伝聞情報を流す側については、立ち位置や流している場所と関係なく用心したほうがいい、という半・一般論について

これは以下のテキストの続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060614#p2
 
こんなところから、笹幸恵氏の「バターン死の行進」に関するレポートがらみで。
不正確な引用? ふ〜ん…

仲介者が文春側とは接点をもたない一方、SWCやテニー氏らとは友好的な関係にあるからといって、情報伝達が不正確であると推定する理由などありません。もちろん、結果的に不正確である、ということはあるでしょう。レポートを正確に要約したり翻訳する能力に欠けていた場合、無意識のうちにレポートの趣旨を歪めて読んでしまっていた場合、などです。他方、もし誤った情報をもとにSWCらが行動を起こした場合、最終的に損をするのはSWCの側です。とすれば、SWCと友好的な関係を結んでいる人間には、情報を正確に伝えようとする動機があるわけです。したがって、「誰が情報を伝えたか」は「情報が正しく伝わったか否か」を判断するうえでの、せいぜい状況証拠でしかないわけです。

もちろん、結果的に不正確である、ということはあるでしょう。」と好意的な解釈をするあたりに、apesnotmonkeysさんとぼくとの世界観の違いがあるんでしょうね。
また例によって「ペルシア語でぼくの悪口が書かれたテキストがある」と、ある人から報告を受けたケースを考えてみましょうか。ぼくはもちろん、ペルシア語は読めません。で、そのテキストが「あるイランの出版社の雑誌」に掲載されたものだとします。その際にぼくが取る行動は、
1・それが事実であるか、の出版社に対する確認
2・それを雑誌に掲載した著者による、正確と当人が思われる日本語の翻訳テキストの確認*1
3・同じペルシア語テキストを、ペルシア語にくわしくてぼく及び元テキスト製作者にもさほど近くない人間(三者)による、日本語の翻訳テキストの確認
4・「ぼくの悪口が書かれていた」と報告してきた人間による、日本語の翻訳テキストの確認
ある人やあるテキストに対して、断罪・抗議を含む異議申し立てをするには、やはり「4」だけでは客観性に欠ける、とぼくは判断します。
残念なことに、不正確な情報を元に抗議する側が「最終的に損をする」というのは、最近の、インターネットその他で「ソースの確認」が容易になってからの概念で、過去に損をしていたのは「不正確な情報を元に、抗議してきた側に謝罪してしまった側」であり、その手法が今でも通じる、と思っているところにリベラル、というか反・政府側の弱点があるでしょう。
要するに「嘘や捏造・歪曲でもいいから謝罪させてしまえ。謝罪させれば、それは既成事実になる」という旧来の手法と、「真実に基づいた抗議でないと、最終的に損をする」という判断の、どちらをPOWやSWCがメインにとっているか、ぼくには判断のしようがない(なかった)わけです。
別の例を話すと、こういうすごい具体例もあるわけで、
少し翻訳が違うんじゃないかと思った
何しろイラク人医師が言ってもいない「劣化ウラン弾の影響で(癌になった子どもをつれて)」なんて言葉をつけ加えてしまう人たちがいるくらいなので。
今回のこのような言及ですが、
不正確な引用? ふ〜ん…

その仲介者と「接点を持たない第三者」が伝達の正確さを推定しようとするなら、次善の策は笹レポートとSWCの声明、テニー氏の抗議文を読むことです。SWCの声明、テニー氏の抗議文は仲介者によって伝えられた情報をインプットとするアウトプットですから、このアウトプットにおかしなところがあればインプットに間違いがあったのではないか、という蓋然性が高くなり、アウトプットと笹レポートの間に齟齬がなければ情報は正確に伝わっている蓋然性が高くなるわけです。

いや、一番の策は「SWCのサイトに掲載されている笹幸恵氏の翻訳テキストを読むこと(笹氏の元テキストと読み比べてみること)」だと思うんですが…、
A Woman Retraced the Entire Route of the Bataan Death March Alone - Simon Wiesenthal Center(多分伊吹由歌子さんが訳したと思われる、笹幸恵さんの英文テキスト)
ひょっとしてapesnotmonkeysさんも読み比べてはいないのですか? その場合はぼくが「まだ英文テキストを読んでいない段階」で何かを問題にしていている誰かさんについて何かを言ってもいいですか?
それじゃ、読み比べてみましょうか。全部をやるのは大変なので、重要なポイントだけ。

水や食料が不足していたのは、日本軍も同じだった。捕虜たちが味わったのが「死の行進」なら、日本軍もまた「死の行進」を味わっていたのである。
むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病気にかかっていたことではないだろうか。マラリアは重症の場合、しばしば死に至ることがあるが、もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比軍側のそれ以前の治療体制が不十分だったということを示している。種類にもよるが、マラリアの潜伏期間はだいたい二週間程度だからだ。もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない
Japanese soldiers did not have enough food and water for themselves. If POWs went through a “Death March,” Japanese soldiers also went through a “Death March.” The biggest problem was not a lack of water or malnutrition, but the fact that POWs were suffering from diseases such as malaria. A sever case of malaria often leads to a death. If POWs were dying during the Death March, it was not due to the march. It showed that the medical care by the US-Filipino Forces by then was not adequate because, although depending on each type, the incubation period for Malaria is usually two weeks. This fact does not justify the Death March, of course, but at least it is not correct to say as if the Japanese military bore all responsibility.

