北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』は、文学趣味のない三十代ぐらいまでの男性には面白い本なんだろうなぁ、と思った。だからもう恨みブクマコメントはいいですからJonahさん
というわけで、北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス)を読んだわけですが(→amazon)。
どうもネットでの発言などを見ていると、この本の原型となった2003年11月号『世界』に掲載された「嗤う日本のナショナリズム 「2ちゃんねる」にみるアイロニズムとロマン主義」というテキストを読まないといけないみたいで。
こんなのとか。
→北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を(1/5)
→ARTIFACT ―人工事実― | 「嗤う日本のナショナリズム」反応集
まぁ、こんなことを北田さんは言っているわけなので、
→北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を(4/5)
――この本が書店に並ぶのとほぼ同じころ、「世界」という雑誌に掲載された小論が、一部ではありますけど、大きな話題となりました。
北田 2ちゃん界隈ですね(笑)。
――それだけじゃないと思いますが……。でもタイトルが「嗤う日本のナショナリズム――『2ちゃんねる』にみるアイロニズムとロマン主義」ですから(笑)。北田さんは、2ちゃんをよくご覧になっているんですか?
北田 昔に比べると少なくなりましたね。あの論文の話ともつながりますけど、やっぱり2ちゃんがつまらなくなっているように思うんです。2ちゃんの面白さって、もともとは、学級委員みたいな存在を嗤うようなアイロニカルなコミュニケーションにあったんじゃないかと。ところが、そういう皮肉さみたいなものが少しずつ摩滅してきて、《繋がり》の持続だけを求める形式主義的な傾向が強くなった。そこに「嫌韓」とか「反サヨ」とか分かりやすいロマン的課題が流れ込んできてしまって、いつのまにか自分が正義の人、学級委員長になってしまっている。他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、誰よりもナイーブに自意識を肥大させているという感じでしょうか。
――ヘンテコリンな自意識の肥大の仕方ですね。自分を相対化することができないと?
北田 「お前モナー」ばかりが増殖して、「漏れモナー」がない。自分もバカにしながら、アイロニカルに世界を嗤う、それをおもしろく繋げていくという回路がなくなってきているような印象を受けます。あの論文でも、ナショナリズム云々よりも、自分を相対化することに耐えられないことのほうが大きな問題だと言いたかったわけです。それはリベラルな精神の欠如でもある。リベラリズムというのは、基本的にはアイロニーの思想だと思いますし。このことは2ちゃんだけじゃなくて、若者文化全般の変化と関係しているような感じがします。
あんまり思想的な部分はともかく、「2ちゃんねる」という存在(あるいは、その中のロマン的なものの存在)に関しては俺と考えが違わないかな、と。
あと、アマゾンでの本の感想をちょっと抜粋してみると、こんな感じで、
→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140910240/
何だよ、この本は?!, 2006/03/02
レビュアー: ビン・ラーディン (大阪市内) -
まず『嗤う日本の「ナショナリズム」』ってタイトルが、全くのミスリーディング。最近のナショナリズム流行の背景考察には最後5分の1程度のページしか割いていない。それまでの本文は目次からも明らかなように「サブカル30年史」といった趣向。
また文体がいかにも東大大学院情報学環助教授といったポストモダン風のもので、読んでいて「なんでこんなにワザワザ小難しい書き方すんだよ!」って何度も叫びたくなったほど。
(後略)
どうして、今、「ナショナリズム」なのか?, 2006/01/18
レビュアー: ume "ume2" (東京都新宿区)
あとがきにも記されているとおり、40年を系譜立てて論を進めたわりには、そのサンプル数の少なさは決定的な説得力の希薄さを招いています。40年を4で割り、10年ごとに2つ程度のサンプルで論を固めてゆくのでは、やはり拙速な印象を禁じえません。
(後略)
詰めの甘さ, 2005/10/07
レビュアー: daepodong
(前略)
整理としては便利ではあるが、オリジナリティはそれほど感じられない。そういう意味では、「先人の研究成果を生かしている」と感じられれば肯定的な評価になろうが、わたくしは逆に、これはかなりの部分パクリなのではないか、という印象を受けた。
(後略)
「80年代」消灯時間, 2005/08/31
レビュアー: フェイク・ザ・コバトン
(前略)
率直な疑問点を。ネット発の二つのバッシング。「ロマン主義的シニシズム」と著者が呼んだもの。これって、ただ単に権力的なるもののつまみ喰い、ってことなんじゃないか。これと、「ナショナリズムの風化」は両立する。否、だからこそ。私はこれを、自身を安全地帯に置くことで興じる「観客的ナショナリズム」と呼んでいます。
(後略)
どうも「タイトルその他から期待した内容とは異なる」という意見が目立ち、俺もまぁそんな感じでした。「終章」と、そこに掲載されている図表(p235)だけ見ればいいかな、みたいな。
社会現象を分析するフリをしながら、自分と自分が興味を持ったものに限定して、狭く学術的に言及するというアプローチの学者的著作というのは、著者が引用するテキストに限定されてしまうわけで、この本だったら「お前らとりあえずアレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』読めや」というようなことを、何度も何度も聞かされるわけで、「いやだからもう、それはいいですから北田さん」とツッコミを入れたくなるような本でした。政治的シニシズムだったら、『政治報道とシニシズム―戦略型フレーミングの影響過程』(J.N. カペラ他/ミネルヴァ書房)とか、『シニカル社会アメリカ―民主主義をむしばむシニシズムの病理』(ジェフリー・C. ゴールドファーブ/ジャパンタイムズ)のほうが面白そうな。
文学的歴史を考えると、メタとか反省の構造などは、1960年代から今にいたるまでの分析以前から「うがち」「見立て」という遊び、というかシニカルなカルチャーは江戸時代からあったりするわけで、アニパロと同じく一般大衆が模倣と引用による創作を試みると出てくる行為だし、ロマン的パターンも歌舞伎の世話物・人情物における忠君愛国や純愛があったりするわけで、別にここ40年ほどを切り取って語るのは、著者の精神思想史を語る以上の意味がないと俺には思えてしまったのでした。だから、そういう手近で、多分若い人には分かりやすい素材を選ぶ部分が、俺の読書趣味とは違っているかな、という感じです(だから悪いとか駄目だとかいう意味ではないですよ)。
ということで、次は『世界』のバックナンバーをどこかで探して読まなければいけない気分ですが、これも課題としてはだいぶ先になりそうな。
この本を読んだ人の他の感想を、コメント欄とかで聞いてみたいです。
(追記)
→http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060322%23p1
2006年03月20日 Jonah 『引用された書評、およびこの書評そのものにも「『当人(元テキストを書いた人間)に対して接点を持たない第三者』により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が『正確』なわけがありません」が当てはまるのだろうか』
意味不明。「釣れた釣れた」とかいうのがお約束?