長崎の「平和市民団体」と被爆者の関係について考える(結び)・「知らないもの」の量を減らす

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060415#p1
 
で、具体的な「被爆体験講話」の見本テキストがないかと探してみたんですが、このようなものがありました。
2003年ピースメッセンジャー〜被爆体験講話〜

山脇佳朗さんによる被爆体験講話
(前略)
私たちはそういうことも知らずに庭の防空壕で待っていました。するとお昼少し前に兄が帰ってきて3人で父の帰りを待っていました。工場の責任者なのでこれまでも小さな爆撃でも帰ってこないことがあったので仕方がないと思いながら待っていましたが結局帰ってきませんでした。夜が明けると隣組の人が無神経な話をする。原爆が投下された浦上地区は全滅したと。不安で父を迎えにいくことにしました。爆心地に向って歩いているとは知らず。
歩きだすと被害がひどくなる一方で、電柱や街路樹は立ったまま焼け、電線は垂れ下がり、住宅は皆焼け落ち、道路にはガレキの間に真っ黒い人たちがごろごろ転がっている。川の向こうの工場は大きな柱だけ残してあとはつぶれている。小さな橋まできたら3人が立ちすくんでしまいました。私たちを迎えるように欄干に沿って真っ黒い人たちが倒れていました。渡り始めると両側から声をかけられそうで、一つ上流にある橋を渡ろうと見ましたが爆風で橋は落ちていました。仕方がなくこの橋を渡りはじめましたが、川を見るとゆっくり流れている川のなかにもたくさんの人が浮いていました。その中でも若い女性の姿が目を引きました。黒いモンペを履いて白いブラウスを着ていましたが、自分の後ろに長く白い帯びを引いていました。腹帯がとれて流れているのかと思いましたが、よく見るとわき腹が破れて飛び出した腸でした。気持ちが悪くなり足早に橋を渡りました。川を渡り小道を歩きましたが、そこにもたくさんの人が折り重なって亡くなっていました。近くで見ると、顔はパンパンに膨れ皆真っ黒焦げ、髪はちりぢり、洋服は真っ黒。白い目と歯だけが私たちを睨んでいるように見えて、小学校6年生の私にはとても恐かった。踏み越えていこうとしましたが道中に倒れていて、少しでも触れると熟した桃の皮をむくようにペロッと黒い皮膚がめくれる。それがとてもかわいそうであり、また、気持ち悪かった。
会社に向って走りました。すると焼け落ちた工場にスコップを持った人が3人見えたので兄が「山脇ですが、お父さんどこですか」と言ったら、1人が「工場長はあそこで笑っておられますよ」といったので、良かった、来た甲斐があったと思い、指差された所にいきましたが、そこで見たものは、他の人たちと同じように膨れて亡くなった父の遺体でした。口元に笑みを浮かべているようにも見えました。自分の父ではないと思いながら、しかし、見れば見るほど自分の父でした。3人とも呆然として声が出ませんでした。そこにスコップを持った人たちが寄って来て、父を連れて帰るならここで焼かなければ駄目だと言われました。工場の焼け跡から木々を集めて父を載せ、父が見えなくなるくらい木々をたくさん載せて火をつけました。夕方だったので、明るい炎が上がりました。それに向って私たちは拝みました。拝み終わって見てみると炎から父の素足が出ていました。それがかわいそうで仕方がありませんでした。

……すみません、この実体験の講話は、俺にとって「戦争は嫌なものだ」と考えさせるという点において、とてもいいテキストでした。ていうか号泣しました。最後のこれは、どうかなぁ、という気もするんですが。

どうすれば残酷な核兵器を地球上からなくすことができるのだろう。
どうすれば戦争を地球上からなくすことができるのだろう。
そのためには自分たちに何ができるのか考えられる人間になってほしい。

この「どうすれば」ということに関しての、俺の考えは後で述べます。
で、2006年3月26日の朝日新聞読者投稿欄に、同じ「山脇佳朗」さんだと思うんですが、以下のようなテキストが掲載されました。

被爆体験談を要請しただけ
  無職  山脇 佳朗(長崎市 72歳)
 
