笹幸恵さんの「バターン死の行進」の道を歩いた目的について。あと歴史修正主義とか

それはぼくは単純に、トリビアの「実際にやってみた」シリーズ、というか企画と同じ感じで解釈しました。「清水建設に○千億円渡して、本当にピラミッドができるかやってみた」とか、「本当に飛脚は江戸〜京都まで○日間で走れるのか、駅伝選手にやってもらった」とか、その手のネタ的歴史検証だよなぁ、という感じです。
ただ、「バターン死の行進」に関しては、歴史的事象として客観的に扱うには、まだ関係者が多数存在していること、歴史的意味や解釈が、現代に生きている人間とほとんど関係がない、とはとても言えない事件・事象であること、などから、まぁあと百年ぐらいは、ネタとして扱うには無理があるかな、と思います。○千年も前のネタなら、「俺たちがピラミッドを作ったときは、とてもこんなもんじゃなかった」と、古代エジプト人が抗議するわけはないので。
そこらへんの歴史認識の甘さ、というか、ネタにマジレスする人間がいるとは思わなかった笹幸恵さんの想像力の欠如は、テレビ局のバラエティ番組制作者ぐらいかなぁ、ともぼくは判断してます。
「えー、これって歴史修正主義って言うんですか? それってしちゃいけなかったんですか、どうもすみません」というのが、文藝春秋も含めた謝罪のしかたで、それについてはどうも「とりあえず抗議されたから謝っておいたほうがいいよなぁ、SWCだし」みたいな空気が感じられて、どうにもこうにも。
歴史修正主義はぼくにとって禁断の領域すぎて手が出しにくいんですが。なにしろ、「過去の歴史は間違っていた」というのが、ものすごく古いものならともかく、たいていは近・現代史で、「歴史の否定」やるとどうしても現在の歴史観自虐史観、って言うんですか)の否定=ネット右翼という立ち位置認定、になっちゃうわけで。とりあえず南京事件(大虐殺)とホロコーストに関しては、中国語・ドイツ語・ヘブライ語・フランス語などが読んだり聞いたりできないので、言及しない、というのは前に述べたとおりです。日本史も草書読めないしなぁ…。
まぁいずれにしろ、「歴史修正主義」に関しては、修正しようと思っている側の「徹底具合のなさ(恣意的な史料・資料の引用・解釈も含めて)」と、「何で修正しようと思っているのか、あるいは、何で修正しようという考えには抗議するのか、に関しての、イデオロギー的なうさんくささ・生臭さ」が気になるところです。「日本人は第二次大戦中にいいこともした」ということを言いたいのなら、「ローマ帝国以前のカルタゴはいい国家だった」ぐらいのレベルで生臭さが抜けてからやっても、特に問題はないんじゃないでしょうか。まぁ、あまりにも古くなると、残っている史料・資料の偏りも出てきてしまうかもしれませんが。
(2006年6月16日)