何かに対して批判するなら、自分がどういう立場の人間であるかを明確にしなくては

↓以下の日記の続きです
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041113#p1
以下、JANJANに掲載したテキストの転載です。
ただし、JANJANの記者の人とかとは関係のない、一般論としてお読みください。

 「市長に対する立候補時の対立候補の関係者が、関係者であることを隠して現職市長を批判する」という行為は、メディアリテラシー的にどうなのかな、という話をしようと思いましたが、メディアリテラシーどころか人間の倫理的にもそりゃダメでしょう、ということで。

 本の出版社や、テレビドラマの制作局が、自分の所の雑誌やニュース(というか情報提供番組)で「これ、面白いです」のような宣伝をするのは、読んだり見たりするほうも「ああ、宣伝だなぁ」と納得しながら見たりしますが、本を出した人間の関係者(その友人とか)が、「これは面白くてお勧めです」というのは、少し分かりにくいので「私はこの本の著者の関係者ですが」と一言言っておいてくれないと少し嫌です。

 しかし「少し嫌」という程度にとどまるのは、その「宣伝行為」の裏にあるものは、人間の善意以外にはあまり感じられないからです。

 これが、誰かなり何かなりを批判・否定する、どちらかというと「悪口」に属するような行為の場合は、たとえばある本をけなして「これはろくでもない本です」のようなマイナス評価をする人間が、かつてその著者に原稿を依頼して断られた、という怨念を持つ人だったりしたら、これはとてもまずいことです。人間の心理として、そういうことをやりたい気持ちは分からなくはありませんが、常識のある人間なら、編集者をやめて評論家になったとしても、昔嫌な思いをしたことがある著者の本は「無視する」程度にとどまるでしょう。これを積極的にやっちゃったのが、今は亡き安原顕さんという人で、俺はこの人については、編集センスとかいろいろ尊敬する部分は多いのですが、この点だけは評価できません。

 しかし、さらにいけないのは、自分の立場を隠して、何かを批判する、という行為で、たとえば自分が試験に落ちた大手マスコミを、落ちたことを隠して「○○新聞はダメ新聞」みたいな感じでいうことでしょうか。

 何かに対して批判するなら、自分がどういう立場の人間であるかを明確にしなくてはいけないでしょう。まぁ、実際にはそういうことは、語らなくてもある程度想像が及ぶ部分はありますが。

 たとえば石原慎太郎が「シナ人(氏はそう言います)」「三国人」に対して侮蔑と憎悪的な態度を示すのは、こりゃ戦後すぐの間にあったことのせいだろうな、とか、共産党が嫌いなのは、多分国会議員時代とかにその「情報収集力」で嫌なことがあったせいかな、とか。ある程度個人の過去が知られている「公人」の場合は、その履歴も含めて考えることができるわけで、俺のような政治素人でも「やってるやってる、また「シナ」だよ」とか思うわけです。

 しかし新聞の投稿などで見られたりすることですが、「一般市民」のふりをして、たとえば「団体職員」と言っていながら実は「朝鮮総連」の人だったり、「公務員(教師)」と言っていながら「日教組」の人だったりして、政府の北朝鮮政策に批判的な意見を述べたり、日の丸・君が代の「強制」に反対する人がいたりするわけです(具体的にどこの誰、という例を出せばいいんでしょうが、ちょっと「個人情報」コードに引っかかりそうなので省略)。

 俺は、特定の立場にある誰かが、その立場から何かを批判することは否定しません。日本国政府の人間(閣僚)と、朝鮮総連の人間とは、考えることが異なっているのは当たり前で、違う考えのどちらが悪い、とは言えないことでしょう(少数派・多数派の違いはあるとは思いますが)。ただし、自分の立場を隠して(一市民であるかのように装って)、「一市民である私は一市民の代表としてこのように政府を批判する」なんてことを言うべきではありません。

 具体的に、どこの誰とは言いませんが、たとえば市長選で争って敗れた側の関係者の人間が、現在の市長に対して批判的である(破れた「市長候補」側の立ち位置である)ことについては、当たり前だと思うし、その方向から現在の市長とその市政を批判するのもアリだと思います。しかし、批判そのものが基本的に持っている「否定」のエネルギーはとても強いもので、誰かが一生懸命にモノを作ったり(小説を書いたり、記事を書いたり)しても、「またクソ作家(記者)がロクでもないものを書きやがって」という、根拠も何もない感想で台無しになってしまう場合もありますから、取り扱いには注意が必要でしょう。

 そのような人間が実際にいるのか、あるいはどの程度いるかも不明だったり、曖昧だったりするんですが、どうしても何かを批判・否定したかったりする場合は、その根拠(自分の立場)をもう少しはっきりさせておいておけば、どんなすごい主張でも「そういう立場だったら、少しは納得できるな」と思うこともあるでしょう。私怨による否定(ネガティヴ・エネルギー)は、もっと有効なことに使えばいいのにな、と、俺は「日刊ゲンダイ」の見出しを見るたびに思ってしまうのでした。日刊ゲンダイの人が小泉政権を含む自民党政権に否定的・批判的なのに「私怨」が含まれているかどうかは知りませんが(単にセールスのためのポーズだけなのかも知れないですね)、必要なのは「自民党政権と戦えるだけの野党」を作り上げるために、野党に対して自民党以上に批判的でなければならない(「そんな主張では自民党に勝てない」みたいな感じの)のでは、と思ったりします。

 一応、俺自身が主に批判している何かは「言ってもいない(やってもいない)ことを言った(やった)と言っている人」で、俺は「言ってもいない(やってもいない)ことを言った(やった)と言われて、ひどい目、というか嫌な目に会ったことがある人間」だからです。もう少し具体的な例を出せばいいんでしょうが、それについては事情があるのと、自分語りをしないことにしているので、これ以上は話せないですが。