小樽の小林多喜二に関する少し長くて熱い引用テキスト

自衛隊小林多喜二展まで監視(情報収集)するのはひどい」という意見があったので(余談ですが、ぼくもそれは少しひどいと思います。共産党系団体がからんでいるのが中心なせいでしょうか)、あれこれ調べていたらこのような面白いものがありました。
【社会】紀宮さま訪問直前、特高による小林多喜二虐殺の写真外す…小樽 − 2ch NewsZIP[ニュース速報+](元記事は多分北海道新聞・2002年4月22日)

★市立小樽文学館 小林多喜二虐殺の写真外す 1月、紀宮さま訪問時

・今年1月末、紀宮さまが北海道旅行で市立小樽文学館小樽市色内1)を訪問した際、同館が常設展示
 していた小樽ゆかりのプロレタリア作家小林多喜二(1903−33年)の虐殺の模様を伝える遺体写真の
 うち1枚を取り外していたことが、22日分かった。この写真はその後も展示されていない。

 取り外されたのは、一九三三年二月二十日に、東京・築地署で特高警察による三時間の拷問を受けた後、
 死亡した多喜二の遺体写真。
 全身傷だらけで、両足の太ももが内出血で真っ黒にはれ上がり、凄惨(せいさん)な拷問の様子を伝える
 一枚として知られる。

 写真は紀宮さま訪問の直前に取り外され、同館の学芸員がその経緯を、同館を支援している市民グループ
 「小樽文学舎」のホームページ(HP)に公開。
 写真を「むごたらしい」「人間の域をはみ出している」とし、それを紀宮さまや一般来客者向けに展示することに
 「どうしてこんな理不尽な悲しみを、痛みを、突きつけねばならないのか」と疑問に感じたことを挙げている。

 その上で、「誰にいわれたわけでもない。ほのめかしもない」と、宮内庁や政府、小樽市上層部などからの
 圧力はなく、独自の判断で取り外したとしている。
 HPには、「国家権力の不正を指摘するために必要なのにどうして外したのか」などの意見が寄せられ、
 これに対して同学芸員は、取り外しには思想的な理由はないと強調している。

 ということで、
ようこそ小樽文學舎へ
 これですね。
よもやま(2002年2月21日)

2月21日(木)
●いつか書いておかなきゃなー、って思ってたことがあるんだ。「日記」に書くにゃーちょっと重すぎ、だし。アタマんなかも整理されてるわけじゃないんだけども。
でもきょうは2月21日だしな。昨日が命日だ。小林多喜二の。
タイミングとしては今か。で、とりあえず覚え書きみたいに書いておく。支離滅裂に書いておく。
 
先日、紀宮が文学館に寄られた。それはプライベートな旅行ということであって、警備も過度にならず落ち度はありえず、というたいへん難しいことだったみたい。
こうした皇室の方がみえたとき、どーするのかなー、って気になることはないか?
いつの時代だよ、カンケーねえじゃん。か? でも、私は気になる。ずいぶんムカシの話だが、当時の皇太子夫妻、現天皇皇后両陛下が館にいらしたときも、私は気になった。
小林多喜二だ。だってさー、小林多喜二は特別だろう。「特別にしてることがアヤマリなんだよ」って議論はとりあえず置いておく。アヤマリだろうがなかろうが、今の小林多喜二という作家の見られ方、そして見せ方は特別だ。そしてその特別の見せ方をしている「お先棒」がまさにウチだ。
あらためていうまでも、書くまでもないんだけど。「虐殺」だぜ。「怪死」って新聞記事とか、通夜にあつまった人たちの香典控えとか、それに「遺体の写真」だぜ。「(虐殺の証拠としての)デスマスク」だぜ。
 
