ブログ環境とメディアリテラシーと「こんなもんがジャーナリズムとして機能するかよ」みたいな話
↓常任理事国入りに前向き(色瀬的はてな)
http://d.hatena.ne.jp/irose/20040922#p1
原文に当たれるときは、原文を読むようにしましょう。 メディアリテラシーを育てるの基本姿勢です。
以下のところから、
↓しょうもないブログですんませんm__m(+++ PPFV BLOG +++)
http://ppfvblog.seesaa.net/article/677664.html
以下のところへ。
↓blogosphereはマスメディアである(電網快々@ココログ)
http://sf.cocolog-nifty.com/blog/2004/01/blogosphere.html
そしてblogで「既にある情報を、右から左に流す」ためには、単一のblogの良さは重要ではなく、記事を見て自分も紹介するというリンク紹介の連鎖に価値が生まれます。そしてリンクの連鎖により事実の伝達機構として機能するのであれば、blogosphere(weblogの世間)は新時代のマスメディアとして位置づけることができるはずです。
その「記事を見て自分も紹介する」という姿勢が、新聞や雑誌といったテキストを参考にして何か言う、というような場合には、記事(二次情報)そのものを疑ってかからなければならない、という部分に問題があるわけで。
俺のサイトが時事関係に言及しはじめて驚いたのは、新聞・テレビといった公共のメディア(マス・メディア)によって提供される情報のいい加減さで、「○○がこう言っている」という報道の、全部とまでは言いませんがかなりの部分でちゃんと真実を伝えていない、ということでした。そういうマスコミが「政府批判」をすることを商売としているため、どうしても俺のサイトもコンテンツ的に「政府擁護」っぽくなっちゃうのが難儀なんですが、実は俺のサイトは「(既成の)マスコミ批判」を眼目に置いています。批判対象(たとえば日本国政府とか小泉総理とか)がどのような言動を取っており、それを批判するためにはこのような視点とこのような根拠を持つ、という程度の、自分の発言における正当性を、マスコミ関係者は保持していると思ってたんですが、「捏造・歪曲してでも批判します」的テキストの続出で、あきれるやらネタに不足しないという意味ではありがたいやら、という感じでした。
そこからさらにいろいろと。
↓ジャーナリズムにおけるウェブログ形式は何が急進的なのか?(絵文録ことのは)
http://kotonoha.main.jp/2003/11/02radical.html
http://kotonoha.main.jp/weblog/000142_radical.html
1)ウェブログは贈与経済から出てくる。一方、ほとんどの(すべてではないが)今日のジャーナリズムは市場経済から出てくる。
2)ジャーナリズムはプロの領域となっていて、素人はときどきその中に招き入れられる――署名入り記事のように。一方、ウェブログは素人の領域であり、プロはこのページのように招き入れられるものである。
以下、追加分をあわせて15の急進的な理由を紹介しています。同意できるのもあればそうでないのもあったり、いろいろです。ウェブログ(ブログ)によってジャーナリズム・ジャーナリストがどのように変わるのか、という話で、同意できない部分は「プロでない人間によって展開するジャーナリズム」に対して楽観的すぎる点でしょうか。逆にいうと、プロフェッショナルによるジャーナリズムに悲観的すぎることですが、これについては、俺が別のところ(JANJANのご意見板)に書いたテキストを改変してこちらに掲載してみます。
まず、以下のサイトから。
↓プロのジャーナリストはやはり必要(ネットは新聞を殺すのかblog)
http://kusanone.exblog.jp/896463/
近未来においては、参加型ジャーナリズムが一方的な熱狂的意見に傾こうとするときに、プロのジャーナリストたちが取材で得た事実を提示し議論を健全化してくれるという形がわたしの理想である。
そこから、こんなところへ。
↓「参加型ジャーナリズム」について(dawn)
http://mit56.way-nifty.com/dawn/2004/08/post_14.html
