教科書には出てこない「征韓論の原因」とは何か
学校の日本史の教科書には「征韓論」、要するに韓国(朝鮮半島)を攻めなければならない、という意見が、できたての明治政府から出てきた、ということはたいてい書かれていて、日本の学生・生徒の多くは教科書で習うわけですが、そもそもなぜそのような乱暴な話が出て来たのか、ということはなぜか普通は学校では教えていないようです。
→韓国政府が日本政府に伝達した韓国関連の記述に対する修正要求内容
扶桑社の教科書に関する要求はこんな感じ。
(教科書内容(原文引用))
〇1873年、開国の求めを拒否した朝鮮の態度が無礼であるとし・・・征韓論が台頭した
〇(西卿は)自分が朝鮮に行き、殺されればそれを名目に日本が出兵
(修正要求意見)
〇 朝鮮の条約締結の拒否理由を説明せず、日本の立場から偏って記述
−日本が既存の関係を一方的に破棄しようとしたためであることを説明していない
〇朝鮮が西卿を殺害する可能性があったかのように仮定
「西卿」というのは「西郷隆盛」のことです。
他の教科書に関する韓国政府の要求はこんな感じ。
(教科書内容(原文引用))
〇日本政府は、朝鮮に国交の開始を求めたが、朝鮮が応ぜず、国内で征韓論が持ち上がった
〇中国の属国として位置づけられていた朝鮮は・・・日本との国交も断った
(修正要求意見)
〇朝鮮側の拒否は既存の善隣外交関係を無視したまま、国交回復を強要した日本側の態度から端を発したことにつき説明せず、征韓論発生の原因を朝鮮側に転嫁している
〇当時の朝貢関係につき説明せず、朝鮮を中国の属国と表現している
で、日本の国交開始要求に応じなかった理由なんですが、これは日本の「国書」が、朝鮮的に(朝鮮の人の感覚として)「無礼」だったこと、さらにその国書に対して朝鮮側が、日本的に(日本の人の感覚として)「無礼」な対応をしたこと、は、ちょっとネットで検索すると出てきます。
→征韓論について
我が国の学会に於いては、明治維新と朝鮮との交渉決裂の理由は、新政府の送付した文書が幕府時代の形式と異なっていたことから、朝鮮側が受理を拒否したことは広く認められており、また、拒否した理由は既に記述されているところである。
その国書を朝鮮側が受け取るのを拒否した。正確にいえば、朝鮮側も対日本関係は京城(ソウル)の中央政府が直接取り扱っているのではなく、いわゆる「倭館」の置かれている釜山の属する東莱府の管轄だったのだが、この東莱府の対日交渉担当官(訓導)が、受け取りを拒否した。
文書の内容は、「我皇上登極し、綱紀を更張し、万機を親裁す、大いに隣好を修めんと欲す」といった調子で、日本における政権交代の通知と、友好関係を引き続き維持したいという希望を述べた、いわば儀礼的な挨拶であって、何の変哲もないものである。すくなくとも日本側はそのつもりだった。
ところが朝鮮側は、明治維新政府とやらが送ってきた国書にはそれまで日本の主権者として朝鮮側が認めて国書を交わしてきた「日本国大君」の名がない、かわりに「天皇」と書いてある、「天皇」とは一体何者か、「勅」という字もある、そもそも「皇」とか「勅」という語句は世界にだだ一人中国皇帝についてしか使えないはずである、礼に悖るも甚だしいという理由で受理を拒絶した。野蛮な倭人め、とまで思ったらしい。これはあとで触れるが、確証がある。
→文芸ジャンキー(中毒者)・崖っぷちパラダイス:西郷の怒り〜征韓論の真相
明治初年、西郷が帰郷して畑を耕していた頃、新政府は朝鮮との国交を復活させようとして、位置的に昔から朝鮮とパイプの深かった対馬の宗氏を使者として送った。しかし、その持参した国書がまずかった。作成した者の知識不足が原因なのだが、文面に使用した言葉に清国の皇帝が格下の者に使う言葉が含まれており、朝鮮側は国書の受け取りを拒否、さらに国交復活を完全に拒絶してしまった。
→未掃庵の「ものぐさ歴史研究」: August 2004 バックナンバー:日清戦争その2
明治元年12月日本政府は、対馬藩(まだ廃藩置県前であるから、藩が存続していた。)の家臣に命じて、新政府の成立とあらたに国交を始めたいという国書を釜山で伝えたが、文書中に「皇」、「勅」の字があり、朝鮮側はこの国書を受けつけなかった。