私は、紀宮がこられると聞いて、一箇所だけ展示を変えた。念のためにいっておくけど、誰にいわれたわけでもない。ほのめかされすらしてねー。でも変えた。この機会に、ということでもあった。
「遺体の写真」だ。裸にされて表・裏。下半身に着用しているものはおそらく後で手を加えられたものだろう。全身傷だらけ、下半身は内出血して真っ黒に膨張、って写真の惨たらしさよりも。私が立ちすくむのは、そうやって死体の写真を撮影した、というその事実の前にだ。憤怒、ということがあろう。背中を裂かれるような悲痛、ということもあろう。中野重治の「雨の降る品川駅」のラスト、その原詩とささやかれる形をも思い浮かべる。
これは、はみ出しているんだ。人間の域を。ニンゲンじゃないものに対して、人間の域で抗することはできぬ、かも知れぬが。それでは終わる。何もかも終わる。
「この機会」にはずした。いつか、また出すかも知らぬが。「出す必然」を覚えたときにだすかも知らぬが。
もういちど念のために断るが、だれにいわれたのでも、ほのめかされたのでもない。でもさー。私は想像する。想像せざるをえない。その方、が、それ、をみたとき、みせられたときの胸中を。宿命、ってことがあるだろう。そこ、に生を受けたということだ。
でもそれは辛いだろう。その辛さは、誰の比でもないだろう。ゆいいつ、並びうるのは小林多喜二の「肉親」だ。ついでみたいにいうのはなんだが。私ゃ「天皇制」というものが今なお存在する、すべきだという「納得できる説明」にはお目にかかったことはないぜ。それとこれとは別だ。聡明で、床しさを自然のあり方として振るまうことのできる、「ふつうに素敵な」女性が、その生まれゆえに、どうしてこんな理不尽な悲しみを、痛みを、突きつけられねばならんのだ、ってことだ。
 
出すべきじゃないのさ、晒すべきじゃーないんだ。じゃなぜ出すか。こんな「凄いもの」をなぜ出せるか。
ウチが「文学館」だからだね。「文学館」だから免罪される。なぜ免罪されるのか。
こっから乱暴にゆってしまうよ。「歴史」にしちまえるからさ、あるいは「メロドラマ」にしちまえるからだ。正視できるはずのないもの、を、ゆってしまうぜ、「安心して、怒り、泣き、感動できるもの」に変容できるからだ。
 
「文学館」だけじゃねー、美術館、そして博物館の「負わされたもの」。「後ろ暗いもの」。見えてきた!
 
オレはねー、東京の京橋を通りかかったとき、妙な博物館を発見した。妙ったらわりーか。いや、すんげー名前の。「警察博物館」。入ったさ。あッ、って思ったんだ。
入館無料だ。この名前は微妙に違和だ。正確にゃ「警視庁博物館」だな、でも「警察の本質」には違いねーのかもしらん。
無礼非礼を省みずいう。ひでー博物館だった。急いでゆうが「警察機構への批判的……」なんてレベルじゃないのよ。博物館としてのカタチをなしてないんだ。
かえって興味もつ向きもあろーから。ここだ。何だか笑うこともできないんだが……。このヴァーチャル、ってのが、うーん、よくできてるっつうか……。いや、褒めてるんじゃなくて、雰囲気を伝えてるのさ。あの、底なしに滅入る。
 
矛盾したことゆうようだが。オレは直覚的に理解したぜ。「警察の本質」を。この博物館の体をなしてない博物館で。体をなしてないからこそ、だとも思うが。
冒頭、いきなり立ちはだかるのが初代警視総監、大警視ってたらしいが、川路利良つう人物だ。その大礼服が飾ってあるんだが、顔も身体も底の知れぬ闇のなかに沈んでいるように見えたぜ。
この時代のこと、やったら詳しい、かつ大好きな人少なくねーみたいだから、そこの展示で囓ったこと臆面もなく並べるのも恥、ってもんだろーが。
要するに西南戦争、だろう。ここから「近代日本警察」が生まれた。この戦争にはせ参じたものの多数が、身命を賭して帝都-日本を守るべき「警察の手の者」だったらしい。西郷を信奉する旧薩摩藩士だ。それを川路率いる警察隊が殲滅した。徹底的に叩いた。
どちらが「正義」か、じゃねえ。「正当」をこのとき力ずくで創っちまったんだ。身内どうしを切り合いさせて。血まみれの抜刀でさ。「賊軍」の文字が目にささるぞ。西郷斬首の錦絵をみたか。こうして「国家の正義」が創られる。血まみれを経て創られる。稚拙、乱暴な展示だからさ。だから足もとよろめくほど、こっちに襲いかかる。
誰がこんな展示やったんだ。それから延々と「武器」「凶器」だ。警察が「鎮圧」に使う、あるいは「犯罪者」が使用した。それから……、思い出しても沈んでゆくぜ。「殉職」だ。延々延々と殉職警察官の遺品。「あさま山荘」だけじゃねえ。こそ泥の襟首つかんで、ふり向きざまに刺された警察官の血まみれの制服とか。で、いきなり殉職警官の御霊を祀る神社の祝詞だ……。気が変になりそうだぜ。むちゃくちゃじゃねーか。
 