感想と報道とは、その基盤を、主観に置くのか、客観に置くのかと云う点に於いて、大きな違いがあります。主観的なものが集合体として動くと何が起こるのか、これは今までの歴史が証明しているところです。当然ながら、客観性を追及するのは極めて難しいことではあり、完全なる客観性と云うのは、究極のところ不可能なものです。しかし、それを追い求めることこそ、私の浅薄な理解ですが、専門性であり、職業としての在り方ではないかと思います(新聞社等の試験に通ったからといって、職業としてのジャーナリストではないことは言わずもがなのことでしょう)。しかしながら、現在、表面的には客観的な体裁を採りながら、その実、マスメディアの主観が大きく働いているような紙面や報道が大半です。しかも、それが著しいために、読者、視聴者がすぐに判ってしまう。主義主張を書くのであれば、社説でもって、誘導的な文章ではなく、ストレートに署名入りで書けば良い訳です。このような状況が一般の方々のマスメディアに対する不信感に繋がっているように感じます。
↓「参加型ジャーナリズム」について2(dawn)
http://mit56.way-nifty.com/dawn/2004/08/post_15.html
当然ながら、報道には自らの見方が入ることは当然であり、そうでなければ、報道取材はしない訳です。私は調査報道と云うことを申し上げている訳ではなくて、「公明・公正」な議論の材料として報道を行うならば、その事実検証が必要ではないかと申し上げています(中略)。自らの視点と、それを補う取材・実感がなければ、その「公明・公正」と言われる主張そのものが揺らぐことになるのではないでしょうか。そのような道筋を確立すべく努力するのが、ジャーナリストではないかと私は感じるのです。
参加型ジャーナリズム4
http://mit56.way-nifty.com/dawn/2004/08/post_22.html
私も参加型ジャーナリズム自体を否定するつもりはありませんが(真に公正・公明を追い求める人がやるのであれば、そう思います。パソコンの前に座っているだけの人が何を知っているのだろうかとも思っています。)、どうも評論(もしくはある種の見方に関する煽動)とジャーナリズムとを勘違いした言いぶりが多いのではないかと思います。
俺の意見としては、ブログのような「参加型ジャーナリズム」が普及しつつある現在では、ジャーナリスト・サイドの意識改革が必要じゃないか、という感じです。要するに読者を特定の主張であおったり啓蒙したりすることよりも、「取材で得た事実を提示し議論を健全化」することを目的としたほうが、プロのジャーナリストとしてはまっとうだろう、ということですね。今は「啓蒙型(煽り型)ジャーナリスト」が急速な勢いで凋落しており、それに対する「事実提示型(鎮火型)ジャーナリスト」がようやく勃興しつつあるかなぁ、という感じでしょうか。大手マスコミはまだその流れに対応しきれてはいないでしょうが。
マスメディアによるジャーナリズムや新聞報道がちゃんとしてくれば、俺がしているような「本当は何と言ったのか」的なテキストを作っているサイトは、はっきりいってなくなります。
困ったことに、俺の知っている限りでは、ネットで流通する情報で「こんないい加減なネタで何かを批判したり、意見を言われたりしてはネット・ユーザーが一般人に馬鹿にされてもしかたがない」と思えるようなものの「いい加減なネタ」は、少なからず新聞の記事に依拠するものだったりするのが何ともかんとも。
具体的に例を挙げると「高校生による自衛隊のイラク派遣に関する請願書」を「読まなかった」ということで小泉首相を批判したblogで、それらに対する言及は俺の日記の以下のところにあります。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040208#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040209#p2
さらにもっと読みたい人には、俺の日記ページの上のところに「検索」の窓がありますので、そこに請願書を出された高校生の固有名詞を入力するとあれこれ出てきます。
もう一つは、先日の沖縄におけるヘリ墜落事故で「劣化ウラン弾の可能性も否定できない」というような形で劣化ウラン弾について言及されていたblogで、俺はその件に関しては以下のような言及をしました。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040821#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040826#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040903#p1
「草の根ネットワーク(blog)」は、もっとちゃんとしたメディアリテラシーを身につけないと、ちゃんとしたジャーナリズムにはなり得ないですよ、みたいなことは俺も感じる部分は多いです。もっと具体的に言うなら、たとえ「個人的な独断と偏見を公表するだけの、私的なblog」だとしても
1・「もしそれが本当ならば」ではじまるテキスト(記事)は書かない