一目瞭然。
「それは行進に起因するものというより」→「それは行進に起因するものではない」
「正当化できるものではまったくない」→「正当化できない」
「捉え方はあたらない」→「というのは正しくない」
これを「日本語から英語への翻訳における、若干のゆらぎ」と解釈できなくはありませんが(この程度の「ゆらぎ」は、小説ならしばしばあることのようにぼくも思います)、故意か無意識か「結果的に不正確」なだけなのか、笹幸恵さんの元テキストと比べると「日本軍の行為」の弁護的色合いと、米比軍側の「治療体制」を責めている色合いが強くなっているようにぼくには思えました。
それでは、もう一度同じことを言いましょう。
「情報は正確に伝わったのか」などは、言及をするまでもなく「誰が伝えたか」で自明のことです。「当人(元テキストを書いた人間)に対して接点を持たない第三者」により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が「正確」なわけがありません。
まぁそれはそれとして。
不正確な引用? ふ〜ん…

図書館にいって『文藝春秋』のバックナンバー読む時間がとれないので暫定的な考察ですが、レポートの内容が正確に伝わっていない可能性を考慮に入れる必要があります…とでもしておけばよかったんですよ。

これに関してはまさにその通りなんで、ちょっと意地を張りすぎてしまったかな、と過去テキストを見て反省なのです。このことについて根に持たれる、というのも本意ではないのでお詫びします*2
ただ、笹幸恵さんのレポートを見ると絶対その後に「調べることのメモ」みたいなものが生じて、それについてある程度、自分に納得できる限り調べることになりそうだなぁ、と、うんざりしていた心境はありました。結局そうなってしまったわけで(http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060505#p1の最後のほう)、これに関する決着がつかないと、まだまだぼくには「笹幸恵さんのテキストを読んだ」とは言えないのです。
なお、別件ですが、ブックマークのコメントでこんなのもあったので。
はてなブックマーク - 愛・蔵太の気ままな日記 - ものすごく興奮して大漁の文章をアップロードしているいる人がいるみたいですが

2006年03月05日 jimusiosaka 「当人に対して接点を持たない第三者により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が「正確」なわけが」ないとすると、例えば歴史家による歴史の叙述はほとんど不可能になるのではないでしょうか。

「不可能」ではないと思いますが「フィクション(創作・虚構・物語)として後世には読まれる可能性も考えて、歴史書というのは書かれてきたし、書く人もそれを意識して叙述してたのでは」というのがぼくの判断です。江戸時代の経済状況とか、史料的に充実しているものはともかく、「織田信長はこんな人」みたいな人物評は、客観的に判断できるようなものはほとんどないようなエピソードが多いわけで。
しかし、「福島みずほだったらこんなことを言っていてもおかしくない」という判断より、「2ちゃんねるで、ソースもないまま流れている情報が正確なわけがない」という判断のほうが、どう考えても間違っている可能性は低い(正しい可能性のほうが高い)と思うんですが、普通の人はどうなんだろうな。
それから、あまり過去テキストをいじるのは好きではないのですが、わかりやすくするために以下の日記の、以下の部分を大文字にしてみました。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060307#p1

「当人(元テキストを書いた人間)に対して接点を持たない第三者」により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が「正確」なわけがありません。

読み返してみて、『「情報は正確に伝わったのか」などは、言及をするまでもなく「誰が伝えたか」で自明のことです。』というのは、どうしてもイデオロギーとか政治性で何かを考える癖がついている人には、その「誰が」の部分が「あるイデオロギーに染まっている人」だと誤解されそうな(現に誤解されているような)テキストのように思えたわけで。
ぼくの意図としては「誰」=「当人(元テキストを書いた人間)に対して接点を持たない第三者」という意味なので、イデオロギーとか政治性とかは関係ないわけです*3
(2006年6月14日)

*1:当然その「著者」は日本語で、ぼくのテキストを読んでいると判断した上での確認です。伝聞情報でぼくの悪口をペルシア語で書いていたのなら論外

*2:どうしてもテキストというのは、書いているときの勢いとか感情の流れとかがあるので、少し冷静になったときに読み返して恥ずかしくないものを書くようにしようと思ってはいるんですが、なかなかそうはいかないことが多いようです

*3:そういうイデオロギーを持っている人には、イデオロギーに応じた恣意的な情報伝達をする場合もあるとは思いますが