あのなー、露骨に出すなよ。少しは演出しろよ。エレガントにジェントルにさー。「警察博物館」だからさ。「警察博物館」だからこそ、「糊塗」しねーと。それは「国家の威信をかけて」糊塗しねーと。
 
あー、また立ち返る。ウチに立ち返る。
じゃああ。訊ねる。小林多喜二の遺骸」と「殉職警官の遺骸」とどこに差異、がある? 20字以内で答えよ、か……。

(太字は引用者=ぼくによるもの)
 この「市立小樽文学館学芸員玉川薫」さん、かなり熱いです。ぼくを熱くしたらこんな感じになるのかも知れず。
 それに対するご意見も掲載されています。面白いので延々と引用するよ。ひきつづき太字は引用者(=ぼく)によるものです。
よもやま(2002年3月)

3月26日(火)

●2月21日の小樽文学館HP─学芸員の日記について
 
A──
 
多喜二の虐殺死体の写真の展示を、紀宮の訪館に際して撤去されたのは、まちがいではないでしょうか。
なぜなら彼の遺体写真は私たちに国家権力の恐怖と不正を指摘し、現在を正しく認識し未来を創造するための、どうしても見なければならない、見ることから逃げてはならない大切な告発だからです。そして、私たちには見る権利があります。
玉川さんの撤去理由は、文学と文学館の概念をどう思考されているのか、よくわかりませんが、いかにも通俗的、情緒的な判断です。
辛いだろうとか、無惨だとか、歴史化されているとか、メロドラマ化しているとか、エレガントでジェントルでありたいとか。
たとえば、アウシュビッツの無惨で恐ろしい展示物をどう思われますか。原爆記念館や韓国の戦争記念館などの展示物は、見る人が辛いだろうから等で展示をやめません。
警察博物館の殉死写真と多喜二の遺体写真はまったく違います。共通点はどちらも犠牲者であることですが、問題の所在は、これらの展示物としての目的と妥当性です。
前者は権力の誇示と美化、正当化。後者は権力の犯罪の告発。妥当性はいうまでもありません。比較されるのなら、前述アウシュビッツ他の展示として頂きたいものです。
ご存じのように、アメリカのスミソニアン航空博物館が原爆被害の品々の展示を拒否し自分たちの犯罪を隠して正当化し、愛国的な神話を保持しました。
原爆が人類への大犯罪であることを、アメリカの人々が展示の品々から少しでも認識してほしいのと同様に、多喜二の死もまた、犯罪の証拠であり、その不正に無知であってはならないはずです。
私たち見る者は、恐怖であれ、無惨であれ、そのものと向き合って、なんらかの複雑なコミュニケーションをしつつ、思考の新たな経験をするものではないでしょうか。
多喜二を殺したのは誰か。この質問の答えを写真から引き出すこと。そして、彼は何をしたのか、何のために、誰のために、どんな思想で、どんな挑戦を試みたのか。それは正しかったか。彼の作品はどうなのか、何を書いたのか。文学にはどんな力があるのか。現在にはこんな恐ろしいことがないか。人の命の尊厳はあるか。私は僕は自由か。国家とは何か。あの戦争はなんだったのか。正義とは何か。世界の人々はどうか。未来に理想や希望が持てるか。自分に何ができるか等々。
この人間の潜在的な思考能力を視覚から動かし、驚き、悲しみ、痛み、想像し、深く考察し理解し、批判し、生きることの意味や、現実社会を認識したり、挫折からの離脱を獲得していくものとして遺体写真の展示は大切なのです。
これらを遮断するのなら、文学館の存在の意味はありません。館長さん、玉川さんの思想、理念はどこにあるのでしょうか。このような思考体験はされなかったのでしょうか。
 
