スパイ小説に興味を持った

見出しは演出です。
結局、米ソ冷戦が終結した今、スパイ小説ってありなのか、という話なんだけど。
『極楽の鬼(増補決定版)』(石川喬司講談社・1981年)というミステリー書評集でこんな記述を見て(実際に書かれたのは1964〜69年)p84、ちょっと引用してみたくなった。元は中薗英助『現代スパイ論』((株)博通・1965年)ということなので、原典に当たってみる必要があるけど、一応。

スパイ小説が、もっぱら政治を主人公とするのは、一つの誤謬といわねばなるまい。現代政治の力学がミスティクとして成立する外部の状況は、むしろ内部のドラマとしてとらえられ、のりこえられねばならない。スパイは、その相対するスパイを拒否する。いや、スパイ自身を否定するはずである。ミステリの消去法を用いるならば、最後に残った一人もしくは----作者自身----が、自ら消去法を借用して必死に遁身しようとあがく姿に逢着するはずである。あるいはスパイは、その相対するスパイを増殖する。倒叙形式をフルに活用して、その存在を立証しようとするはずである。スパイの養成が、権力あるいは金銭に忠誠をもとめ、反諜報術というものを基調にして二重化防止に向っている点に注目されたい。その周辺からたちのぼるものは、まさしく現代の恐怖であるが、このドタバタのサスペンスに、たとえば作者が望遠鏡を逆さにして眺めるような操作をくわえれば、恐怖の生ぐさい臭いは消えさって、かわいた戦慄を伴う滑稽劇が、突如として出現するであろう。とはいえ、スパイ小説は空想科学小説とは異なるのだから、そこにいきなり永久未来からの視野というロング・ショットが導入されるわけではない。導入されるとすれば、たがいに力を以ってとざすことなくひらかれた政治と人間の国籍と階級とを廃絶しようとする人類的でグローバルな青写真というミドル・ショットだが、わたしがそれに対応させて考えている創作方法は、ドキュメンタリーの方法による架空の虚構である。現実分析が底の底までゆきついたとき、言葉が暗転して中空にドラマを結ぶというやつである。

(太字は引用者=ぼく)
虚構のドキュメンタリーというとぼくが思ったのは『スターリン暗殺計画』(桧山良昭)でした。あれは実にいい本だった。
別に第二次世界大戦が終了しても、虚構の悪役としてナチス・ドイツは不滅の地位にあるので、米ソ冷戦時代を舞台にしたスパイ小説があってもいいんじゃないだろうか。
そこでナポレオン・ソロですよ(彼が属する組織は「ソ連」が敵なわけではありませんが。
0011ナポレオン・ソロ - Wikipedia

国際機関アンクル(U.N.C.L.E.)のエージェント、ナポレオン・ソロイリヤ・クリヤキンの活躍を描く。当初はさまざまな敵を相手に活動していたが、途中から国際犯罪組織スラッシュ(THRUSH)が登場し、もっぱらその組織と戦う話となった。また、初めはハードだった作風も、次第にコミカルなタッチへと変貌し、それが特色となった。
また、原題が"Man"と単数であることからも分かるとおり、当初はソロ(ロバート・ヴォーン)を主人公として作られ、イリヤデヴィッド・マッカラム)は脇役に過ぎなかった。ところが、次第にイリヤに注目が集まるようになったため出番も増え、ほどなくソロとイリヤがコンビで活躍するシリーズへと変貌した。むしろ、人気ではイリヤ(マッカラム)が、ソロ(ヴォーン)を凌ぐようにすらなった。そのため、二人の不仲説も根強く語られている。しかし、優秀だが女性には弱いソロと、クールに任務をこなす中性的なイリヤという対比が、番組をより面白くしたことに異論は見られない。

とりあえず、ホモカップルなスパイコンビと、共産主義で堅物のソ連スパイの三角関係を考える。
青池保子先生に漫画化してもらいたい。
正規ルートで誰か版権取らないかな。