アド・ホミネムという魔法の言葉を知っていると魔法使いになれますか

アド・ホミネムな論証について

「情報は正確に伝わったのか」などは、言及をするまでもなく「誰が伝えたか」で自明のことです。「当人(元テキストを書いた人間)に対して接点を持たない第三者」により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が「正確」なわけがありません。

などと主張する人物の語ることについては、デフォルトで眉に唾をつけておくのがリスクヘッジという観点からは賢明であるわけです。

だから言ったじゃないですか、「ぼくの言うことも信じるな」と。
別の人間が同じことを言う必要は別にありません。
気象庁が多少なりとも信じられるのは、自分たちの推理の根拠を、天気図などで示してくれるからで、さらに、予想が外れたとしても、その原因説明をちゃんとしてくれるからなわけです*1
「○○という人が言うことなら××だろう」あるいは「○○なら××と言っても不思議ではない」というのは誰の場合でもあるんでしょうが、ぼくは、もし可能なら「ぼくレベルで『推理の根拠』を述べている人間の言うことでも、眉に唾をつけて読むような人間」が増えて欲しいと思っています。
そういう人は、自分でもっと調べたり考えたりするようになると思いますから。
南京虐殺の写真はこんなにある→「ひでー!」
その写真は捏造→「だまされてた!」
捏造というのは嘘→「やっぱ虐殺してるじゃん!」
…これではただの猿にも劣ります。

私にしても渡部○一とか山本○平が典拠だったりする主張についてはデフォルトで「プッ」とか思ってしまうわけです。

なんか偏りが感じられますね。
ぼくは、補注その他で原典(元テキスト)に当たれるようにしていない本は、それが「プッ」本であるか否かと関係なく、すべて「フィクション(物語)」として読むことにしています。つまりフィクションなんだから、「その内容が正確かどうかはあまり深く考えない」ということです。*2(ただ、眉への唾のつけ具合は、フィクションを偽っていない本でも、さらにその「原典」がどれだけ信用できるか、というのもあるので油断がなりません)司馬遼太郎の本を、何かの史料として読む人はいませんよね。ましてや「司馬遼太郎の書いていることだから信用できる」なんて思っている人はさらにいないでしょう。彼の書くものは、それなりの史料に裏づけされているとはいえ、「読んで面白く、時には感動させられる小説」です。
(2006年6月17日)

*1:それにしても最近になって外れ具合がひどくなっているように思えるのはぼくだけでしょうか

*2:その意味では、笹幸恵さんのテキストも、ぼくの判断では現段階では「フィクション」なので、深く考えるための材料=ソースを自力で探そうか、と思っているわけです