「野口清作」はなぜ「野口英世」に改名したか

今日も割とどうでもいい本をどうでもいい感じに読んでいたわけですが、読んでいた本はこれです。
→『正伝・野口英世』(北篤毎日新聞社)(アマゾン)
少しクセのある文体で、古さを感じさせるんですが、学校の教科書その他で習った(今はもうそんなに「偉人伝」なんて教えていないかな)偉人・野口英世とは違った、ダメ人間としての人物像も、猛烈勉強人間としてのそれと併せて書かれているのがとても面白い評伝でした。
で、多分今の時代の人間は、野口英世が洋行の際に餞別としてもらった300円を、行く前の横浜で豪遊して使い果たして、しょうがないのでもう一度借りた、ということぐらいはみんな知っていると思います。
血脇守之助ホームページ
野口英世との係わり/血脇守之助と野口英世

学歴社会の日本では才能を生かしきれず、自由な天地を夢見て焦りを募らせた野口は、血脇のつてにより、“帰国後に結婚する”という条件で斉藤家の養女と婚約、持参金の名目で300円を渡航費用として確保している。なお、数年後にこの婚約は解消にこぎ着けているが、それも全て血脇の奔走によるものであり、持参金の返却も血脇が行ったという。
 ところが野口の浪費ぐせは途方もなく、出発の直前、横浜の料亭で送別会と称して、 友人数十人と豪快な宴会を繰り広げ、なんと一夜にして渡航費用のほとんどをつかいはたしてしまったのである。翌日、謝りに来た野口から話を聞いた血脇は、さすがに呆れて言葉を失ったと言う。しかし、野口の将来を案じた血脇は、とうとう生涯で初めて高利貸しからお金を借りて、野口の渡航費用とした。野口は感激の涙を流して喜んだが、血脇もさすがに懲りたようで、この時は横浜港から出航するアメリカ丸の甲板上で切符を手渡したという。明治33年(1900)12月5日のことであった。

血脇守之助さん、すごくいい人みたいです。
それで、「改名」に関しては、こんな話があります。渡米する前の話。
野口英世の金銭感覚

明治31年、北里柴三郎の伝染病研究所見習助手になり、月12円(後13円、15円)、さらに、明治32年、横浜海港検疫所検疫官補となり、月俸35円です。 遊びはますます盛んになりました。
このころ、坪内逍遥の『当世書生気質』という本を知りました。「野々口精作」という田舎出の医学生が遊里遊びに堕落するというストーリです。「野口清作」にとっては、まるで自分をモデルにしたような内容に驚き、これが元で「野口清作」を「英世」に改名しました。

当世書生気質』の本文は、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」そのほかで検索して読むことができますので探してみてください。
ウィキペディアではこんな感じ。
野口英世 - Wikipedia

1898年に坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名が極めて近いため自分と野々口を重ねてショックを受けて「英世」と改名。
野口英世がモデルと言われたが「当世書生気質」が発刊されたのは1885年。野口自身、当時7歳であった。のちに小林栄が坪内逍遥に質問し、「野口英世をモデルにしたのではない」と返答したと文献に記されている。坪内逍遥は後に「キング」詩のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。

この、坪内逍遥のエッセイは読んでみたいものです。
で、『正伝・野口英世』(北篤毎日新聞社)の本のほうに書いてある「改名の理由」を、だいぶパラフレーズしながら紹介してみます。
まず、野口英世の幼少時代の恩師として、「小林栄」という教師がいます。この人は、野口に猪苗代高小(現代の高校課程クラス)に行くことを勧め、さらに医者による野口の左手の手術にも成功させます。まぁこの人がいなかったら偉人伝に名前が残るような「野口英世」ではなかっただろうな、と思うような名伯楽ですね。
ところが、ものすごい勢いで(通常なら10年はかかるだろうという医師国家試験を1年で)、受験者80人中合格者4人という試験を受かって、さらに北里柴三郎の研究所(伝染病研究所)に研究助手として働きかけた野口清作(英世)に、ちょっとしたことがおきます。
なんと、恩師である小林栄氏の夫人が重い腎臓病との知らせ。
取るものもとりあえず、野口は猪苗代に行き、夫人の世話をし、恩師を励まします(ここのところは、野口英世さんはいい人です)。
病気も回復して、余暇もできた野口清作(英世)は、そこで普段はあまり読まないような通俗書を手に取り余暇をすごすことになります。
で、その中に坪内逍遥の『当世書生気質』があるわけですね。
小説の中の「野々口精作」は、田舎出の医学生で秀才。ところがある機会から女遊びにふけることになる、という物語展開。
普段から金遣いの荒い「田舎出の医学生」は苦悩して、恩師・小林栄先生に相談します。以下、『正伝野口英世』p120

「これはお前が悪いことをしたところを、坪内先生に見つけられたのであろう」
「決して私では……ただ私に似せて書いてあるので、残念でたまりません」
「ふうん、しかしどうもそれは怪しい。どうもお前のことに、よく当たっておるではないか」
しばらく問答の後に、清作は「何とかしてください」と頼む。先生や名誉毀損の訴えも出来まいから、改名するしかあるまいという。三日ほどして、
「一つ考えたが『英世』という名はどうかな? 英は小林家代々の名乗りで、英雄などという時に使い、これは立派な字だ。また世は世界で、広い意味を持っている。医者の英雄になって、世界によい仕事をする、ということになるのだ。あまり立派すぎ、名前負けはせんか」
「いえ、まことに結構です、どうかその名にしてください。大いに奮励して、名に負けないようにいたします」
これから清作をやめ、「野口英世」に生まれ変わる。

とまぁ、小説家・講釈師が見てきたような伝聞情報を物語にしています。
1・小林栄が坪内逍遥に出した「野々口精作」という名前に関する質問の手紙、およびそれに対する坪内の回答
2・坪内逍遥野口英世に触れている雑誌「キング」のエッセイ
この2つは、そのうちネット内外でも見つかると思うので言及してみます。
とりあえず、一時期の野口英世は、坪内逍遥当世書生気質』のモデルだった、と言われたり思われたりしても不思議がないほどの自堕落な生活をしていた、ということは事実のようです。
ていうか、生涯を通じて金銭感覚のなさが著しいことなどはわかりますです。