天皇家若い女も当然これらの思考を経験するでしょう。
玉川さんは彼女が可哀相、酷だろうという、やさしい前提に立って、写真を外してしまわれたようですが、聡明であると思われるなら、いっそう、小樽文学館のすべての展示を堂々と毅然として見てもらわなければ、彼女への侮辱になります。
天皇が殺した、つまり、一人の文学者を殺した共犯者の側として、彼女もまた、毅然として受容しなければならないし、また、そのために小樽文学館に来られたのかも知れないのです。きちんと正視すること、痛みを共有すること、彼女にはそうする義務があるのです。その折角の機会を剥奪するのは、彼の死を無為にすることにはなりませんか。
また、なぜ天皇家の女性、と区別されるのでしょうか。あるいは差別です。誰彼の区別なく、公正にそのままを提示すべきではありませんか。
天皇制についてその是非に納得できる思想がないとのことですが、それは個人が文学によって、あるいは、様々な文献、情報など、または生き方や知識や感性によって判断し、自己の思想として獲得していく努力の要るものです。
思想は自己の総力で思考すべきもので、多様な思想を選択し、学んでいくものです。そして、今回の玉川さんの処置は明らかに天皇擁護思想であり、納得できないとしながら、権力への偏向であることは明白なのです。加害の側に立って、新たな罪を犯すことになりませんか。
辛いだろうという勝手な解釈、無意識を装う、あるいは情緒に訴えるイデオロギーではないかと疑います。わからなければ、そのままを提示し、見る人の判断にまかせてほしいと思います。右傾化とまではいいません。しかし、現実の流れに添っていることを疑います。
隠す、曖昧化する、不透明にする、情緒的にすることで、歴史を歪曲し正当化することに手を貸す文学館でいいのでしょうか。これは文学館の堕落です。
文学館が、一人の学芸員の恣意的な思想か思惑かで、展示物を変える資格があるのでしょうか。館長始め、館員の意見、文学舎の人たちとの徹底した議論も必要なはずです。
何を展示し、何を展示しないかの選択は、誰に委ねられているのでしょうか。そして、その根本的思想、理念の基盤はどこにあるのでしょうか。
「エレガント」「ジェントル」はどこにあるのですか。または「メロドラマ」ですか。穿った見方をすれば、公権を恐れおもねての保身にさえみえるのです。
 
無残さから逃げて文学館の展示物は、美しいものに限定したいのでしょうか。
残酷だから晒す、それが文学、芸術です。反社会的、反常識で危険なものです。だからこそ、多喜二の虐殺、言論の弾圧があるのです。
美も醜も、いわばごったな瓦礫が歴史や現実だとすれば、私たちはその瓦礫の中をかきわけていく道を発見しなければならないはずです。廃墟に立つという現実認識を踏まえてたくさんの無残な、理不尽な死体の傍らを生きていくという意識です。
本当に美しいものとは何か、それを表面的に求めるのではなくて、無残さの中から差す一条の光を見る力が要るはずです。文学も他の芸術も、だからこそ、無残との闘いなのです。人間の尊厳のために。平和や自由のために。
前述のように、私たちはすべてを見ることです。無残を避けていては、本当のものを見つけることはできません。もっとも無残なのは、時の流れの中で、忘れられていく理不尽な死はないでしょうか。そして、繰り返される理不尽な死の連続。
誰に対し、何に対して免罪なのですか。罪は免れることはなく、それに向き合い、受容し、繰り返しを回避していく知恵や思想を、そこから生み出していくしかないのではないでしょうか。
過去、または記憶のそのままによって、私たちは現在を認識し、未来をも透視するものではないでしょうか。過去を隠蔽することは、現実の認識の欠如に繋がるはずです。
様々な戦後責任を放置する日本国家、自分の加害を隠そうとする精神の退廃は、新しい世界観もヴィジョンも生み出せず、いっそう国家権力を強固にし、ナショナリズムの煽動によって、奴隷的な従属の民を育て、ついには、自ら破局を招くに至ると考えるのは、あながち悲観論ともいえないでしょう。
玉川さんの処置も姿勢も、極めて日本的な情緒、通念、常識、または臭いものにフタ式の姑息を感じます。そこに文学と人間の歴史を委ねることはできません。
彼の死を隠蔽することは、小樽文学館の死です。しかも、その一方で多喜二を読もうとするイベントは滑稽です。文学館としての見識を疑います。そして、多喜二の手紙を取り戻すために、志を下さった人々の意思を冒涜するものです。
小樽文学館は北国の田舎街の片隅で、ひっそりと静かに、国家のまちがいを訴える。そのための信頼を大切にして下さい。そこにささやかな希望があるのです。
 