2・「その情報は本当なのか」という、一次ソース(情報源)の確認をする
ということでしょうか。まぁ生活の事情で(本業である仕事の関係とか)なかなか実践は難しいとは思いますが。
新聞の記事は容量の問題と記者の気質の問題で、現状では二次ソースとして以上の意味を持ちません。特に海外の新聞や「××筋では○○という声もある」という記事には、一層の注意が必要でしょう。曖昧な情報を元に「何かを批判する」というジャーナリスト的精神だけを実践するブロガーが増えると、俺がどんどん不愉快かつ攻撃的になっていくわけです。
↓少し「電網快々@ココログ」にもどって
http://sf.cocolog-nifty.com/blog/2004/01/blogosphere.html
こちらのほうへ。
↓分散ジャーナリズム・流動性・祭り(network styly *)
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000641.html
↓分散ジャーナリズムとしてのウェブログ(↓NIKKEI NET時評)
http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030529s2000s2
世間で言われているほどインターネットは速報性のメディアではなく、むしろ、インターネットは基本的に非同期が前提であり、その分時間をかけた思考が可能なメディアであるということは、ウェブログや「はてな」のサービスが示していることだと思う。
こういう形で現れてくる文章と思考の形態を、ぼくは「分散ジャーナリズム」と名付けたいと思う。インターネットの最大の強みは、非同期的な分散による協業だ。そして、日記や日録というのは、ジャーナリズムの起源であるところの、市民の日々の考えの記録だ。世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になっていく。そういううねりのようなものの予感を、いま世界中でだれもが感じ始めているのではないか。
どうしてこう、ジャーナリズム的な視点でネット発言しようとしている人たちに対して楽観的・好意的なかたがたが多いのか、俺にはよくわからないんですが、まぁ多分それだけ現在のジャーナリズムに否定的で、その未来に悲観的な人が多い、ということなんでしょうか。
ただ、インターネットは「時間をかけた思考が可能なメディアである」ということは正しいんですが、それをメリットとしている時事系サイト(ブログ)は、俺にはあまり多いようには思えません。「半年前に少しだけ紹介したこの事件だが、その後こんなことになった」というような続報どころか、ひと月前に大あわての「速報」として流した記事、それも「もしそれが本当ならば、○○は××である」とコメントした記事の、違った事実が出てきた場合の記事訂正すらしていないところが目立つように、俺には思えます。ブロガーのテキストに「速報性」や「新聞・テレビが流しているような、ありきたりのコメント」は、ふさわしいものではないでしょう。必要なのは、ネットというシステムを生かした多方面からの情報収集にもとづく、冷静で各ブロガーの世界観が出ている「世界への意見提示」でしょうか。
なお、トラックバックとコメント機能で、より簡単にブログ同士が結びつくことは、「噂レベルの情報」が容易に「既成事実」化する(情報をロンダリングしている間に、一次ソースや情報源に対する確認が甘くなってしまう)、という危険もありそうです。情報を発信している人間に対するキャラクター認識がある場合はいっそう、「キャラを信じる」→「その人間の提供する情報を信じる」という流れになるわけで、今のブログの「相互に結びつくためのメリット(コメントとトラックバック機能)」は、メディアリテラシー意識の低いブログ・ユーザーによって単に「ソースロンダリングのための最強の機能」になっているところが情けない、というか残念な印象です。
これが2ちゃんねるのように情報発信者が匿名原則の場である場合には逆に、情報源という「誰が見ても存在する真実」にこだわる傾向が強くなり、「信頼できる人間」同士より「怪しい人間」同士の情報交換のほうが、少なくとも流通している情報に関しては信頼できる、という奇妙な現象が生まれて来ます。「ソースは2ちゃんねる」というのはまぁ、「ソースは日刊ゲンダイ」と並ぶぐらい、それだけではお笑いのネタにしかならないんですが。
↓最後に、はてなダイアリーのキーワード「メディアリテラシー」中の、「報道に対する十箇条」は必読です
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%e1%a5%c7%a5%a3%a5%a2%a5%ea%a5%c6%a5%e9%a5%b7%a1%bc