政治的発言の自粛を求めた長崎平和推進協会は、言論統制を意図したわけではなかったと思っています。
協会に属する私たちは、被爆体験を伝えたいと日々努力しています。ところが、話を聞いてくれた子どもたちや先生方からのアンケートの中に、「被爆体験を聞きたかったのに、それ以外の話が多かった」という意見が見られました。
協会はこのため、「被爆体験を主体にした講話をしてほしい」と要請したのです。
確かに、憲法9条イラクへの自衛隊派遣問題などを自粛してほしいという内容の文書を、会員に配ったのは勇み足であったとは思います。しかし、その後協会は「『私個人の意見だが』とことわって話すことまでは規制しない」と言っています。
私たち被爆者は、反戦平和の思いは十分伝えていきますのでご安心ください。

で、ネット上ではこんな意見など。
kmizusawaの日記 - 「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋

そもそも被爆体験を語るということそのものが政治的なことだ。そもそも戦争や原爆投下自体が政治的なことなわけだし。

作文書いたんだけど、これじゃ先生に叱られるかな:「中立」にどれほど価値があるのか、「バランス感覚」がどれほど貴いものか。

あらゆる態度・ふるまいは政治的であって、「絶対的な中立性」なんてのはあるはずない(あるのは相対的or見かけ上の中立性)。

違います。(まったく同意できません)
被爆体験を語るということは、広義の「文学的」なことで、「文学」と「政治」とは、世の中で最も違うものです。
文学者が政治を語ったり、政治家が文学を書く、ということはもちろんありますが、「文学」は「政治的なもの」、つまり「最大多数が最大の幸福を得られるためにはどうしたらいいのか」ということを考えるためのものではありません。
「文学」は、「個」と「公」がぶつかりあう、その淵に生まれ、「公」に対して葛藤する「個」を描くものです(と、ポール・アンダースンも言っていました)。だから、「語られる被爆体験」は、森鴎外舞姫』と同じように、文学以外の何ものでもありませんし、「政治的」な意味を持たせるのは間違っています。
被爆者が語ることは、だから「戦争とは嫌なものだ」という、当事者の私的体験に基づく感情(嫌悪感)で十分なのです。
当事者意識のないまま「(イラク)戦争」や「憲法(第九条)」について語ることは、俺に言わせるとものすごく危険です。それは、「想像力によって『何か』を憎む・否定する」ことにつながり、そして人間同士の戦争は常にそういった「間違った想像力」が原因です(人間と宇宙人との戦争は少し違うかもしれませんが)。
だいたい、「先生その他えらい人」から教えられた「中国人」「鬼畜米英」その他の虚像を、そもそも実在する「外国人」を知らないまま憎んだことでかつて戦争がはじまり、不幸な終わりかたをしたということを知っているのは「戦争体験者」でしょう。なのにその人たちが、戦前と同じように「「知りもしないこと」を憎め(少なくとも、批判しろ)」ということを教えて、戦争がなくなると思っているのが俺にはよくわかりません。
戦争を避けるために必要なことは「知らないもの」の量を減らすことです。より具体的に言うなら、「相手の言葉(英語・中国語その他)」で自分の考えを伝え、相手の考えを理解する、ということです。
イラク戦争を語る資格があるのは、イラクで戦った人(アメリカ軍兵士)で、その人がもし語ることがあるとするなら「戦争反対」という理念・観念ではなく「戦争とは嫌なものだ」という個人的な体験でしかないでしょう。で、さて、そのアメリカ人兵士は、イラクの人の言葉を知っていたでしょうか。原爆を落としたアメリカのパイロットは、日本について何を知っていたでしょうか。原爆を落とされた側の人間は、その後、落とした側の言葉を使って「自分自身の体験」を含む何かを言うような「言語の習得」をしたでしょうか。
で、

どうすれば戦争を地球上からなくすことができるのだろう。

なんですが、これは「戦争という観念に、観念的に反対する」という政治的なことではなく、「戦争は嫌なものだ、という生理的・個人的嫌悪感を伝える」という文学的な方法がいいんじゃないかと思います。
 
(追記)
作文書いたんだけど、これじゃ先生に叱られるかな:スポーツ審判員の中立性と政治的中立性

無自覚な「中立性」という暴力が、紙面・ネット上を賑わしているのを見ると、そう思ってしまう。

違います。(まったく同意できません)
ネット上で一部の人間が無駄にネット言論を賑わしている原因は、無自覚に「何でもかんでも政治的なものにしてしまう」という行為(暴力)です。
 
(追記)
以下のところのテキストなども参照。
そうやって何でもかんでも「政治的バイアス」にしとけばいいと思っている人について