河谷史夫氏と渡辺淳一氏のやりとりなど

現在の朝日新聞夕刊・素粒子欄担当である「河谷史夫」氏に関する、俺の日記での過去の言及は以下のところ。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030213#p5
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030527#p3
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030604#p3(←ある種おすすめ)
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030605#p2
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030605#p3
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030626#p1(←おすすめ)
失楽園』に関する河谷史夫氏の、朝日新聞での書評は、以下の通り。1997年3月2日づけ。


 「新聞で最も読まれないのは」と言った人がある。「小説と社説である。いま自分の新聞の連載小説は何々ぞと問われて即答できる社員は希である。社員でさえ知らない小説を知る読者はさらに希である」。社説のことはさておき、連載小説があまり読まれなくなったのは、テレビの繁盛のせいだろう。娯楽の手段には事欠かぬ時代だ。「女ひとり口説くのに一年もかかっていてはまだるっこしい」と断ずる向きもあった。
 ところがまれに例外はある。この「失楽園」が日経新聞に連載中、飲み屋に中高年のサラリーマンがたむろするや、諸人こぞりて話題にしたというのだ。
 部長を解かれ役員昇進の道を絶たれた出版社「編集委員」五十三歳が、書道の講師をしている「楷書のような女」三十七歳と知り合う。「恋の出会いはいつも偶然である」。男はこの「顔はことさら美人というわけではないが、細っそりとして愛くるしく、やや小柄で均整のとれた駆」で「ナイフのつかい方はいつも無駄がなくて美しい」女にほれる。これが小説で女も夢中になる。ともに家庭を捨ててまでの二年の道行きが勝手知ったる筆遣いで語られる。結末に工夫がこらしてあって、そいつが関心を呼んだのは間違いないが、それにしても読まれた理由は何だろう。
 まずはいきなりベッドの中から始まるテンポのよさである。お互い忙しい世の中だ。口説く過程など手ぬるくて付き合ってはいられまい。つぎに観光案内として。鎌倉、箱根、修善寺、日光、軽井沢と季節に応じて名所が描かれる。それも「浅草から日光までは、快速で二時間近くかかる」といった親切ぶりだ。そしてファッション本。女は「薄い紫地の付下(つけさ)げに、白い刺繍の帯を締め」たり「黒のハイネックのセーターに同色のカルソン、ワインレッドのハーフコート、グレーの帽子」だったりで現れ、無粋な手合いには参考になろう。最後に何より「性生活の知恵」である。二人が落ちた「淫蕩という名の奈落」で、繰り返される奈落(ならく)の場面をいちいち覚えてもいられないが、さしずめ性愛紋切り型辞典を繰る趣であった。
 「大人のおとぎ話」に、教訓が一つ。「人間、どうせ老いぼれて死ぬんだから、やりたいときに、やりたいことをやっておかねばいかん」
正直言って河谷史夫氏のテキストを手作業で入力するのは精神的につらいです。理由は俺基準で「駄文」すぎるからです。もうあと一回それをやらねばならないんだな、とほほ。
まぁテキストの内容は、当時ベストセラーであった渡辺淳一の『失楽園』という小説への、あまり真っ向からの批判(自身の文学的スタンスを明白にした上での、文学的批判)ではなく、単なるベストセラー小説的部分に対する揶揄みたいなものでしょうか。ていうか、この河谷史夫氏に「文学的」なスタンス、小説というものに対する畏怖や、作家という存在への尊敬意識がそもそもあるかどうか不明ではありますが。ただ、世の中には「ベストセラーだというだけで批判される小説」とか、「ベストセラーだというだけで揶揄してみたくなる疑似書評家」という存在もあるわけなので、河谷史夫氏もごく軽い気持ちで、ベストセラー分析的な姿勢から何かを言ってみたんじゃないか、と思います。
河谷氏そのものの「流行作家」に対するドロドロした怨念じみたものとか、誰も朝日の書評コーナーで『失楽園』というベストセラーについて書評を書こうとしなかった、というような状況は背後にあるかも知れませんが。
で、それに対して河谷史夫氏は渡辺淳一氏に「週刊現代」連載中の「風のように」1997年6月7日号で反論をくらいます。それが以下のテキスト。