ついでにといえば無礼ですが、あの小樽運河保存の運動の集大成の労作の本を百円で売ったことは、人間へ、小樽の人々へ、豊かな心の在所として後代に引き継ぐために努力した人々の精神を踏みにじるものです。
どんな理屈を並べても、あの文学館の処置は、人間の尊重へ賭けたひとつの高邁な精神を、いとも簡単に放棄して、希望の光を消し去ったものといえるでしょう。小樽運河はようやくの残存によって観光地の大きなシンボルになって経済や精神を潤し活性化していることを思えば、負け戦を覚悟して身銭を切って奮闘した人々に畏怖の心があっていいのではありませんか。価値のあるものは、価値だけの尊重が要るはずです。
文学館自体の存続もまた価値あるものとしての尊重を受けなければならないし、自らを貶めてしまうことに繋がらないでしょうか。
そういう人間的判断や峻別こそ、私たちに学ばせ、知らしめるのも文学館の務めではありませんか。文学はもちろん学識も感性も優れた人たちであることを信じているのです。たとえ、埃をかぶって場所を占めていても、百年後、二百年後の人々を想定できなかったものでしょうか。行政の愚を、小樽の人々の必死な闘争の過程を、未来の人たちに知らせて下さい。闘った人々の足跡は、多喜二の遺体写真と同じく、大切な財産であり宝です。
闘いは終わりなく続いているのです。続けなければならないはずです。
そして、あえて付け加えますが、小笠原前館長が生存されていたら、百円は可能でしたか。多分出来なかったでしょう。現館長が変わられたら、また同じことをされますか。
 
最近の小樽文学館はずいぶんイベント化、もっといえば遊園地化しています。しかし優れたイベントもありました。ご努力に敬意を持っています。
客が来ない、古典的展示でいいのか、というジレンマもあるでしょう。館の理念とか思想とか述べましたが、それらもまた新たな現実認識の中で変容していくものであり、基本的に再考案されなければならないもののように思います。
文学館は文学の力の歴史、作家の力の歴史の展示です。それに対峙して、自分と自分の場所や可能性を考えるところだと認識しています。そこにある北海道の有名無名の人々の不屈の精神への尊敬を育むような、軽薄な時代の潮流を批判し、真に人間として大切なものを会得できるための知性を見せて頂きたいと願っています。事なかれ的、懐古的エレガントは不要です。廃館になっても誰も反対しないでしょう。
尚、玉川さんが遺体写真を撤去されたことを沈黙せずに、告白されたことを高く評価します。オープンにされたことを信頼します。
僭越なことを述べましたが、文学館は大事な財産、宝だからです。

