朝日の「社説」と、チェーホフが言ったことの真実

朝日新聞・2004年7月25日づけの社説から。
↓■チェーホフ――変わらぬ世界とはいえ
http://www.asahi.com/paper/editorial20040727.html


 寝苦しい夜の夢にチェーホフが出てきた。鼻眼鏡をかけ、ニコニコしている。ちょうど100年前、この人は療養先の南ドイツで死んだはずだ。思わず、インタビューしていた。

 ――1世紀後の世界はどうですか。

 「最後の戯曲『桜の園』の初演からも100年さ。私はあの中で、万年大学生のトロフィーモフに『我々は少なくとも200年は遅れている。過去にけじめもつけぬままに哲学を並べ、憂鬱(ゆううつ)がるか、ウオツカを飲んでいる』と語らせた。そう、世の中とは100年や200年ではあまり変わらないらしい」

 ――モスクワにあるあなたの墓が、水浸しで土台から崩れそうだ、とイズベスチヤ紙が書いてましたよ。

 「簡単な排水工事をやればすむのに、役所がなかなか金を出さないそうだね。真理と人生の意味を探求する者はうとまれる。すべてがつかの間の必要に空費されることも、100年前のままだ」

 ――亡くなった時は、日露戦争の真っ最中でした。

 「健康さえ許せば、医師としてこの大戦争を見に行きたかったよ。世紀の幕開けとなったこの戦いでは、近代兵器がふんだんに使われ、大量の補給と大量の犠牲が当たり前になった。その後の戦争の形を決め、20世紀を文字通り革命と戦争の世紀にしたね」

 ――21世紀初頭は、イラクの戦争とその後始末で大騒ぎです。

 「人間は依然、もっとも獰猛(どうもう)で、もっとも汚らしい動物であることをやめない、と私の『中二階のある家』で主人公の画家は嘆いたもんだ。イラクでは、空からの爆撃で子供たちが死に、過激派は人質を取っては首を切る。人間の獰猛さは一向に変わらない。『人間は進歩していくから、やがて死刑はなくなる』『その時は、往来で相手かまわず切って捨てていいわけですね』というやりとりを、私は冗談のつもりで『イオーヌイチ』に書いた。現実になるとはねえ」

 ――生前は環境問題でも心を痛めておられました。

 「森はうめき、何十億もの木が滅んでいく。鳥や獣のすみかは荒らされ、美しい景観は失われる。田舎の議会を守旧派が牛耳って、医療の改革は進まない。私が作品で描き、実生活でも取り組んだ問題は、極東のどこかの国をはじめ、いまだ地球には絶えないようだな」

 ――そんな地球に生きる秘訣(ひけつ)を一つ。

 「『犬を連れた奥さん』を読んだかい? 浜辺に行きなさい。海は今もざわめき、私たちの消えた後もざわめき続ける。その変わらぬことに、永遠の救いがある。要は誠実に考え、感じ、働くことだ。結局のところ、この世のことは何もかも美しい。美しくないのは、生きることの気高い目的を忘れた時の、私たちの考えや行いだけなのだから」

 「久しぶりによく話して少し疲れた。君ももう寝なさい」といわれて、逆に目が覚めた。

あの〜、「我々は少なくとも200年は遅れている」というトロフィーモフのセリフは、当時のロシア人(=トロフィーモフにとっての「我々」)と、その祖国であるロシアに限定して述べたセリフで、それを「世の中とは100年や200年ではあまり変わらないらしい」と、普遍的な事象に関するセリフのように、社説の読者に思わせるのは無理があると思うんですが(これに関しては参考テキスト準備中)。
あと、チェーホフと日本のことについて話すのなら、彼のサハリン紀行(『サハリン島』)や、サハリンにある彼の記念館(チェーホフサハリン島」博物館)にも言及して欲しかったところです。
ていうか、毎日新聞のコラムにもチェーホフのことが書かれてるんですが。
↓夕閑コラム:チェーホフ=諏訪正人(毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/geinou/wadai/news/20040701dde012070011000c.html

 南ドイツ、バーデンワイラーの療養所。1904年7月2日午前1時ごろ、ロシアの作家、チェーホフはドイツ語で「イッヒ・シュテルベ(私は死ぬ)」と言い、シャンパングラスを持って妻に「長いことシャンパンを飲まなかったね」とほほえんだ。ゆっくり飲みほすと横になり、間もなく永遠の沈黙に入った。

 妻の女優オリガ・クニッペルの回想である。

 当時のロシアの新聞によると、シャンパンを飲んだあと、チェーホフは「水兵は? 水兵は退去したか」とうわ言を言い出した。

 日露戦争が始まって間もなく、3月の旅順港閉塞(へいそく)作戦で戦死した広瀬武夫中佐のことに違いないというのが「チェーホフのなかの日本」の著者、中本信幸氏の推測である。広瀬中佐はロシアに留学、戦死の報はロシアでも大きく報道された。

 チェーホフは1890年のサハリン旅行の際、日本に足を延ばす計画だったが、コレラが流行して断念した。日本行きが実現したら、と思うと残念だ。

 そのかわりと考えたのかどうか、チェーホフ黒海に臨むヤルタに別荘をつくり、日本の植物を発注して庭に植えた。アヤメ、カキ、ビワ、タケ、サクラ……ヤルタで書かれた戯曲「桜の園」は白い花の咲く日本のサクラをイメージしている。

 チェーホフは「作家でなかったら園芸家になりたい」と言うほど植物が好きだった。石ころとイバラだらけの荒れ地を開いて木々の生い茂る林にした。

 「200年か300年たつと、地上はすべて花園に変わるのです。300年もしたら、人生はどんなによくなるだろう!

 「もし人々がめいめい自分の小さな土地に、自分でできるだけのことをしたら、どんなに美しくなるでしょう!」

 チェーホフは明るい未来を信じつつ、44歳の生涯を閉じた。

 没後100年、地上は依然として石ころとイバラだらけだ。花園に変わるには、なお気の遠くなりそうな歳月が必要なのだろう。

 とりあえず、ベランダに鉢を並べて、草花の種子をまくことにしよう。

毎日新聞 2004年7月1日 東京夕刊

(太字は引用者=俺)
たとえ「地上は依然として石ころとイバラだらけ」だとしても「世の中とは100年や200年ではあまり変わらないらしい」という言葉よりは「200年か300年たつと、地上はすべて花園に変わるのです」のほうが、チェーホフらしいと思うし、毎日新聞のコラムを書かれたかたのほうが、朝日新聞の社説を書かれたかたよりもチェーホフを理解しているように思えました。まぁ問題は、毎日新聞の当該テキストの引用元が不明なことでしょうか。
しかしこの今回の朝日新聞の社説、文学的な割には恣意的な引用というワザは、「天声人語」の前担当者だった小池民男氏を思わせます。
小池民男氏の(俺的視点で)少し変なテキストについては、俺の日記の以下のところにありますのでご参考までに。

自分自身のメモのためにまとめてみましたが、けっこうあるもんです。