 このところ、「失楽園」が売れて、「失楽園ブーム」とかいわれている。
 著者として、それはそれで嬉しいことだが、それが一人歩きして肝腎の小説と別のところで騒がれると、ありがた迷惑、ということにもなりかねない。

 最近、いささかうんざりしているのは、テレビのワイドショーなどで「失楽園症候群」などと称して取り上げられることである。
 こういう場合、メインキャスターやゲストが入り交じって、まず小説の感想からはじまるが、そのうち、小説の主人公のやっていることは是か非か、といった問題にすり替わっていく。
 テレビだから、賑やかに面白おかしくやるのはわかるが、不倫を許せるか否か、という話になっては、脱線もはなはだしい。
 不倫が現在の常識や道徳からみて、悪いことぐらい、小学生だって知っている。はっきりいって、そんなことを論じてもらうために、この小説を書いたわけではない。
 長編小説のテーマを一言でいうのは難しいが、「失楽園」では常識の善悪をこえて、人間の奥に潜んでいる、性愛を含めた、圧倒的な命の輝きみたいなものを表現したかったのである。
 それがどれくらい描かれていて、どう感じたかという議論ならわかるが、不倫の善し悪しにすり替えられては、驚きをとおりこして呆れるだけである。
 しかもこんなことに、司会業の女性が、「不倫はいけない」と叫ぶのはご愛嬌としても、高名なお笑いタレントのお兄さんまで、「不倫はだめ」といい続けるとは、無知をとおりこして稚(おさ)なすぎる。
 そういえば、先日、ある新聞の投書欄に「甘美に不倫と自殺をすすめている」という批判がのっていたが、これもお門違いというものだろう。
 主人公のやっていることで、文学作品を論じたら、どんな名作も成り立たない。
 小説で不倫や不道徳がいけないというなら、谷崎さんの「鍵」も川端さんの「雪国」も「眠れる美女」も、「チャタレイ夫人の恋人」も、いやいや数えだしたらきりがないほど、どれも最低の作品になる。
 文学は道徳や倫理や正義を描くものではなく、人間の奥底に潜んでいる本然的なものをあぶり出すものである。
 この文学のイロハも知らずに、小説を社会倫理で論じられては、男女の小説は死んでしまう。