2002.3.24-5

というお手紙をいただきました。差し出された方は匿名ではありません。ただ、ご住所も電話番号もメールアドレスも書かれてはいないので、ご返事の出しようはありませんでした。また、宛名は館長と私との連名になっていますので、とうぜん館長にも読ませるべきですが、あいにく館長は現在はロサンゼルス。インターネットを日本語で読める環境はもう整えているようなので、そのこともあって、ここに全文ご紹介します。
このこと自体、Aさんの本意ではないのかも知れませんが、恐らく最近の文学館を見ていてくださる方のなかのある意見を代表される文章かと思いましたので、あえて全文を掲載させていただきました。
もっとも私は、ここで一つ一つのことに反論はしません。これまでの文学館の行動をほんとうに通してご覧くださっているのなら、随所にみられる「誤解」はなさらなかったでしょうし、ここ数年の文学館、そしてこれからの文学館の行動自体が、このお手紙に対するご返事となるはずだからです。
ただし、一点だけ。私は小笠原館長が元気であったとして、(だいたい館長没後の小笠原展は追悼展ではなく、あの展覧会の時に行った古書全品百円均一、こそ小笠原館長の始めた古書市の意味をもういちど想起してもらうための方法であったのですが)まったく同じやり方をとったでしょうし、小笠原館長が歓声を上げて共感してくれたことを寸分疑いません。「百円」は、確かに一種奇をてらったものでした。驚きの効果も計算しておりました。これは「小笠原克責任編集・北方文芸展」の最後の二日間にやったものですが、その後まもなく古書販売は「ドネーション方式」に落ちつきました。
私たちが何を考えたのか、もう本当にくり返しになるのですが、価値は誰が定めるのか、ということです。ちなみに、「百円均一」の二日間『小樽運河保存の運動』は一冊も売れませんでした。手にされた方もさすがにとまどわれたのでしょう。そしてドネーションになってから、私の知る範囲では三人ほどの方がこの本を買って行かれました。皆一様に、これも自分で値段を付けるのか、と私たちに問われました。そのとおり、と答えても、しばし考え込んでおられ、そしてある人は2000円、ある人は5000円を「ドネーション・ボール」に投じていかれました。
念を押します。それ以前、この本を16000円の値段をつけて、「飾っていた」あいだ、本を購われた方は一人もいませんでした。
精神を受け継ぐ、とはいったい何でしょう。一段高いところに飾り、毎日ほこりを払い、その著者の写真をあわせて展示して、「百年後の読者」を待つことでしょうか。私は信じております。この本を2000円で買った方は、ほんとうにこの本を欲しくて、読みたくて持って行かれたということを。あえて言います。この本が出たころ、定価の16000円で購われた方のすべてが、ほんとうに読みたくて購われたのか。
理屈を、とまたいわれそうです。この本の値は16000円。安すぎるでしょう。運河保存運動は16000円の値。安すぎるでしょう。もういちど書きます。小笠原克さんは、そんなケチな人間では、ぜったいにありませんでした。
 
もう一つ、「写真」は私の判断で展示し、私の判断で外しました。紀宮がいらしたことはきっかけに過ぎません。小笠原さんからも亀井さんからも、展示について意見はもらっても「指示」を受けたことはいちどもありません。常設は固定はしません。また出すこともあります。そのときも、私の判断で行います。

 横道にそれますが、この「16000円」が定価の本について、小林多喜二氏より興味を持ったので、「市立小樽文学館学芸員玉川薫」さんがそれについて言及している部分を、日記から引用します。2001年5月。
よもやま

