朝日新聞のこんな社説から「ことの本質」を考えてみる

↓2005年1月22日の朝日の社説では、朝日新聞対NHKの問題について、このようなことが言われていたみたいですが
NHK問題――ことの本質を見失うな

 ことの本質を見失ってはならない。問われているのは、NHKと政治家の距離の問題である。その不自然さは今回、NHKや政治家の言い分によっても明らかになってきた。

朝日新聞にとっては残念なことに、今回のこの事件に関しては、朝日新聞が言うところの「ことの本質」よりも「報道の姿勢」を問われるような不手際が目立っているため、そちらのほうが重要な問題(「本質」さよりも「重要」さのほうが問題)になっている、という状況があるのでは、と思いました。
わかりやすくすると、朝日新聞を警察に、NHKおよびその関係者を、犯罪者(犯罪容疑者)とすると、「捜査や調書の取りかたが、検察側に『これでは事件として裁判に持ち込めない』と言われて突き返される」レベルのものだ、ということでしょうか。警察が何のために苦労して、殺人事件その他では証拠物件を集めるかというと、容疑者の自白だけでは有罪にするのは無理なので、それに対して「優秀な、信頼できる刑事(記者)が作った書類(調書)だ」と言っても世間(検察?)は納得しないでしょう。
日本の法制度の下では、ひょっとしたら多くの人間にとって残念なことかも知れないですが、ちゃんとした手続きを取らないで「疑惑」だけで容疑者を断罪の方向に持っていくことはできません。また、新聞社に「ダーティ・ハリー」や「ドーベルマン刑事」気取りの記者は不要です。憶測や思い込みだけで何かを書くのではなく、ちゃんとした証拠物件や、事実の裏付けがある記事を書くことを、俺は望みたいところです。
今後の展開に、あと半年ぐらいは注目してみたいと思います。