これらの字は、もちろん天皇に関して使用されていたものであるが、当時清朝の中国を宗主国としていた朝鮮にとっては、これらの字は清朝皇帝のみが使用できるという考えであったわけである。
この形式的理由以外にも、①当時朝鮮の実権をにぎっていた国王の実父である大院君が保守的で、そもそも攘夷・鎖国政策をとっていたこと、②江戸時代にあっても、日本側使節を受入れなかったように、豊臣政権以来の対日不信感が潜在的にあったことも理由であったといわれている。しかしそれ以外にも、従来の交際相手であった徳川政権を倒した新政府に対する不快感があったかもしれないと想像することは、決して不自然ではあるまい。
1868(明治元)年、12月19日、日本の新政府の樹立を通告する国書を携えた使節が釜山浦にやってきた。しかし国王高宗の父・大院君が実権を握る李朝政府は国書の受取りを拒否した。
その第一の理由として挙げられていたのが、日本からの国書に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたことであった。朝鮮から見れば、「皇」は中国皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下であり、このような傲慢かつ無礼な国書を受け取ることはできない、というのが、朝鮮の考えであった。
そのような国書を勝手に受け取ったら、宗主国・清国からどのような懲罰が下るかもしれぬ、という恐怖感もあったであろう。日本の新政府は、その後もたびたび使節を送って交渉を続けたが、朝鮮側の受け取り拒否は変わらなかった。この時の事情を、韓国教科書は次のように記述する。日本は明治維新以降、新しい国家体制を築き、勢力を広げようと交渉を要請してきたが、朝鮮政府はこれを拒否した。これは、日本と修交すれば、西洋の侵略が後に続くと見なしたためであった。
国書を拒否した第一の理由は伏せられたままである。
引用ばかりのテキストになってしまいましたが(引用の太字部分は俺によるものです)、だいぶ面白いことがわかったと思います。俺の視点では単純に、日本と朝鮮の間のコミニュケーション・ミス(てゆーか、相互誤解?)と見えなくもないんですが。
「臣下である」というのと「属国・属領である」というのとはどう違うのかは不明ですが、日本国の「皇帝」名義で送られた「国書」を朝鮮が受けとると、清国との関係が少しまずいことになりかねない、という状況はわからなくはありません。
あと、実は清朝末期に「太平天国」というのがありまして(1851年〜64年)、そのボスである洪秀全も「勅書」みたいなものを朝鮮に送ってたりして、当然「僭王」でしかない洪秀全の文書に対しては、朝鮮側も慎重だった、という背景があったりするのかもしれません(ここらへんは、韓国側の歴史学者のご意見を聞きたいところ)。
要するに、現在の日本人が明治政府や当時の日本国(大日本帝国)について感じているものより、当時の朝鮮政府は、徳川幕府を倒してできたばかりの日本の新制度(新国家)に対してうさんくさいものを感じていた、ということはあると思います。
あちこちからの引用を続けます。
→つくる会:【史】 > 15号記事:「天皇」には触れたくない?韓国の教科書
韓国の近代史というと、どうしても日韓関係が中心にならざるを得ないが、その出発点の記述が問題である。
周知のように朝鮮は、維新政府の国交再開要求を、天皇の「皇」の字にこだわって撥ねつけている。ところが韓国の教科書は、日本の要求を拒絶した理由を殊更にぼかして書かない。「すでに門戸を開き、西洋の発達した文物を受け入れていた日本も、何回か通商を求めてきたが、わが国ではその態度が無礼だといってこれを拒んだことがあった。」(小学、64頁)「日本は明治維新以後、新しい国家体制を築き、勢力を広げようと交渉を要請してきたが、朝鮮政府はこれを拒否した。」(中学、270頁)といった具合である。高校に至っては、そのことがあった事実さえ、どこにも記されていない。いきなり1875年(明治8)の雲揚号事件(江華島事件)にジャンプし、「明治維新以後、近代国家の体制を整え、資本主義化を急速に進めながら海外侵略を企てていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮に門戸開放を迫った。」(319頁)と書いている。