5月10日(木)
●以下、4月30日に書いていた「日記」なんですが、ちょっと思うところあってアップするの止めてました。フツーは何にも考えないで書いちゃうんだけどね。この日は、やや重い気持ちにもなっておりましたので。
でも、今朝の朝日新聞に「古本はドネーション(とは書いていなかったけど)」の記事が出てしまったし、あれでは大幅に言葉足りないですからね。補う意味でも改めてアップします。
またまた突然ですが、古本屋を廃業しました。そのわけは、お知らせのページでね。実質は何にもかわっていないので、どうぞご安心を。古本リピーターさんもいらっしゃることだし。
先日、峯山富美さんからお電話がありまして、そちらで『小樽運河保存の運動─歴史篇・資料篇』を100円でお売りになったというのは本当ですか?ということ。ええ、ほんとうです。このページご覧になってくださっている方は、先刻ご承知の、あの「100円ショップ」ですね。あれは、「例外なし」だったから。
お電話で、峯山さんは続けられました。「私は、その話を聞いて強いショックを受けました。あれは小笠原克先生が生命を削るようになさった運動を、精魂込めて総括なさったお仕事です。それはあれだけの質とボリュームの大冊となって15000円の値をつけて頒布されました。その小笠原先生のお仕事を、文学館では100円の値と評価されたのでしょうか」。
私は、あの「運河保存運動」という市民運動進行していくに従って複雑怪奇な様相をも呈したあの運動を、その複雑怪奇をまるごと引きうけ、ときには四方八方からの非難にさらされもしながら先頭に立ち続けた主婦、峯山富美さんをたいへん尊敬しております。この運動のことでいえば、それは小笠原克さんさえ、先頭で全身を晒し続けた峯山さんには遠く及ぶものではなかったと思います。
だから、峯山さんが『小樽運河保存の運動』が100円で売られた、という知らせに心を痛められたことは、じゅうぶんに理解できる。しかも、他ならぬこの小樽文学館で。けれども、少なくともこのページをご覧いただいている皆さんには解っていただけると思います。他ならぬこの小樽文学館で、だからこそ、それを(あの日は)100円で売ったのだということを。
それは『小笠原克責任編集・「北方文芸」』展の最終日であり、小笠原克氏が始めた「古書市」の意味、そのエッセンスを、やや過激なほど明確に示すための(最終二日限りの)100円市であったのだということを。
展覧会にいらっしゃれなかった峯山さんが誤解されるのは、やむをえないことだったかも知れません。けれども、峯山さんなら、又聞きでも解っていただきたかった。あの本に「15000円」の値札をつけたままホコリを払って「別置する」ことこそが、小笠原克さんを、その人がなさってきたことどもを封じ込め、その生命を抜きさってしまうことを。
すべての古書が100円で売られたあの日、『運河保存の運動』を購った人は、私の知る限りお一人しかいませんでした。その方はずいぶん戸惑われていたようです。それは当然です。「100円」という値の方が異常なのですから。けれども、戸惑われ、考え込まれたからこそ、その方は真面目にそれを購っていかれたことを私は確信します。一種のノルマとして、あるいは「つきあい」で、無雑作に支払われる15000円もあり、戸惑い悩み、思い切って払われる100円もあるのです。峯山さんなら、少なくともあの会場にいらしたのなら、解ってくださったはずです。
けれども不思議に、そして不快に思わずにいられないのは、「『小樽運河保存の運動』が、小樽文学館で100円で売られている」と峯山さんに「注進」なさった方のこと。その方は、会場に足を運ばれ、いったい何をご覧になったのでしょうか。一切の関連は目にも入らず、ただ「100円」の値札だけをご覧になった?私は失望せずにいられません。
「古本の値はお客様が決める」。こうすることに踏み切ったのは、こんなこともあったからです。これはお客様にある種の負担を強いることにもなると思います。もし100円、5000円と価格がつけられていたら、そのほうが気楽に手に取れるのはまちがいありません。不当に高い、あるいは不当に安い値が付けられていたとしても、それは「文学館がバカ」だから。お客様は苦笑しながら、あるいは憤慨しながら購ったり、そのまま帰ったりできる。こんどは、そうはいかない。「ドネーションボックス」にお金を入れた途端に、いや入れる寸前に、お客様の方が本に選ばれることにもなるからです。ほんとうのことをいえば、これはあまり楽しくありません。「買う」楽しみを大いに損なうことでもあろうと思います。しかし、私たちはこれをしばらく続けてみます。これがどのように成熟していくか、どのようなやり方に発展していくか。
とはいっても「破格値」「デタラメ値」の古書バザーはときどきやりますよ。フンガイしながら、バカにしながら。これは一種のカーニバル。小笠原さんは、こっちのほうが好きだろうな。

 この本の定価は16000円ではなく15000円で、買った(100円で買った)人は一人はいたみたいです。
 一応話を「小林多喜二」の件に戻して、日記の引用を続けます。
よもやま(2002年3月)

3月27日(水)
●昨日のお手紙、もうこれ以上相手にする必要もなかろうとは思いましたが、ちょっと見逃せぬこともありましたので、二、三。この方のようなシンプルなアタマの方には、私の文章が解りにくかったのだろう、とは思いますが(別に反省はしないけどね)。それにしても、誤読というより、こりゃ曲読か。誤解というより無理解か。

