少し俺の認識している「しがない記者日記」事件の展開とは違うものがあるようです

lovelovedog2005-02-08

↓「しがない記者日記」の人とお友達の元・記者の人によるご意見
身辺雑記/最新版(2005年2月6日)

2月6日(日曜日) 記者ブログへの暴力的攻撃

 友人の新聞記者が個人的に開設しているサイトのブログが、いわゆる「ネット右翼」に荒らされて開店休業に追い込まれた。ブログでNHKの番組改変問題を批判的に取り上げたところ、某巨大掲示板で一方的な非難が始まり、続いてブログに書き込みが集中した。それだけでなく、ネット検索やリンク先や記事内容からあっという間に本人が特定され、勤務先や本名などの個人情報が掲示板やほかのいくつものサイトで暴露された。さらには、職場に嫌がらせの電話までかかってくる事態にまで発展したという。

(太字は引用者=俺)
ネット右翼」という存在にはあまりなじみがないんですが。今回祭りになっちゃったのは、あんまり右・左とかは関係なく、「お祭り好きのネット市民」がメインだったような印象があります。また「嫌がらせの電話」というのもすごい言いようで、「抗議の電話」と、中立・公正な記述を求めたいところ。「ネット右翼による嫌がらせの電話」というのは、朝日新聞のしがない記者の人による伝聞のイメージ操作(創作)部分が入りすぎているのでは、と思います。
で、問題にされたのは「NHKの番組改変問題を批判的に取り上げた」からではなく、「朝日新聞の記者であることを隠して朝日新聞の記事疑惑問題を擁護的に語った」ためなんですが、なんかここにも「情報の歪曲」が入っている様子。まぁ、事実に対する解釈は様々なので、どれが一般的に正しいか、などということは言いにくいんですが、この記者(元記者)の人は、関係者の一方の言い分しか聞かないで記事を書いている、みたいな感がどうもしてしまいました。
引用を続けます。

 それに、何でもノーチェックで載せてしまうブログ形式は、サイトの管理運営者として無責任かなとも思うのだ。これはきのう付の「身辺雑記」で書いた「インターネット新聞の市民記者」の問題とも関係すると思うのだが、せめて投稿をチェックした上で掲載する方式なら、言葉の「暴走」は食い止められるかもしれない。一つ一つチェックする時間の余裕があればの話だが。もちろんこれはほかの人の言論を排除するのではない。今の時代では、自分の主張はそれぞれ自分のサイトで自由に発信できるわけだから。

 右翼とか左翼という形で単純に分けるのもどうかと思うが、少なくとも「ネット右翼」はインターネットを、街宣活動の場として最大限に活用しているのは間違いない。そして最も怖いのは、事実に反するウソやデタラメや非論理的なことでも、何百回、何千回と繰り返して流されることによって、いつの間にかウソが本当のこととして受け入れられていってしまうことだ。そういう意味では「あんなバカは相手にしない」などと切り捨てたりせず、一つ一つに対してきちんと発言していかないと、大変なことになるかもしれない。そんなことに時間は使いたくないのだが、なかなか悩ましい。

(太字は引用者=俺)
インターネットは「ネット右翼の街宣活動」の場ですか、すごいなぁ(棒読み)。記者のブログが攻撃された(というか、餌食になった)のは、繰り返しになりそうですが、ブロガーとしての姿勢が左寄りだったからではなく、ブロガーとして不誠実だったからでしょう。
引用を続けます。

 【追記】ちなみに今回のブログ攻撃は、先月末からきょうまで続いていたという。このところ忙しかったこともあって、当該ブログも某巨大掲示板群も全く見ていなかったため、きょうになって初めて事態を知った次第だ。ごめんね。力になれなくて。