 それでもテレビはまだ半ばお遊びだし、文学に素人の人が出てきても仕方がないとは思うが、こうした文学無知が書評にまで現れては、いささか問題である。
 その最たるものは朝日新聞の書評で、それは以下のような文章からはじまる。
「まずはいきなりベッドの中から始まるテンポのよさ」と揶揄的に書き、いまは忙しい世の中だから、口説く過程など手ぬるくて書いていられないのだ、と断じる。
 小説のカットバック手法、そのものをご存じないわけでもないだろうが、それ以前に、この評者の悪意は見え見えで、主人公の二人が鎌倉、箱根、日光と旅をすることをとらえて、観光案内小説だと決めつける。しかし彼のいうとおりなら、パリをはじめ西欧各地をめぐる小説は、大観光案内小説とでもいうのだろうか。
 評者はさらに「薄い紫地の付下(つけさ)げに、白い刺繍の帯を締め」「黒のハイネックのセーターに同色のカルソン」といった部分をとりあげて、まるでファッション小説だと断じる。
 しかしこれだけ書いてファッション小説なら、谷崎さんの「細雪」などは、さしずめ大豪華ファッション小説ということになりはしないか。いやいやそれより、源氏物語はどうなるのか。
 こうした文学とは無縁なことを羅列したあとに「さしずめ性愛紋切り型辞典を繰る趣であった」と大見えを切る。
 もし「失楽園」に書かれている性愛が本当に紋切り型なら、この評者はどれほど多彩な性愛をくり広げてきたというのか、そのあたりをお聞きしたいものである。
 以上の経過を見ればわかるように、ここには小説への批評らしい批評は一言もない。
 一つの小説を小説として批判するのは自由で、そのかぎりではどんな厳しい批判も受けとめるが、このように無知をベースにした悪態だけの批評はいただけない。
 書評をする以上は、まず小説が好きなことが第一条件だが、この評者の意見には、小説を愛する姿のかけらもない。
 これが天下の朝日新聞の書評だから、呆れてものもいえぬが、多分、この評者はこれを書いたとき、女性にでも振られてアタマにきていたのだろう。そう思い直して、一度お会いして、文学についてのお話を伺いたいと思ったが、逃げまわるだけでいまだにお会いできない。
 きくところによると、この評者の河谷史夫氏は朝日の編集委員という肩書だが、その前は社会部に長くいた人だとか。それが編集委員などになって、舞い上ったのか。それはともかく、この人はなにやらベストセラーというものに、怨念をもっているかのごとくに見える。
 まあ往々にして朝日などには、大衆に迎え入れられるものを軽視して、そのくせ大衆に甘える、エセインテリ風の人が多いけど、この評者などは、さしずめ、その最たるものかもしれない。
 ついでにいま一人、さる女性がある週刊誌で、「失楽園」を「ポルノ的に手垢のつきまくった言葉の乱用だ」とし、主人公の久木は文学的うんちくを傾けるいやな奴で、相手の凛子は山奥の温泉地にスーツで行くダサイ奴で、全編、官能小説のパロディにすぎない、というお達し。
 この人、中野翠さんというが、一度もお目にかかったことがないので、どういう人かまったくわからない。
 ただその人がそう感じたというのだから、そうですかとうなずくよりないが、ここにも、小説を真剣に読んだというより、初めから、この種のものに拒絶反応があったとしか思えない書き方である。
 もしかすると、この人たちは、余程、腹にすえかねることでもあったのか。それともこのところ、あまり楽しい目に遭っていなかったのか。
 いずれにせよ、男女の小説の場合は、わずかな批評にも、その人の知性はもとより、その人の体験してきた男女関係の豊かさから貧しさ、さらには個人的な嫉妬から怨念まで鮮やかに浮かびでるから、逆に面白いといえば面白いともいえる。

いかがでしょうか。俺はなかなか立派な「書評批判」になっていると思いました。特に「「失楽園」では常識の善悪をこえて、人間の奥に潜んでいる、性愛を含めた、圧倒的な命の輝きみたいなものを表現したかったのである」とか、「文学は道徳や倫理や正義を描くものではなく、人間の奥底に潜んでいる本然的なものをあぶり出すものである」などという言葉は、俺の心に響きました。ついでに「書評をする以上は、まず小説が好きなことが第一条件だが、この評者の意見には、小説を愛する姿のかけらもない」という言葉も。さらに言えば、「この評者」である河谷史夫氏は、小説どころか「世の中」や「人間」といった、新聞記者にとっては愛したり好きでなければつとまらないような諸々のことが、どうも夕刊のコラム「素粒子」を見ている限りでは、全然愛しても好きでもないように思えるのですが…。
渡辺淳一氏に関する俺の記憶は、失楽園ブームの際に出された写真集の中に掲載された一枚の写真です。それは、ゴルフではしゃいだり、京の舞妓などとじゃれあったりしているという、いかにも渡辺淳一氏的な画像ばかりの写真集に混じって、背中を向けて執筆をしている氏の、何というか、作家的主張と孤独が感じられる、俺や世間とは限りなく遠いところにいるとしか言いようがない寂しい写真でした。文学者・小説家の「業」が出ているという意味では、多分渡辺淳一氏にとっては他のどのような写真よりも恥ずかしい写真でしょうが…。
さて、その渡辺淳一氏の意見に対して、河谷史夫氏はどのようなリアクションをとったでしょうか。反論あるいは面談(「文学についてのお話」とか)というような、まっとうなものではなく、なんと河谷氏は、別の本の書評で渡辺氏の著作を再度揶揄する、という、滑稽ながら子供じみた、朝日新聞的にはそれを掲載しちゃったことでもう、この河谷史夫氏がいる限りは渡辺淳一氏の新聞連載小説は載ることはないだろうなぁ、と思えるような行為をしでかします。
これについてはまた明日。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030811#p1