かつて存在したもっとも非強迫的な社会、「1970年代のエチオピア」というすごい世界
『博士の奇妙な思春期』(斎藤環・日本評論社)(→amazon)に、「ひきこもり」という社会現象に関連して、「強迫」という言葉が出てくるわけですが、「はてな」のキーワードによると、「強迫(強迫観念)」とは
考えたくもない/考えても下らないはずなのに、どうしても考えてしまう事柄。
なわけで(もう少しいい定義がありそうな気もするが)、そうすると強迫というか社会的抑圧とかのない、「何も考えなくてもいい社会」、つまり「非強迫的な社会(国家)」というものも想像できるわけです。
想像ではなく、現実に存在した社会では、それはどこか、ということです。
以下引用、p208-210(太字は引用者=俺)
その一方で、中井氏(引用者注:中井久夫氏)が「もっとも非強迫的な社会」の例として挙げているのが、1970年代のエチオピアである(『分裂病と人類』東京大学出版会、1982)。氏がここで参考資料として取り上げた松枝張『エチオピア絵日記』(岩波新書、1976)の記載も含めて、その「非強迫」ぶりを概観してみよう。ちなみに、松枝氏も医師である。
・宮廷の女官たちは、テーブルと平行、あるいは直角に食器を並べることができない。
・戸籍もなく結婚届もない。それゆえ殺人も、現行犯以外は「犯人の実在性」が問題となるほど。
・離婚率は高く、離婚をめぐる争いもない(大した資産をもたないため)。ちなみに離婚の原因で最も多いのは、夫のアル中である。
・失業率は約90%で、首都アジスアベバには物乞いの群れがあふれる。そこでとられた対策とは、物乞いをトラックに詰め込んで森に捨てること。
・ゴルフ場はあるが、羊の群れがうろうろしている。羊がゴルフ場の芝を食べると、芝としてちょうどいい長さになるとか。
・名刺にいかなる称号を刷り込んでもかまわない。
・猿に噛まれた怪我が、縫合しただけで完治。これはエチオピア人の抗体の多さのためと推定される。子どもでスウェーデン人の10倍から20倍もの免疫グロブリン数値は、裸足で生活していることに理由がある。足の裏から菌が入り込み、免疫力を高めているのだ。
・肉体的障害がないにもかかわらず、指を曲げられない人がいる。一般にエチオピア人は手先が不器用で、これは幼少期に指を動かす訓練をしないことと関連があるらしい。著者がエチオピア人の前で「あやとり」をしてみせると、非常に驚かれたとか。
・長年の宿痾を治したら、ひどく感謝されたうえに、二度ほど食事に誘われた。しかしいずれも直前になってキャンセル。これが典型的なエチオピア人の謝意の表明であるとか。
・処女も娼婦もかわらぬ女性のういういしさ。
物語だともっとすごい世界もありそうですが(スウィフトやボルヘスの小説世界とか)、実在してなおかつ国家としての機能を果たしていたというのには驚きです。さすがに1980年代には、政治形態が「エチオピア人民民主共和国」という共和政体を取って、少しは普通の国になったようですが。しかしエチオピアのとなりのソマリアは、1990年代以降政府というものが存在しなかった(2004-5年に暫定政府がケニアにできた様子)もっとすごい国、というか地域です。
松枝張『エチオピア絵日記』(岩波新書、1976)も、今度読んでみます。