サンタクロースを信じることと「サンタクロース祭り」をすることとは明白に違うわけですが

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20050731#p1
 
しばらく忘れていましたが、「百匹の猿祭り」について、関係者からこのようなことが掲示板に書き込まれていた様子。
Re:Re:Re:「百匹目の猿まつり」なのですが串間市掲示板 - 串間市ホームページ)

Re:Re:Re:「百匹目の猿まつり」なのですが 山猫
投稿日時:2005年8月8日 10:43:48
百番目の申氏に教えてもらい、やりとりを拝見しました。「百匹目の猿まつり」実行委員会のメンバーの「山猫」です。
azemichiさんのおっしゃるように、まずは事実を確認したいと思います。
(1) 1953年頃、串間市幸島で、ニホンザルによるイモ洗い行動が発生し、それが群れに広がった。
(2) 数年後、大分県高崎山の猿の間にもイモ洗い行動が観測された。
(3) ライアル・ワトソン氏がこの2つのイモ洗い行動に関連性を見出し、著書「生命潮流」にて「100匹目のサル現象」として説明した。
(4) その後、ケン・キース・ジュニア氏の「百番目のサル」、船井幸雄氏の「百匹目の猿」などにより、「百匹目の猿現象」の認知度が高まっていった。
(5) 河合雅雄氏は、2つのイモ洗い行動に何の科学的関連性も認められないとコメントしているらしい。(ネットの情報)
まず、「生命潮流」を読めばわかることですが、ワトソン氏は特に騒ぎ立てるほどのような嘘はついていません。「100匹目のサル現象」の説明に際しては、「伝承の断片から推すしかない」として「詳細を即興で創作する」とあらかじめ断っています。(ただ、表現に「研究者は物笑いになるのを恐れて事実の発表を控えている」などのハッタリが見られ、筆がすべったかなという印象は受けます。)
また、河合雅雄氏の論文を参考文献として挙げているのは(1)の記述に対してであり、そこには何の脚色もありませんので、それを嘘だとする「噂」も的はずれです。
もちろん、幸島高崎山の猿たちの2つのイモ洗い行動について、単なる偶然と考えるか、ワトソン氏のように何らかの相関性があるとみるか、あるいは泳いで渡った猿により伝わったと考えるか、いろいろだと思います。そして、「百匹目の猿現象」は事実からインスパイアされた仮説ないしは思想であり、正しいことも間違っていることも因果律では証明できません。ですから、それを嘘とか都市伝説とすること自体、無理があります。(たとえば、ユングシンクロニシティを嘘とか都市伝説という人はいませんよね。科学的か非科学的かという論点なら別ですが。)
azemichiさんのおっしゃる根拠ある資料というのが何を指すのかわかりませんが、愛・蔵太氏が引用しているようなウェブページのことなら、あまり鵜呑みにしないでください。
一般に、個人の発信する情報に対しては、過信せず慎重に扱うべきだと思います。インターネットも、ブログやウィキの普及によって情報の発信・共有がしやすくなった一方で、主観的な情報の氾濫が時折見られますから。
なお、昨年、実行委員会でも、ネット上にこうした「百匹目の猿現象」を否定するようなページがあることが議題として取り上げられました。しかし、「百匹目の猿現象」を「希望の根拠」として様々な分野で頑張っている人への応援歌として、その物語が始まった串間から発信することに意義があるとして意見がまとまり、ちょうど1年前の今日、幸運発信イベントとして実行した次第です。
最後に、私は理論武装をしようという気も、論争をしようという気も毛頭ありません。今回は、読んでいる方々に誤解があるといけないと思い、あえて長々と書き込みをさせていただいたことをお断りしておきます。

百匹目の猿」現象については、俺は「サンタクロースの存在」と同じようなものだと思っています。要するに「嘘」あるいは「都市伝説」。科学・非科学以前の問題なので、シンクロニシティを比較対象にするのは無理があるのでは。
まぁ、大のオトナが「サンタクロースはいる・いない」論争に参加するのは基本的にバカバカしいことではありますが、それと同時に、幼稚園児とか無邪気な子供に「サンタクロースは本当はいません」というのも同じぐらいバカバカしいことです。
だから、たとえば「サンタクロース発祥の地」とされるところで「サンタクロースの像」を建てたり、「サンタクロース祭り」を計画したりするのも、それが「童心」に基づいてのことなら別にどうということはないのです。
しかし、「サンタクロースはいる」という「信念」に基づいて、そのような行為をおこなっている人間がいるとしたら話は別です。
クリスマスの夜、ベッドのわきに靴下をぶら下げておく成人男性というのもまぁ、人によっては愛嬌があるでしょうが、その人の親はどういう感情を持つものか興味を持ちました。
ニューサイエンスというのは「サイエンスという名前を借りた『新しい迷信(あるいは都市伝説、あるいは嘘)』」だという認識をちゃんと持たないといけないのでは。フィクション(物語)を構成するには意味はあるとは思うんですが、世界認識・世界解釈としてはその手法は否定的・批判的に取り扱うべきでしょう。というか、肯定的に取り扱っていると「あっちの世界の人」になっちゃうわけで。
 
(追記)
あちらの掲示板は荒らさないでください。と書くと「荒らせ」指令と勘違いするかもしれませんが、本当に荒らさないでください。俺の日記の「コメント」欄への、この件にかんするご意見は歓迎します(俺と意見が異なる人でも)。