これは問題ではあるまいか。近代の日韓関係の軋轢の原点は、天皇の「皇」の字を認めるか否かの一点をめぐる攻防である。華夷秩序の下では、「皇」の字は支那の皇帝にしか用いないので当然認められない。これが「皇帝」の臣下たる、朝鮮「国王」の立場である。そこで「皇」の字を使った日本を、朝鮮側は「無礼」として咎め立てしたのである。ところが日本の方は、聖徳太子が「天皇」号を立てて以来、とうの昔に華夷秩序からは離脱している。その上明治維新は王政復古を実現したものであるから、「天皇」の称号を認めない朝鮮側の言い分は、日本側には維新政府の存立自体の全否定とも映る。こうして両者の間には不幸な激突が生じ、日本側には「征韓論」が台頭することにもなったのである。
近代日韓関係は、この原点をきちんと踏まえておかなければ決して理解できない。それなのに韓国の教科書が「天皇」に一切言及せず、こうした軋轢があったこと自体を無視して書かないのは、今でも「天皇」なる存在を認めたくないということか。そう言えば韓国の国史教科書には、筆者の見落としでなければ、小中高を通じて「天皇」という言葉が一度も登場しない。意識的に避けているとしか思えないのである。
韓国の教科書に関しては、俺はハングルが読めないのでよくわからないのですが、日本と同じく「征韓論」の原因については「相手側の態度が無礼だった」と言っているみたいです。お互いに「相手が悪い」と言っている部分の、共通の歴史認識を持つのはなかなか難しそうですね。ただまぁその原因が「国書の内容」というか、その中に含まれている特定の漢字だったことは、日韓どちらも教科書には明記しておいてもいいのでは、と思いました。
と言っていながら、実は以下のサイトにはこのような驚愕の記述が。
→扶桑社『新しい歴史教科書』市販本より開国と中国・朝鮮干渉関連:近隣外交と国境画定
むかしから中華秩序の影響がうすかった日本は,このとき,自由に行動できた。1868(明治元)年,日本は朝鮮に使節を送り,新政府の樹立を告げて,新たな国交と通商を求めた。しかし朝鮮は,文面に天皇の「皇」という中国皇帝と同列の称号が使われているのは許せないとして,国書の受け取りを拒絶した。
ちゃんと、市販本の扶桑社の歴史教科書には書かれていたみたいですが。
ただ、→「公開!改訂版 新しい歴史教科書」←という公式サイトには、この「近隣諸国との国境画定」(「近隣外交と国境画定」の章題を変えたのかな)は掲載されていないので、間接的に他のテキストを探ると、こんな感じみたいです。
→第4章 近代日本の建設:朝鮮との外交
明治政府は、維新直後の1868年、新たに朝鮮と国交を結ぶため、使節を派遣した。しかし、朝鮮は日本の用意した国書に
不適切な文字が使われているとの理由で、外交関係を結ぶことを拒否した。明治政府は、朝鮮との外交では、はじめからつまずくことになった。(日本の使節が持参した国書に、日本の天皇をさす「皇」の字が使われていたが、これは中国の皇帝以外には使ってはいけない文字とされていたので、朝鮮の王朝は受け入れることができなかった。)
さてそこではじめに戻って、「韓国政府が日本政府に伝達した韓国関連の記述に対する修正要求内容」における、扶桑社のテキストなのですが、
これに関する修正意見は、
朝鮮の条約締結の拒否理由を説明せず、日本の立場から偏って記述
…条約締結の拒否理由は説明されているんですが。「中国の皇帝以外には使ってはいけない文字とされていた」というのも、俺には別に「日本の立場から偏って記述」しているようには思えませんでした。「朝鮮の態度が無礼である」というのと比べたら、全然問題なし。
この「韓国政府」の人は、ちゃんと扶桑社の教科書に目を通しているのかという疑問が。
ただ、テキスト的には、「1873年、開国の求めを拒否した朝鮮の態度が無礼であるとし」云々は、扶桑社の教科書52章・「岩倉使節団と征韓」の記述、「不適切な文字が使われている」云々は51章・「近隣諸国との国境画定」の記述なので、ちょっと扶桑社の教科書そのものが「征韓論」とその原因について考えるには章立てが分かれているのは変な感じがします。
あと、以下のものも中国と朝鮮の関係を考えるには重要なテキストかも。
→朝鮮は中国の「属国」だったのか?
