事件(時事)に関する意見と、あと出しジャンケンについて

↓孤低のつぶやき・2004年2月2日
http://homepage2.nifty.com/yoshinojin/Mutter.files/Mutter.html


 ここのところ、恥を忍んで自分の古い原稿を引用しているが、なぜかといえば、けっして「話題にあわせて今になって都合よく意見を述べている」のではないという証明のため。
 ときおり作家や作品についてネット検索をかけ、いろんなサイトの書評や日記の意見を読んだとき、「後だしジャンケン」批判がやたらと目につくから。
 まえにも書いたが、もっともひどいのは巷のグルメサイトである。「評判だからその店に行ってみたけど、俺に言わせればそれほどでもなかった」という類い。本の評価や音楽芸能などについて、だれかが述べた意見を引っ張って、もっともらしく自慢げにケチをつけている文章は多い。
 こんな奴(みんな)の意見や評価などダメだ大したことない、おれのセンスこそがすごい、と後になって言うのは簡単なこと。つまりグーという意見にはパーをだし、パーをだしていればチョキをだせばいい。物の見方などいくつもあるから、いくらでも都合よく言える。つねに全戦全勝だ。本当に前からそう思っていたにせよ、しょせんは後だしにすぎない。ポケットのなかでずっとパーの形だった、と言われても……。
 まず、だれもなにも言ってないとき、そのことについてしっかりと述べてほしいのだ。自分のアンテナで探し現物にあたり、真っ先に正直に意見を言う。ときおり勝負に負ける(だれだって見込み違いをしたり、時代や世間の感性とあわなかったりする)かもしれない。だが、そうしたリスクを負ったうえでの初(処女)発言とのちの結果による意見の正しさの積み重ねこそ、長い目でみると信用につながるのだ。少なくともわたしはそう判断する。
で、そこから「ネット書評の問題」、さらには書評そのものの問題についての言及があったりするわけです。
ただ、現在や最近起こった事件などについては、新聞やTVその他マスコミの「第一報に近いもの」を見た段階で(それも、複数の新聞を読み比べたりすることもしないで)何かを言うことについては、書評とは違う「はやだしジャンケン」になっちゃう可能性もありそうで、「本を読む人」よりも「時事について何かを語る人」が、ネットの中では目立つ中では(特にblog系が主流になってからは、そのほうが他人のつながりが目につきやすいので、さらに目立つようになって来たように感じます)、速攻で何かを言わなければならない「プロのコメンテイター」じゃないんだから、可能な限り情報を入手することをして欲しいと思いました。
blog系で時事について何かを語っている人の一部が、俺にとってはどうも好きになれないのは、安易な(事件の把握についても、意見を述べるに当たっても、井戸端会議レベルの)ブロガーに対し、それに安易なコメントやトラックバックをつける側の存在にあるみたいです。最近起きた「小学生殺し」の事件で「物語」を各人の妄想レベルで作るのは悪いことではないですが、それははたして事件の真実に、どれだけ近いものなんでしょうか。
コードウェイナー・スミスの「人類補完機構」シリーズの各エピソードも、実は彼自身が実際に体験した事件を物語(ファンタジー)化したものだ、というのは、今となっては定説ですが、1970年代に日本で彼の小説がどんどん翻訳されていた時は、ハインラインの「未来史」シリーズをモダン(ポストモダン)化した、フィクション性の高いものだという解釈が主流だったような気がします。まぁ小説の世界においても評価はいろいろ変わるもので、『闇の左手』(ル・グィン)はフェミニズム小説、『デューン』(フランク・ハーバート)は宮廷陰謀小説、というように、時代の空気によって多面的に解釈できる話のほうが普通でしょうか。デューンのシリーズは、確か昔はエコロジー小説という解釈・分析だったような。『闇の左手』は、俺にとっては当時も今も、よく出来た冒険小説です。