友人だから味方とか力になってやる・やりたい、という視点ではないものも期待したいのですが。具体的にはまず、友人・知人以外の情報を積極的に入手するところからはじめてみては。たとえば、「しがない記者」の書き込みテキストと、それに対するやりとりは、以下のところからリンクをたどれば、まだキャッシュで生データが拾えます。
「しがない記者日記」騒動(ちゆ12歳)
幻影随想: 「しがない記者日記」騒動まとめ
「事の発端」「挑発」「批判者を煽るようなレス」「論破(される)」「懲りない」「うだうだと言い逃れ」「悔し紛れ」「言論統制」などなど、しがない記者の人が自ら望んで祭りになったとしか思えないような展開なわけで、俺がこの記者の友達だったら「もう少し謙虚に人の書き込みを読み、反省すべきところは反省し、勉強不足のところは勉強しなおしてみたらどうか。それから、あおりに対して挑発する行為なんて火に油だよ」みたいなアドバイスをするところです。
右翼か左翼かはともかく、ネットブロガーである一般人の感想だけでは不満のようでしたら、比較的穏やかな、やはり「記者」としてブログをやっている人の意見も紹介しておきます。この人たちのテキストを読めばお分かりの通り、「ネット右翼のブログ攻撃により、リベラルなブログが言論弾圧の目に会った」という見方ではなく、「少しブログで何かを言うことに不慣れな人(しがない記者)が、何かを言ったことに対するフォローがうまくできなくて自滅した」という、あんまり右・左関係ない見方も可能なんじゃないかな、と。
ネットは新聞を殺すのかblog:またしても記者ブログが1つ撃沈
ガ島通信:「しがない記者日記」で起きたこと

根性っていう言葉は嫌いですが、「いや〜 根性ないッス」。「平和主義」で「朝日支持派」(違うのかもしらんが…)でもいいじゃないですか、ブログは自分の思うことを書く場所です。バッシングになぜそんなに過敏に反応するのでしょう? きちんと議論できず、打たれ弱い、批判されれば皮肉を吐き捨てて逃亡。そして騒動は自分の責任ではなく、あくまでマナーのなっていないネチズンが悪いという「総括」(苦)。確かにコメントにはいろんなものがあります。応援もあれば批判もある、そのすべてに答えることは物理的に不可能な場合もあります(それが嫌ならコメント欄を閉じてTBだけにするという運営方法もある)。ブログは双方向です。間違いを指摘されたり、新しい考え方を示されて自分の考え方もどんどん変化していく。それが面白い(かなりのストレスも伴いますが)のです。既存メディアという護送船団の中に守られた記者は、このストレスに耐えられないのかもしれません。

編集サヴマトンカラー:blogリコール

今回そのblogが消える最大の原因となったのは筆者の記事に対するコメントへの対応だ。なぜ煽るような文章でしか答えられないのか。今回の一部始終を見てみると、記者という人たちの特徴が見えてくる。もっとも記者という職業がそうさせたのか、それとも元々本人がそういう性格だったのかはわからないが。

blogが流行るようになって、マスコミ関係者が仕事以外でblogを用いて情報発信をするのをよく目にするようになった。とても気軽にできる分、自分の発言がネットを通じて多くの人に読まれていることを感じにくい。自分も、時々忘れてしまう。全ての発言に責任を持つことは難しいが、できる限りその内容には注意すべきだ。ましてや、それが文章を仕事に飯を食っている記者ならなおさらだ。

さらにこんなのも。
記者ブログはなぜ潰されやすいのか

左翼の記者ブログが祭りの対象にされやすいのは、「記者」と「左翼」の傲慢さを兼ね備えているからじゃないでしょうか。すると傲慢さがアンプリファイされて、スピーカーから大音量の傲慢音楽が流れてくる。それに耐えかねた多くの人が「うるさあ〜〜〜い」の声を上げて、潰してしまう。

ということで、あちこちのブログを、コメントやトラックバックを参考に、できるだけ読んでみてください、大岡みなみさん。ブログって、自分が何かを言いたい人にとってではなく、何かを言っている人の意見を読んだり、それによって何かを考えたりするには、なかなか面白いツールなんじゃないかと思います。
最後に「潰されない記者ブログ」もある、ということで、記者ブロガーのアドバイスを。
潰されない記者ブログ

 共同通信編集委員のブログに始まり、「素晴らしき世界」、そして今回の「しがない記者日記」と次々と閉鎖に追い込まれる記者ブログ(共同通信の小池編集長は長い時間を置いて復活したようだが)。彼らの何が問題だったかは、いろいろなブログが既に指摘している。特に付け加えることは何もない。
 そこで反対に、祭りに遭いながらも閉鎖に追い込まれない記者ブログはどこが違うのか、ということを考えてみたい。

↓これは以下の日記に続きます
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20050209#p1
記述に若干の誤りがあったので、それの訂正テキスト含みになってます。