朝鮮が中国の「属国」だったという誤解をしている人がいる。朝鮮が中国(明、清)との間に冊封(さくほう)という関係を結んでいたことがその遠因ではあるが、それ以上に、日本の朝鮮植民地支配時代(韓国でも北朝鮮でも「日帝時代」とよぶ)に、これを近代の植民地のような意味に「曲解」した名残りといえよう。「属国」という言葉は、朝鮮はもともと「属国」だったのだから、日本が支配してもかまわないではないかという政治的意図をもって用いられたのである。
ところが、冊封は、従属のしるしというより、むしろ独立国である証なのである。
(中略)
状況は明治維新によって根底から変わった。新政権が朝鮮に送った外交文書が完全に無視され、征韓論はこの「非礼」を許すなということを大義名分としていた。しかし、「非礼」だったのは、日本のほうである。文書は、江戸時代の慣例に従って、日本との外交にあたる東莱府使に届けられたが、内容は、「幕府は滅び維新政府ができた。よって両国の修好と通商を再開したい。そのむね中央政府に伝えよ」という命令口調のものであった。それよりも朝鮮側を激怒させたのは、新政権の性格を説明した部分の「皇祚連綿、皇上登極、奉勅親裁万機」という表現であった。「皇」や「勅」は、中国皇帝にしか使わない字であり、これでは中国に代わって日本に朝貢せよというのと同じではないかと思ったのである。その後、日本が朝鮮を植民地化していく過程については、ここでは述べない。
以下略、ですが、ふーん、ほー、へー、な内容です。
ということで、教科書では学べないいろいろな基礎知識が得られたと思いますが、このあとさらに驚愕の事実が(と、テレビならここでCMが入るところ)。
以下のサイトから。
→Femmes Fatales ─ 世界史コンテンツ版『明成皇后』:#03
もうれつ読みにくいですが、こんなテキストなど。
興宣大院君「はい、大筋では洪淳穆殿の御言葉の通りですね。……では、続いて2つの理由の説明に入りますけど、実は国書に用いられている印が、我が国が過去に対馬藩に対して与えたものと異なっていたのです。これでは受け取ることもできませんね。公文書としての書式が異なっていますし、その上我が国が与えてやった国の印を軽んじているということにもなりますから」
李景夏「なるほど……」
その後、釜山の草梁倭館に滞在していた使節団は、文言の訂正を行い国書を受け取るよう朝鮮側に提案したが、朝鮮側の外交官はこの提案を拒否する。
交渉は停滞したまま翌1869年に入ったが、ここで使節団は朝鮮側に対して新たな発言を行ったのである。
樋口鉄四郎「日本からの書契(外交文書)や朝鮮国内に残されています書物を調べましたところ、その中に『天朝』『皇朝』『朝臣』という表現が見つかりましたぞ。これでは、貴国がこれまでの外交交渉で説明されていました、『皇上』『登極』という文言を理由とする国書受け取り拒否は、筋の通らぬことになりませぬか?」
鄭顕徳「…………え? 何のことでしょうか?」
樋口鉄四郎「いや、そこで『え?』ととぼけられても困るのですが……」
自国の古文書を出された鄭顕徳や安東羿らは、日本側の国書受け取り要請に対し、病気など自分達の事情を理由にして受け取り要請を拒み続ける。1869年6月からは、対馬藩の外交使節団に代わり、外務省の使節団が外交交渉に当たったのだが、朝鮮側の姿勢は殆ど変わらず、国交回復に向けた交渉は暗礁に乗り上げる。
なんかここらへんがウリナラ・クオリティを感じさせます。しかしこの「1869年の発言」については未調査なので、俺のほうでは何とも言えません。
さてこうなると、「皇祚連綿、皇上登極、奉勅親裁万機」というテキストが含まれている国書が読みたくなりますが(なりませんか? そうなるの俺だけ?)、このくらい古い事件のことなら、現代なら大きな図書館に行かなくても、以下のところで資料を少しだけ見ることができます。
→近代デジタルライブラリー|国立国会図書館
ここで「征韓論」をキーワードにあれこれやると、「征韓論実相/煙山専太郎著,明40.9」というのが使えそうだ、というのがわかります。
第十四 征韓論の勃興
かなり読みにくいので、もう少しちゃんと読めそうなテキストを探してみたいとは思いますが、ネットで見つかるものとしてはまぁこんなものですか。
あと多分こちらにも資料はあると思うのですがまだ検索してみてないです。
→国立公文書館