記者の目:朝日とNHKの大喧嘩 ほくそ笑むのは誰?(毎日新聞・牧太郎)(2005年1月25日)

記者の目:朝日とNHKの大喧嘩 ほくそ笑むのは誰?(2005年1月25日)(←MSN-Mainichi INTERACTIVEより転載)

 朝日新聞も、NHKも、それなりに良質なメディアだと思っている。でも突然ウブなことを言い出されると、こちらがドギマギしてしまう。「NHKの番組改変に政治家の介入があった」と初めて知ったかのようにスクープする朝日新聞。「圧力を感じなかった」と強弁するNHK……。冗談じゃない。陰に陽に“介入”が行われているのは永田町の常識ではなかったのか。ウブな顔で正義ぶったり、被害者ぶったり。冷静になってほしい。

 半日常的に「権力」から介入され、圧力を受けながら、それを上手にくぐり抜け「真実(に極めて近い事実)」を報道するのが、ジャーナリズム。両者のけんかを陰で喜んでいる人がごまんといることを、僕は悲しく思う。

 政治的圧力は過去も現在も、どこにでも存在する。例えば某特殊法人のトップは某政治家の無理難題を断り「宣戦布告だ!」と脅された。その政治家の背後に「闇の勢力」が存在するから周囲も緊張する。最近この事実を知ったが、僕は書かない。明白な犯罪行為とはいえないうえ、報道したことで一つ間違えると人命が危うくなるからだ。

 別の特殊法人のトップはある政治家から「言いなりにならないのなら、○○省関連の法案をすべて廃案にする」と脅された。この圧力も知ったが、これは書く必要がない。単なる駆け引きで、政界では日常茶飯事なのだ。

 政治家が特殊法人に介入するのは「人事と予算」を握っているからである。だからNHKだって、他の特殊法人と同様に介入を受ける。事実、過去に会長人事をめぐり政治家たちが暗躍したことが度々ある。

 介入は“あうんの呼吸”で常に存在する。ウブな顔をするNHKも「政治家への番組事前説明は当然」と話している。しかし特定の番組で、NHKに圧力がかかったかどうかを見極めるのは難しい。

 国会議員は選挙で信任を受けた言論人。その発言は最大限に守られるべきであり(同時に本人は最大限に責任を取るべきだが)マスメディアを批判するのも自由である。国会議員の発言が圧力になるかどうか。それは正確に判断できない。被害の認識に違いがあるし政治家が「圧力をかけた」なんて言うはずもない。

 NHKに求めるのは政治的介入を上手にくぐり抜け「真実」を報道することだ。

 特殊法人に圧力がかかるように、報道にも圧力がかかる。十数年前「総理大臣のスキャンダル」を取材した時、ちょっと有名な人物から電話を頂いた。「このスキャンダルは事実ではない。よしんば事実であっても書くべきではない。彼は総理になって間がない。彼の仕事ぶりを見てから、批判すればよい」

 圧力をかける時「権力」は表に出ない。第三者の意見という形を取る。「ご意見ですが、書きます」と答えた後、もう一度関係者を再取材すると、数人が「あれは勘違いだった」と証言を一変させた。これは明らかに介入だ。

 それでも、核心を証言した人物の一人が同僚記者にこう話した。「首相官邸からお達しがありました。昨日お話ししたことは忘れて下さい。でもどうしても記事にして裁判になったら、私は毎日新聞の味方です」

 勇気づけられた。記事にした。首相官邸から抗議はこなかった。記事と微妙に関係したようだが、内閣は短命だった。

 圧力はさまざまな形でやって来る。民族派の人から抗議を受けた。「ピストルを持っている」と言われた。「まさか」と思いつつ、強気に対応したが、その数カ月後、その人物が大物政治家を狙撃したことを知った。圧力と対峙(たいじ)するには覚悟がいる。

 今回の朝日新聞とNHKのけんかは不幸である。朝日の記事は“覚悟したスクープ”と信じたいが「言った、言わない」の水掛け論にわい小化されてしまった。本来、問われるのは「特殊法人で独立した報道機関でもあり、国民から受信料を取っている奇妙な形態」がNHKにふさわしいかどうかだ。漫然とこの形態が続けば、NHKは介入を受けるだけでなく時に「権力の内部」に位置してしまう。

 我々には、最後まで守らなければならない一線がある。憲法21条の第2項で「検閲は、これをしてはならない」と定めた民主主義の根幹である。メディアの日常的な自己規制が事前検閲になってしまったら、民主主義は死ぬ。

 誰が、朝日VSNHKのけんか騒ぎを歓迎しているか。注意深く見極めなければならない。もうじきNHK次期会長を巡る政治的暗闘の季節が始まる。【社会部・牧太郎

毎日新聞 2005年1月25日 1時11分