ベロ藍と北斎の、そしてガガーリンの青
「プルシャン・ブルー」という顔料があるわけですよ。翻訳すると「プロシアの青」。別名「ベルリン・ブルー」、日本語にすると「ベロ藍」。
だいたいここを見てもらうと、それがわかります。
→美の巨人たち:世界を巡った“危険な色”『プルシャンブルー』
一両で米がおよそ150キロ変えた時代に、一斤、およそ600グラムが三両もした南蛮渡来の青、ヘロリン。それがプルシャン・ブルーだったのです。今までにない鮮やかさ・・・。しかしその値段では、江戸庶民が買う浮世絵には、到底使えませんでした。
この時、葛飾北斎が、ヘロリンころプルシャン・ブルーを使って描いた作品こそ、浮世絵の最高傑作のひとつ、「富嶽三十六景」。中でも最もその青が美しいのが、この「凱風快晴」。
この浮世絵シリーズが、世界の美術史までも大きく変えることになるのです。
1807年に輸入された時の金額は、600グラム、銀200匁以上しました。
それは金に直せば3両以上高価なもの。しかし、「富嶽三十六景」が世に出た頃の輸入台帳では、その値段が、およそ銀20匁になっています。
そう、10分の1に価格が下がったのです。
小林教授「推測もあるが、中国で安いプルシャン・ブルーがまかなえるようになった。そこで安く輸入されるようになった。」
中国も又、ドイツに匹敵する陶磁器の国。
色に対する強いこだわりによって、プルシャン・ブルーの製造に成功したのかもしれません。
ルノワールは、文章で仲間に警告していました、「プルシャン・ブルーは危険な色だ」と
モンパルナスの一角に、100年以上の歴史を持つ画材店があります。
ルノワールの時代以降も、色の種類は増え続け、今やこの店には「青」の絵の具だけでも、30種類以上。今日の主役、プルシャン・ブルーの売れ行きは、どうなのでしょう?
担当者「人気がありません。というより嫌われていますね。難しい色なんです。
他の色と混ぜる時には注意しないと、その色を食ってしまいます。
非常に危険な色なんです。」
ふーん、と感心する。
→浮世絵の青色着色料プルシャンブルーの使用は天保元年に始まった ―原研の公募型研究「黎明研究制度」による成果―
吉備国際大学の下山進教授は礫川浮世絵美術館の松井英男館長と共同で、黎明研究「RI蛍光X線非破壊分析法による浮世絵版画へのプルシャンブルー導入過程の研究」を進めてきた。あらかじめ浮世絵の青色着色料である藍とプルシャンブルーに対して、可視光領域(400nm〜750nm)の分光反射スペクトル*)とアメリシウム(Am)を励起線源として用いたRI蛍光X線分析による蛍光X線スペクトルを得た。さらに、制作年の明らかな役者絵を中心に百数十点の浮世絵における青色着色料部分について同様の測定を行い、それらの比較から、浮世絵の青色着色料には天保元年(1830年)の前半まで藍が用いられ、同年後半から、プルシャンブルーが用いられたことを明らかにした。
1830年に何かがあったみたいですね。北斎の富嶽三十六景は以下のところで見られます。
→北斎 富嶽三十六景 富士山の浮世絵【浮世絵のアダチ版画】
「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」は、葛飾北斎の代表作にして、浮世絵風景画の代表作です。「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」は、余りにも有名です。このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版されました。
なんかもう、とても美しいです。
→浮世絵版画の素材と道具
・ベロ藍
(べろあい)・・・1700年頃、プロシア(当時)の都市ベルリンにおいて初めて合成に成功した人工顔料。鮮やかな明るい藍色の発色が特徴。幕末に日本に輸入されてからは、葛飾北斎をはじめ渓斎英泉など多くの絵師に多用されました。ベロ藍の濃淡だけを用いて作られた「藍摺絵」も当時大変人気がありました。
