「どんな英雄でも最後は鼻につく」って、それは誤訳でしょ

見出しは演出です。
演出の見出しも含めて、今日はちょっとパターン通りにやってみます。
こんなところから。
都知事選 石原、浅野一騎打ち専門家の見方 (ゲンダイネット)

都知事選 石原、浅野一騎打ち専門家の見方 (ゲンダイネット)
 都知事選で注目されている浅野史郎氏(59)が2日、事実上の出馬宣言をした。「調べてみると石原都政はひどい。都庁に週1日しか来ないそうですね」と早くも“舌好調”。で、本番は勝てそうなのか、勝負になるのか。
 政治アナリスト・伊藤惇夫氏の見方はこうだ。
「ここ1、2週間、浅野氏はテレビに出まくっているが、それでも知名度石原都知事(74)に圧倒的に劣る。果たして都民のどれだけが知っているか。それを考えると現状では7対3で石原有利です。しかし、都知事選は無党派層そのものの選挙。ちょっとした風、ムードでガラリと変わる。浅野氏が勝つとしたら、テレビが連日大きく取り上げ、そこで浅野氏が都民も共鳴できる石原批判をできたとき。差が10ポイントくらいに近づけば、いい勝負になるし、その時は共産党も候補を降ろして側面支援することになるでしょう」
 自分の息子を「余人をもって替え難い」と言ってのけた石原都知事は、四男問題や豪華出張スキャンダルを抱え、4年前の勢いはない。今度ばかりは石原タレント軍団や家族総動員の選挙戦もやりにくい。そこで政治評論家の森田実氏は、「石原3選はあり得ない」と断言する。
「最近、私は100人くらいの人と都知事選について話をしたが、だれ一人、石原を支持する人はいなかった。ナポレオンが“どんな英雄でも最後は鼻につく”と言いましたが、それと同じで、石原のゴーマン、都庁私物化、身内オンリー主義が毛嫌いされている。それに加えて、石原を支える自民・公明が無党派に完全にソッポを向かれています。保守王国の宮崎でそのまんま東が勝ち、愛知では盤石といわれた自公の現職知事が1週間で2ポイント差まで追い上げられた。あと1週間、投票日が先だったら逆転していた。世の中の政治を見る目はこの数カ月で大きく変わっています。すでに石原神話など崩壊しているのです」
 石原都知事は大慌てで自民党の推薦を断った。本人が一番「危機」を知っているのだろう。
【2007年3月3日掲載記事】


[ 2007年3月6日10時00分 ]

ナポレオンが「どんな英雄でも最後は鼻につく」と言ったという事実は確認できませんでした。
ていうか、政治評論家の森田実さんはもっぱらそのセリフを「エマーソン」の言葉として引用しています。
2005.6.22 2005年森田実政治日誌[169] 巷にあふれる「小泉? もうたくさんだ」の声――日韓首脳会談は失敗した

「どんな英雄でも最後には鼻につく」(エマソン

2006.8.7(その1) 森田実の言わねばならぬ[262] 長野県知事選挙の結果に思う――田中康夫氏敗北の原因

「どんな英雄でも最後には鼻につく」(エマーソン)。この世の中はおそろしい。

2007.3.7(その1) 森田実の言わねばならぬ[98] 平和・自立・調和の日本をつくるために【75】

「どんな英雄でも最後には鼻につく」(エマーソン、アメリカの思想家、1803-82)

なんか猛烈鼻についてきたので、少し調べてみました。
原文は多分こちら。
名言Blog エマーソン名言

Every hero becomes a bore at last.
いかなる英雄も最後にはうんざりさせられる。

ということで、
Every hero becomes a bore at last - Google 検索
英辞郎」で「bore」を調べてみると、こんな感じ。

うんざりさせる人[物]、退屈{たいくつ}な人[こと]

個人的には「どんな英雄でも最後には退屈な(つまらない)人になる」みたいな感じが近いと思います。「鼻につく」というのはどちらかというと「著しくイヤミな」という感じで、「退屈」とはちょっと違うような。
エマーソン(エマソン)の言葉の前後を見たわけではないので、この言葉がナポレオンを指して言った言葉なのか、またそれがいつの頃のナポレオンを指して言った言葉なのかは不明なんですが、多分セント・ヘレナ島時代だったらboreな人だったかもしれません。多分、石原都知事の引退後とか、現在の小泉元総理はboreな人であろうと想像はつきます。
ただ、現在の政治家を批判するテキストとしてエマーソン(エマソン)の言葉を使うのは、誤用なんじゃないでしょうか、特に「bore」を「鼻につく」と翻訳して語るのは、というのが今日の話です。
まとめると、
1・ナポレオンは「どんな英雄でも最後は鼻につく」と翻訳されるような言葉を言ったという事実は確認できなかった
2・似たような言葉を、Ralph Waldo Emersonという人が言ったのは確認できたが、boreを「鼻につく」と翻訳するのは、正しい翻訳かどうかは確認できなかった
3・「2007年3月3日掲載」の日刊現代の、森田実氏のテキストを引用して何かを批判するのはちょっと待って欲しい
まえの日記に書いた林信吾氏の「○○は××だ、という人がいますが、それは間違いです」的な手法を、「わら人形攻撃法(○○は××だ、と言っている人なんかいないのに、いる、という手法)」だとすると、森田実氏の手法は、わら人形を馬に乗せて攻め込む手法、という感じでしょうか。
インターネット時代であっても、ぼくのようにつまらないことについて調べてみたくなる人間は少数派なのは確かではあります。とはいえ、そういう人間は確実に存在し、その存在は増加しています
今回の例は実にささいなテキストの、それも「解釈の違い」と言ってもいいようなものではありますが、さすがに検索して森田実氏のテキストが3つも4つも上位にある現状は、ちょっと納得がいかないのでした。
現政権とか与党あるいは石原慎太郎を攻撃・批判するのは、マスコミおよび政治評論家としては正しいありかただとぼくは思っています。たとえば逆に、マスコミが「政府・与党の広報誌」みたいになっている世界を想像してみれば、現状の正しさが理解しやすいでしょう。
ただ、なんでもかんでも政府・与党を批判する道具にしてはいけません。調べてみたら事実が確認できないことをもって批判するのは、ぼくには「こんな奴らこんな人たち(2008年3月28日訂正)が主導権取るような世界には住みたくないなぁ」という思いが強くなるだけなのです。
みなさんはいかがでしょうか。