最近の新聞記者実名コラムでは古森義久氏の読解力のなさ(あるいは右脳)が眼にあまる

 見出しは演出です。
 なんか左脳の人ばかり観察してたような気がするおいらですが、ネタとして「間違ったこと言ってる」というテキストは、そのテキストを作る人間の誤読・歪曲癖にあるわけなんで、右・左関係ないのです。で、ちょっと気になったのは、産経新聞古森義久氏は大丈夫なんだろうか、ということです。
 ちなみに、前に古森氏に関してふれたテキストはこちら。
慰安婦米軍命令の誤記事について
 で、今回はこれ。
朝日新聞の夕刊コラムが死者にツバかけるーーー故瀬島龍三氏を「あいつ」「てめえ」と:イザ!

戦時中は大本営参謀を務め、戦後は伊藤忠商事会長となった瀬島龍三氏が9月4日、亡くなりました。
瀬島氏の長く錯綜した軌跡に対し、毀誉褒貶は当然あるでしょう。礼賛や同意があるとともに、批判や反対もあるでしょう。
 
しかしいまや死者となった相手を直接に論ずるに際しては、一定の礼節があるはずです。もう反論も説明もできない死者に対し、その生前の言動を一方的に攻撃するという対応は洋の東西を問わず、非礼であり、とくに日本では卑劣とみなされるようです。逝去したばかりの人物に対し、単なる批判的な評価ならばまだしも、悪感情ばかりが先行する野卑な誹謗の言葉をぶつけるというのは、死者の霊にも、その遺族にも、あまりに失礼です。
 
ところが朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」9月5日をみてください。
以下の記述がありました。
 
<<昭和の参謀大往生。「あいつらの言う国家とは、結局、てめえだけのことではないか」「何万人もの兵士が餓死しても、すべて、国のためだと言って、平気なのだ」(古山高麗雄・フーコン戦記)>>
 
この記述は故瀬島龍三氏に対し「あいつ」そして「てめえ」と悪口雑言を浴びせているのです。まさに死者にツバかけるとは、このことでしょう。亡くなった人間に対し「あいつ」とか「てめえ」と、口汚くののしるとは、恥を知れ、といいたくなります。
 
しかもその手法がいかにも病的思考の「素粒子」らしく、卑劣です。
古山高麗雄氏の言葉を引用する形をとっているのです。その古山氏の原文が果たして瀬島龍三氏個人に標的をしぼっていたか否かも、わかりません。瀬島氏が本当に「何万人もの兵士が餓死しても平気」だったのか。「国家とは、てめえだけのこと」だったのか。どうやって実証するのでしょう。
 
そもそも瀬島氏がそういう活動をしたと非難される時代の戦争中、朝日新聞はではどのような報道ぶりをしていたでしょうか朝日新聞自身が国家を説いても、結局は自分のことだけだったのではないのか。戦前、戦中の瀬島氏の言動だけを他人事のように非難できるのか。
 
そしてなによりも、汚らしい言葉遣いです。死者の霊に対し「あいつ」「てめえ」なのです。しかも根拠の曖昧な誹謗に拠って立って、なのです。普通の良識、常識のある人間はたとえ政治的意見を異にする相手でも、その死に際しては、必ずや言っ
よいことと、悪いことの区別があるはずです。
 
朝日新聞の「素粒子」は明らかにこの限度を踏み越え、異常な憎しみや、さげすみをあらわに、瀬島氏の霊にぶつけるのです。
こうして死者にツバする病的コラムは「鼠瘤屍」とでも呼びましょうか。
 
そう、朝日新聞夕刊コラムの「鼠瘤屍」(そりゅうし)です。

 素粒子のコラムは「あいつ」という、故瀬島龍三氏を名指しにしているような言葉は使っていません。
 使っている語は「あいつら」。
 ちょっと元テキストの前後が不明なんで、「古山高麗雄・フーコン戦記」のそのテキスト部分が誰・何を批判しているかは不明ですが、文脈を読む限りでは「大本営参謀」の場合であっても、複数のそれ(参謀の人間)、以上の意味はないんじゃないでしょうか。
 個人的に古山高麗雄氏が瀬島龍三氏を憎んでいたら、出てくる語は「あいつ」。
 こういうのは「言ってもいないことを言ったと言って、言ってもいない奴(わら人形)を攻撃する」という、手法的には、感情的にならないで元テキストを分析すると、わら人形攻撃者がバカに見えるだけの手法に、ぼくには思えたのでした。
 んー、とりあえず、「古山高麗雄・フーコン戦記」を探して、当該箇所に眼を通してみますです。