作る


↓ネ タ の タ ネ
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040716


このような考察から、「インターネット」上であろうとも、狭く身近な仲間とだけ連絡をとりあっている使い方だったり、自分の興味のある情報だけを集め、気にしない情報を入れないままで、心の世界が狭いとなると、後はすべて自分とは無関係な「彼ら」(they)としてはねのけることになり、外部者に対しては無関心のまま排他的になる。いっしょに遊べる相手、おもしろい相手しか相手にしないので、いますでに知っている仲間でも、すでに知っていることにしか目を向けないことになりがちであり、知っていてもおもしろくない人や弱い人にたいするまなざしが欠如しがちになる。また、わかっているつもりの自分自身のことでも、すてに知っていること、できることしかしようとしないので、新しいことに対してはなかなか心を開こうとしない、狭い「われ」の世界→閉じこもりを憂慮し、「インターネット」というものの内実は、innternetではなくinnnernetであると憂慮している。