落語『鹿政談』に出てくる奉行は3つの説があるがどれが正しいのかについて

えー、本日も一杯のお運びで、厚く御礼申し上げます…と、最近ポッドキャスティング落語を聞いているわけですが(→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060603#p3)、五街道弥助柳家小太郎『鹿政談』を聞きまして、少し気になることがあったので調べてみました。
とりあえず、ここに行けば拾えます(2006年5月31日2005年10月5日)。
ぽっどきゃすてぃんぐ落語
10月5日  「鹿政談」 柳家小太郎
で、どういう話かというと、ここのテキストを見ればわかります。
【上方落語メモ第3集】その112 / 鹿政談
まぁもともとは上方落語で、要するに奈良の鹿をあやまって殺してしまった豆腐屋の爺さんが、「鹿殺しは死罪」という当時の罪に問われてお白州で取調べを受けたところが、時の名奉行が「それは鹿ではなく犬である」と言って無罪にする、という話です(ものすごい要約)。
で、この「時の名奉行」が誰だったのか、という話をします。
最初の引用元では、このように書かれています。
【上方落語メモ第3集】その112 / 鹿政談

主な登場人物】
 豆腐屋六兵衛  奈良町奉行・曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)
 目代屋敷鹿の守役・塚原出雲  興福寺の伴僧(ばんそう)良念
 町役連中  六兵衛の女房ほか

この「曲淵甲斐守」というのも面白い奉行で、ちょうど大岡越前守と遠山の金さんの間ぐらいに、江戸北町奉行をやるわけですね。
奉行の人事異動

南町奉行所 大岡越前守忠相 享保 2(1717) 2.3 元文 1(1736)8.12
町奉行所 曲渕甲斐守景漸 明和6(1769)8・15〜天明 7(1787)6.1
町奉行所 遠山左衛門尉景元 天保11(1840)3.11〜天保14(1843)2.24

他にどんなことをしたかというと、こんなお話とか。
【傑作時代劇スペシャル】魔の紅蜥蜴

老中田沼意次の大陰謀に町奉行・曲淵甲斐守、そして瓜二つの素浪人・白旗弓之助が天誅の剣をふるう波乱万丈の巨篇。市川右太衛門が二役主演。天明六年、江戸城中桔梗の間に新番四百石佐野善左衛門は時の老中・田沼主殿頭意次に刃傷、かすり傷を負わせた。多年に渡る意次の悪政に対する死の抗議であった。大岡越前守以来の名奉行と噂の高い曲淵甲斐守、松平越中守の情けの取り計らいもむなしく、将軍・家治は佐野一族の追討を命じた。かくて、佐野一族は滅亡したかに見えたが、善左衛門の妹・菊絵だけは曲淵甲斐守と瓜二つの浪人者・白旗弓之助によって救い出され、亡き兄の遺志を継ぐ決意をするのだった。原作は国枝史郎「銅銭会事変」。TV初・ビデオ未発売・ニューマスター。

こんなお話とか。
お奉行さまと娘たち -- キネマ旬報DB/ Walkerplus.com

町奉行曲淵甲斐守の御曹子圭四郎と、その腰巾着ガッテンの半公二人は“天誅”疾風一族と記された紙片をつけられて谷中の五重の塔に縛りつるされている二人の侍を発見、これる助けようとしたところ捕物小町お美代に疾風一族と間違えられ伝馬町の牢へ放りこまれてしまった。疾風一族というのは、当時悪名高い大名、商人ばかりを襲う義賊であった。父甲斐守の苦い顔も知らぬげに、圭さん主従が新しい根城に選んだのは牢で知り合った巾着切りの亀吉の紹介によるカピタン長屋であった。(後略)

昔の時代劇は面白そうです。とりあえず名奉行だったみたいです。
ところが、五街道弥助柳家小太郎の『鹿政談』の中では、この奈良奉行の名前は「松野河内守」になってるんですね。
そこで、こんなのとか。
落語界の住人人気投票

第20位 ... 55 票 (.8% - 6 - 2) ... 鹿政談の奈良奉行
..........うーむ、マニアックだね。
..........鹿政談のオリジナル版の奈良奉行普通は根岸肥前守だけど小三治師匠や露乃五郎師匠は松野河内守でやっています。

要するに、五街道弥助柳家小太郎さんのそれは傍流という感じでしょうか。(補足:柳家一門としては「松野河内守」が正統ということかも)
実は、松野河内守というのは忠臣蔵、というか忠臣蔵実録のほうで有名な人なんです。
こちらのほうに別ヴァージョンの『鹿政談』があります。
「鹿政談」

このころ、奈良のお奉行さまはと申しますと、松野河内守さま、後に大阪の町奉行におなりあそばして、あの忠臣蔵赤穂義士との夜打ちの道具をこしらえました天野屋利兵衛をお裁きになった後、江戸表へおたち帰りになって、江戸の町奉行におすわりになった方。

時代的には、「曲渕甲斐守」よりさらに60年ほど前の江戸北町奉行だった人です。
奉行の人事異動

町奉行所 松野河内守助義 宝永 1(1704)10.1〜享保 2(1717)2.2
町奉行所 曲渕甲斐守景漸 明和 6(1769) 8・15〜天明 7(1787)6.1
南町奉行所 根岸肥前守鎮衛 寛政10(1798)11.11〜文化12(1815)11.9

ただ、この話を「松野河内守」の時代の話だとすると、少し矛盾が生じるんです。
「鹿政談」

(前略)
「意趣のあろうはずがございません。朝起きて・・・・豆ひいとりました。表の方で大きな音がいたしました。見ると、赤犬がきらず食べとります。二度三度追いましたが、向うへ行ってはくれません。ネキにあった割木をとって放りました。たしかな手応え・・・・近寄り見れば、犬ではあらで、これなる鹿、南無三無、薬はなきかと、懐中を探ってみれば情なや・・・・」
これ、それは『忠臣蔵』六段目である。逆上いたすな。ン・・・・ン・・・・ウン・・・・鹿とは存ぜぬ、犬じゃと思うたとあるか。ならば、奉行もいまいちど、死骸をあらためみよう。コレ、死骸を持て」
(後略)
サイト管理者のコメント

最初、奉行の松野河内守の説明で、「天野屋利兵衛をお裁きになった後」とあるのに、六兵衛が、忠臣蔵を洒落たのに対し、「これは『忠臣蔵』六段目である」と指摘してます。
えらい矛盾です。当時、演者は気づかなかったのかなぁ?

忠臣蔵仮名手本忠臣蔵)のモデルになった人が、忠臣蔵の芝居の話をするのは無理ですね。
なんか、眠たくなったので続きはまた明日。
(2006年6月8日)

これは以下のテキストに続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060612#p1