ただ、「ベロ藍」に関してはこんな起源もあるみたい。
→知って役立つ古伊万里用語集:用語集は〜め、まで
ベロ藍(べろあい)
慶応3年(1867年)パリ万国博覧会に出掛けた東京の薬品問屋が持ち帰った酸化コバルト青で、明治3年に、ドイツ人ワグネルによって実用化された顔料。鮮やかで安価なこのコバルトは、ドイツの首都ベロリン(ベルリン)の名をとってベロ藍と呼ばれた。
焼物業界と浮世絵業界では起源が違うのかな。
で、今日のエントリーはもう一つ話がありまして、ある世代以上にはおなじみの、人類最初の宇宙飛行士であるユーリ・ガガーリンが言ったということになっている「地球は青かった」という言葉について、です。
ここ、すげぇ面白い。その言葉の起源について言及しています。
→今日も星日和 kyomo hoshi biyori: Gagarinの一覧です
こんなのとか。
→今日も星日和 kyomo hoshi biyori: ガガーリン62 再度当時の新聞(日本編)
さて、ガガーリンのカテゴリを拝読してくださっている方々には、ディジャヴュのような繰り返しになりますが、もう一度「地球は青かった」という言葉について簡単にまとめてみます。
私の推測では「地球は青かった」というガガーリンの言葉の原文は「ゼムリャー・ガルバヴァータヤ」。4月12日にガガーリンが宇宙から帰還後、着陸地点でソビエトの新聞イズペスチヤのオストロウーモフ記者とプラウダのデニソフ記者の問いに答えたときの言葉です。
こんなのとか。
→今日も星日和 kyomo hoshi biyori: ガガーリン61 ガガーリンの人柄
私のガガーリンの記事を追ってくださっていて、ご自身もロシアとガガーリン、宇宙開発に興味をもっていらっしゃるお一人から、ガガーリンの肉声が聴けるサイトを教えていただきました。
「モスクワの声(ゴーラス・ラッシー/The voice of Russia)」というラジオ放送局が過去のガガーリンの肉声をこちらのページで聴けるようにしています。
え〜!? なんかインターネットって楽しい。ロシア語ができたら、もっと楽しいだろう。
で、レーリヒという旧ソ連の画家の話なんですが。
ガガーリンの「レーリヒの絵」に関する言及は、こんな感じ。
→今日も星日和 kyomo hoshi biyori: ガガーリン23 いよいよ宇宙への道
江川卓氏は『宇宙への道』(新潮社)の中で、その色のうつりかわりの美しさを「かぎろい」という言葉を使って訳しています。名文です!
ですので、それを引用します。
「やがて地球の大気をとおして太陽の光線がもれてきた。地平線上が明るいオレンジ色に輝きはじめた。空色、青色、すみれ色、黒と移りかわる七色の虹のかぎろい。とても言葉にはつくせない色の諧調!まるでニコライ・レーリヒの絵を見るようだ」
→今日も星日和 kyomo hoshi biyori: ガガーリン27 ニコライ・レーリヒ
ガガーリンはプラウダに連載した『ダローガ・フ・コスモス(宇宙への道)』の中で、地球の夜の面から昼の面へ飛行する時に地平線上に現われる色彩の美しさに感嘆し、ニコライ・レーリヒの絵のようだと語りました。
画家ニコライ・レーリヒ、どんな人なのでしょう。
あとはあちらのサイトを見てください。
ていうか「ニコライ・レーリヒ美術館」、ニューヨークにありました。
→Nicholas Roerich Museum
今日はその中から「Tibet. 1940」という絵を画像にしてみたけど、いかがですか。
これで検索するとよし。
→Николая Рериха - Google 検索
ちょっとホクサイ入ってるかなぁ。日本人最初の宇宙飛行士(秋山豊寛さん)が、地球の青を「ホクサイの青」とか言ってたりすると面白いんですが。
今日の話は、以下の本にインスパイアされました。
→『青の美術史』(小林康夫・平凡社)(アフィリエイトつき)
(追記)
そういえば、「はてな」のデフォルト・カラーも「青(はてなブルー)」なのだった。