ローマ法王(教皇)と日本とヒロシマ
↓こんなところから
→ヨハネ・パウロ二世葬儀、政治の判断
1.天皇の参列はあり得ません。天皇は葬儀に出ません。皇族方の葬儀に対してもそうです。高円宮葬儀にも天皇は参列しておりません。
2.昭和天皇の御大葬の際、ヴァチカンから参列したのは(閣僚でない)枢機卿でした。(手持ちのVTRに名前が記録されていれば、追って記します)。相互主義の原則でいうなら、前外務大臣・首相補佐官は、地位として決して儀礼に反しておりません。
ということで、カトリックの人の人口が多いわけでも、国教であるわけでもない日本では、首相もしくはそれに準じる人がヨハネ・パウロ二世の葬儀に行く必要はないみたいです。
→「若隠居の徒然日記」←の、→「ローマ教皇の葬儀に日本の総理大臣は出席すべきなのか」←というエントリーにトラックバック送っとこう。え、→「欧米では考えられないことです」←か、そうですか。
さらに、ローマ法王(教皇)が日本に来たときの記録を探してみる。
↓以下のところにありました。フィリピン、グアムのついでだったのか。
→教皇ヨハネ・パウロ二世、来日の記録
日本滞在は1981年2月23日〜26日。しかしそのあと、韓国に行かないでアンカレッジに行ってますね。多分帰ったんだと思う。韓国に行ったのは1984年と1989年。
↓その時の話など。
→「試練の韓国史、ポーランドに似ている」 法王の韓国愛(東亜日報・2005年4月4日)
法王は訪問前に、ローマに滞在していた張益(チャン・イク、当時司教)春川(チュンチョン)教区長から週に3回、韓国語を習った。また、韓佑?(ハン・ウグン)元ソウル大学教授が書いた『韓国通史』の英訳を読んで、「過酷な試練にも民族のアイデンティティーを守り続けてきた韓国の歴史は母国ポーランドに似ている」と話したという。
法王は最初の韓国訪問の時、約40万人が集まった釜山(プサン)での講話では、労働者に適切な賃金を払うことを求めるなど、当時の政情からするとかなり敏感な発言をしていた。さらに、訪問の最後の日程としてソウルのチャンチュン体育館であった若者との語り合いでは、「軍事政権の圧制を知らせる」と言って、数人の若い人が持ち込んだ「催涙弾箱」を快く受け取っていたことが最近わかった
ローマ法王はいい人(過激にいい人)みたいです。
で、話は戻って、来日の記録から。
↓教皇ヨハネ・パウロ二世 日本到着のあいさつ
ついに日本に来ることができて、とてもうれしく思います。神の栄光が、その自然を通じて示されるこの美しい国に来て、心は喜びでいっぱいです。そして、長い世紀にわたってすばらしい文化を生み出した日本のかたがたに、今お会いできますのは大きな喜びです。
わたしは、この気高い国の人々が幸福で平和であるよう願ってやみません。まず天皇陛下とそのご家族に心からごあいさつ申しあげます。また、わたしの日本訪問を容易にしてくださった政府のかたがたのご好意に深く感謝いたします。
到着した翌日(1981年2月24日)には、天皇(昭和天皇)ともお会いになっているようです。
で、広島では有名な「平和アピール」。
↓教皇ヨハネ・パウロ二世 広島で平和アピール
あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考えるとき、私は頭をたれざるをえません。また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生き延び、ついに破滅へと向った人々のことを思うときにも、同様の気持ちに打たれるのであります。この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。人間の考えやものの見方、ないし人間の文明に対して、核戦争がもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考えるとき、特にそうした想いに駆られるのであります。
まだ「冷戦の時代」ということを感じさせる部分も多いですが、つくづく名文だと思います。ぜひ全文を読んでみてください。まぁ、ある種冷戦時代のパフォーマンス、という気がしなくもありませんが。
ただ、記念碑のほうには全文がきざまれているわけでもなさそうなので、残念。
→2ax45ローマ法王平和アピール碑
で、広島の平和記念資料館から、
→広島平和記念資料館WEB SITE
↓以下のところへ
→大下靖子さんの夏服
県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子(おおしたのぶこ)さん(当時13歳(さい))は、土橋地区の建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に動員され、被爆しました。
同級生と2人で己斐(こい)に避難(ひなん)して夕暮(ゆうぐれ)まで民家にいたのち、己斐国民学校に収容(しゅうよう)されていたのを発見(はっけん)され大竹から入市した救援隊(きゅうえんたい)によって大竹の両親のもとに運ばれました。その時はまだ息があり、その日の様子を両親に語り、水を欲(ほ)しがりましたが、当日深夜12時前に死亡(しぼう)しました。
何かなぁ、こう、言葉じゃなくて涙が止まらないよ。四月の新学期、朝に新しい制服を着た中学生の少女を見ることも多い季節なのですが、いきなり泣いてしまいそうだ。
↓▼大下靖子さんの日記を読む
4月6日 金曜日 天候晴
今日は楽しい私(わたし)たちの入学式があって校長先生を始め諸(しょ)先生方の注意を受けました。私はいろいろな注意を頭にしっかり入れて広島県立広島第一高等女学校の生徒として恥(は)ずかしくない態度を取って、今日からだれにも負けないよう学業に励(はげ)もうと決心しました。
→▼県立広島第一高等女学校とは(アニメ)
→▼1年6組の42人のその後(アニメ)
その他いろいろ。
俺個人の感想としては、これ、何かを憎むというよりはつくづく「戦争とは嫌なものだ」という気持ちになります。多分、アウシュビッツを訪れた人は、ヒロシマの資料館を訪れた人と同じような気持ちになりそうな気がします。
南京の「虐殺資料館」とかを訪れた中国の人たちは、どうかなぁ。
今日のテキストは、真面目に、かつ長くなりました。
画像は、その「大下靖子さんの夏服」です。制服に萌えるのもいいが、平和についても考えてくれるとありがたいです。