『ケンブリッジの贈り物』と、なぜ最近の若者は本の登場人物に「共感」を求めるか、について

lovelovedog2005-09-11


ケンブリッジの贈り物』(川上あかね、新潮社)(→bk1)(→amazon)(→書籍データ

オックスフォードでフランス文学を履修して博士になり、ケンブリッジ大学で教えることになった女性の人の、大学体験談というか実録ネタ。もう伝統がありすぎるくらいある大学なので、夕食の際には無料の食堂を利用できるんだけど、場所はハイテーブルでガウン着用、とか(映画の「ハリー・ポッター」見ると、そのスタイルまんまです)、日曜日のミサはサープリスという変な服じゃないとダメとか、ケンブリッジそのものが女性カレッジを除くと女性教員(フェロー)を認めたのが1970年、キングズ・カレッジが最初だったとか、いったいいつの時代だよ、と思うようなエピソードが楽しいです。ちなみに著者が1995年から5年間勤務した「モードリン・カレッジ」は1988年にようやく共学になったという驚愕ぶり。そんな環境で、日本人の、毎年ワーク・パーミット(就職許可証)を取らないといけないフランス文学講師を雇用する、という、というのは、するほうもすごいですが、著者そのものの学業成績もすごかったのでは、と想像します(フランス文学がどの程度メジャーな学問かは不明ですが)。エピソード的には、そういった環境での生活もいい感じですが、そんな大学に進学を目指す現代の若者気質で、まぁ著者も年輩というほどの年ではないとはいえ(1970年生まれなので、まだ三十代)、読書というものに関するズレ、というか考えかたの違い、に関するエピソードが面白かったです。こんな感じ。p145-147

シェイクスピア氏が病床にあるのは大学ではなく高校教育においてである。一年ほど前のこと、労働党シンクタンクが突然、「シェイクスピアの戯曲のうちからたった一つが必修である英文学の『Aレベル』より、今日的意味がある『メディア論』や『フィルム・スタディーズ』の『Aレベル』のほうが現代の高校生にはふさわしい」と宣言した。二言目には「モダン」を連発するブレア政権らしい発言だったが、このときばかりは新聞記者たちも左右を問わず政府の「歴史的センスのなさ」をとがめたてた。
しかし高校生とシェイクスピアの関係を、よりよく把握しているのはブレア首相の側近のほうかもしれない。英文学を「Aレベル」の一つとして選んだ高校生の大半は、シェイクスピアの戯曲一つを除けば、二〇世紀の作品しか読んでいない。一九九〇年代に制度化されたナショナル・カリキュラムのルールによると、英文学の「Aレベル」はシェイクスピアに加えて高校の教師が選んだ文学書五冊、と決まっている。昔はこの五冊がミルトン、ディケンズグレアム・グリーンなどの作品だったが、いまの高校生の場合、これが大衆作家のペネロピ・ライヴリーやルース・レンデルに変身していることが多い。結果的に高校と大学間の隔たりはぐんぐん広がるばかりだ。
このギャップは入試面接の時点で明白になる。何度も書いているように、面接は高校生たちの知識ではなく実力をはかるのが目的だが、少しは対話の「種」が必要だ。だから彼らが「Aレベル」の試験用に読んでいる本を使ってディスカッションを進めるのだが、これが二〇世紀末の大衆小説ばかりとなるといろいろな意味で話が限られてしまう。むろん大衆小説をめぐっての文学論もおおいに可能だが、現代の産物しか読んでいない十七歳というのは、歴史的な視野をほとんど持たず、また「時」の隔たりを感じさせる書物ととりくんだことがないぶん想像力が乏しい。
ミルトンとまではいかずとも、一九世紀のジェイン・オースティンの主人公たちの感じ方や生き方の他者性とぶつかり、理解するために四苦八苦する……結果的には理解できなかったとしても、その他者性を経験するとしないとでは、文学を学ぶにあたって相当違ってくるのだ。自分と同時代の小説ばかり読んでいると、読書とは主人公に共鳴、共感することだ、と思いこんでしまう恐れがある。ジェイン・エアを読んでいたく感動しました。まるでジェインになったような気分で一気に読みました」と言っているぶんにはまだいいが、二〇世紀の一人称小説に限っても、このような「感情移入」の読書法が通用しない本がいくらでもある。
モードリンのMML学部の面接で、『異邦人』を読みました、ムルソーになりきってしまったようでした、と情熱的に語る高校生に、「本当? だって、お母さんが亡くなったその次の日、海岸に行って女の子と出会って遊ぶ人よ。そんなムルソーと同一人物になってしまった気がしたの?」といささか乱暴な質問をしてしまったことがある。生徒はどぎまぎして「ハイ、本当にムルソーになりきってしまって」とくり返すばかり。これではカミュもがっくりである。理解する、ということは自分の経験範囲に当てはめてとらえること、と信じきっているのだ。自分になんらかの関連性がないと何を読んでも理解に苦しむタイプが、この頃の高校生にこれほど多いのはなぜだろう。自己中心的な世代だというよりも、学校での文学教育の結果のように私には思える。

ジェイン・エア』はともかく、カミュの『異邦人』という不条理というかアンチ・ヒーローな物語まで、「主人公に対する共感・理解」という解釈ではマズいだろ、みたいな。
確かに最近は、小説というか「物語」を読む側(=読者)に「感動する・させる」ものを求める傾向が強いようで、供給する側(=作者)もそれを意識せざるを得ないのが、かなり気になります。それは言いかえると「泣けるか・泣かせられるか」ということでもありますが、主人公を含む登場人物に読者が感情移入することができるか、という作り込みが、ハリウッド的映画に顕著な「ビジネスモデル」的な形で単一化されてしまうと、それは逆に怠惰な読者以外を飽きさせることにもなるわけです。
非ハリウッド的な映画は、見る人を退屈させるか、「この手があったか」と驚かされるか、あるいはその両方だったりするんですが、読者に共感できない主人公が出てくる物語にも、もう少し需要があるといいんですけどねぇ。
話をライトノベルの「セカイ系」に持っていこうかと思ったけれど、そこまで体力が続かないので、これまで。