三島由紀夫の小説の書きかたに土下座する

ダラダラと本の整理をしていたら、こんな本が見つかった。
『私の小説作法』(毎日新聞社学芸部編・雪華社・1975年)
いつ、どういうきっかけで買ったのかは覚えてないけど、石坂洋次郎がマイブームだった時に多分買ったんじゃないかと思う。星新一が大変な苦労をしてショートショートを書いている、と書いてたり、司馬遼太郎歴史小説はビルの屋上から人を見下ろして書くようなものだ、と書いていたり*1、あんまり直接的に小説の書き方の参考なるわけではないんですが、各作家の「小説を書く際の苦労話」が面白かった一冊でした。
で、今日はその中でもとびきりびっくりだった三島由紀夫のテキストを引用してみます。太字は引用者=ぼくによるもの。p28

論理で責めてゆく/三島由紀夫
以前、法制史を研究している友人が、お前の小説のメトーデ(方法)は、法制史のメトーデと同じだから、わかりやすい、といってくれたことがある。
私は法制史の勉強はしたことがないが、法律は学校で多少かじったことがある。なかんずく、小説の方法に似ているな、と思ったのは、刑事訴訟法であって、刑事訴訟法の講義をきくのは面白かった。
何もこんなことをいって、アカデミックぶるわけではないが、物のたとえと思ってきいていただきたい。刑事訴訟法は手続法であって、刑事訴訟の手続を、ひどく論理的に厳密に組み立てたものである。それは何の手続かというと「証拠追求の手続」である。裁判が確定するまでは、被告はまだ犯人ではなく、容疑者にとどまる。その容疑をとことんまで追いつめ、しかも公平に整理して、のっぴきならぬ証拠を追求して、ついに犯人に仕立てあげるわけである。
小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかえれば、あとは全く同じだと私は考えた。小説の主題というのは、書き出す前も、書いている間も、実は作者にはよくわかっていない。主題は、意図とは別であって、意図ならば、書き出す前にも、作者は得々としゃべることができる。そして意図どおりにならなくても傑作ができることがあり、意図だおれの失敗作になることがある。
主題は違う。主題はまず仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追いつめ、追いつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品というものは完全に完結し、ちゃんとした主題をそなえた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上がるのである。
もちろん刑事訴訟でも、証拠不十分で、元の木阿弥になる訴訟はたくさんあり、小説でも、最後のどんづまりになって、主題がうまいぐあいにポカリと現われてこず、作品として失敗する例は数多い。しかし、そこへゆくまでは、仮定に立って、論理で責めて責めてゆくほかはないのである。
手続法は審理がわき道へそれて時間を食うことを戒めており、いつもまっすぐにレールの上を走るように規制されている。私の考える小説もそうであって、したがって、私の小説には、およそわき道へそれた面白さというものがない。しかし、それは作家の性格であって、一概に小説とはむだ話の面白みだなどというの俗論である。
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のような日本の小説がきらいなあまりに、むしろこういうリゴリスム(厳格主義)を固執するようになった。私には形というものがはっきり見えていなければつまらない。
したがって私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして何をやっているのかわからないようにしておいて、徐々にクレシェンドになって、最後のクライマックスへ向かってすべてを盛り上げる、という定石を踏んでいる。私にとっては、これがすべての芸術の基本型だと思われるので、この形をくずすことはイヤである。
こういう私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合わない。そういう形式では最初の数回が勝負であるのに、私は最初の数回で、切札を見せるのがきらいだからである。読者は、最初の数回にちっとも発展が見られないので、退屈して投出してしまい、いよいよクライマックスにさしかかるころには、もうだれも読んでいる人はいないのである。

三島先生はそうやって小説を書いていたのか。
でも確かに、三島由紀夫の小説って冒頭から面白いってことはないんだよなぁ、と、土下座した頭を張り倒されるようなことも言ってみる。
「一概に小説とはむだ話の面白みだなどというの俗論である」というのは意味不明ですが、元テキスト通りにしてみました。別のテキストがあったら修正するかもしれない。
 

*1:昔は「外の風景を見せながら昇り降りしていたエレベーター」はなかったな、と思った。とはいえ東京タワーのエレベーターがあったか。