メジャーなブログになるためには怒りが必要なのかも

 これは以前から思っていたことですが(あるいは、前にも書いたことですが)、どうもぼくの日記には、世の中の事象・事物に関して「怒る」という感情の起伏が足りないのでは、と。自分の興味はあるし、その興味の対象は、読者にとっても興味の対象である時もそうでない時もあるみたいで、シンクロした場合にはそこそこのアクセスもあるわけですが、年に2〜3回ぐらいしか、不満や怒りその他の感情を書いてみたことがないので、そこらへんがアクセスの伸び悩みなのかも知れず。9.11やイラク戦のことを、怒っているベクトルで書いているテキストを見るとヴォネガットな気分になるのです(ちなみにヴォネガットは当時、感情的に彼なりの方法で怒っていました。合掌)。
 世界はよくなっているとは思えないし、どうすればよくなるのかも分からないんですが、ぼくは「誰かに対して怒っている人間は、絶対過去に何らかの因縁がある」という判断をしてしまうのですね。テレビ的な話題をすると、この間の日曜日、朝青龍に対して和田アキ子は怒っていましたが、ぼくには「この二人の間には何かあったんだろうなぁ」としか思えませんでした。コメンテイターもあれこれ、感情的に言っている人はたくさんいましたが、ぼくの場合はそういう自分の意見を、ネットの中でも言うことにはあまり興味が持てなくて、「過去の横綱の引退理由」だったらちょっと調べてもいいかな(興味を持つ)、という方向があるのでした。だから、「○○に昔ひどい目にあったから、今回の××の件では○○の味方をしない」とか、もっとみんな言ってくれると、裏読みをしなくて助かるのですが。
 ダラダラと書いて、もう寝ます。