辛いだろうとか、無惨だとか、歴史化されているとか、メロドラマ化しているとか、エレガントでジェントルでありたいとか。

エレガントとかジェントルとか、私は皮肉のつもりだったんだけどね。

たとえば、アウシュビッツの無惨で恐ろしい展示物をどう思われますか。原爆記念館や韓国の戦争記念館などの展示物は、見る人が辛いだろうから等で展示をやめません。
ご存じのように、アメリカのスミソニアン航空博物館が原爆被害の品々の展示を拒否し自分たちの犯罪を隠して正当化し、愛国的な神話を保持しました。

スミソニアンは政治的で、アウシュビッツの記念館、原爆記念館、韓国の戦争記念館が政治的ではないと、この方はほんとうに信じ込んでおいでなのだろうか。
ちょっと恐ろしいな。

彼の作品はどうなのか、何を書いたのか。文学にはどんな力があるのか。現在にはこんな恐ろしいことがないか。人の命の尊厳はあるか。私は僕は自由か。国家とは何か。あの戦争はなんだったのか。正義とは何か。世界の人々はどうか。未来に理想や希望が持てるか。自分に何ができるか等々。

ついに出てきた。いちばん警戒すべきお言葉、「正義とは何か」。ブッシュ大統領の演説みたいですね。

このような思考体験はされなかったのでしょうか。

というような半疑問文は、まずご自分に向けてみられることでしょう。

天皇制についてその是非に納得できる思想がないとのことですが、それは個人が文学によって、あるいは、様々な文献、情報など、または生き方や知識や感性によって判断し、自己の思想として獲得していく努力の要るものです。

とは私は申しておりません。はっきり書いておきましょう。私は天皇制に反対しております。まずそれは天皇個人の人間的尊厳を貶めるものだと思われるからです。文学者でもこのことにまで筆が及んでいるのは、中野重治以外にはなさそうですが。

文学館が、一人の学芸員の恣意的な思想か思惑かで、展示物を変える資格があるのでしょうか。館長始め、館員の意見、文学舎の人たちとの徹底した議論も必要なはずです。
何を展示し、何を展示しないかの選択は、誰に委ねられているのでしょうか。

これもはっきり申しあげましょう。私です。以前Aさんが感動された?展示も私がしたものであるし、今回憤激なさっている展示も私の仕業です。問題だ、とおっしゃるならしかるべきところに告発なさってください。

美も醜も、いわばごったな瓦礫が歴史や現実だとすれば、私たちはその瓦礫の中をかきわけていく道を発見しなければならないはずです。廃墟に立つという現実認識を踏まえてたくさんの無残な、理不尽な死体の傍らを生きていくという意識です。

唯一共感できるところです。ごったな瓦礫が歴史や現実。そのとおりだと思います。しかし、それを博物館や文学館でつたえようとするならエレガントやジェントルにはなりえません。私は、むしろ笑いをともなった遊園地の外見を呈するものかと思います。ここでもハッキリ申しあげましょう。文学館はその方向を指向しております。

しかも、その一方で多喜二を読もうとするイベントは滑稽です。

これは看過できません。全10回に及んだ亀井館長の「小林多喜二を読みなおす」を聴講された150人に及ぶ人たちが、この文章を目に止めたら、これは激怒する前に、いっせいに噴飯なさるでしょう。Aさんにいちどお勧めします。(その勇気を持ち合わせて居られるとしたら、ですが)亀井秀雄氏の前で、小林多喜二の作品をご自分はどのように読まれているのか発表なさってはいかがですか。漠然としている、というなら、亀井秀雄氏がこのたび使用したテクスト「ある役割」「ロクの恋物語」「田口の『姉との記憶』」「山本巡査」に絞ってもよろしいでしょう。

小樽文学館は北国の田舎街の片隅で、ひっそりと静かに、国家のまちがいを訴える。そのための信頼を大切にして下さい。そこにささやかな希望があるのです。

ははは……。文化果つる北国の田舎街の片隅からのご意見、たしかに承りました。

最近の小樽文学館はずいぶんイベント化、もっといえば遊園地化しています。

繰り返します。そのようにしていきますよ。そのなかでドキリとなさる感性を持ち合わせておられれば、楽しかった、では済まないでしょうが。
では。

 煽り煽られ。とはいえ、ぼく自身は反論のできない形でのやりとりに関しては必ずしも肯定的ではありません。
 同じところからの引用を続けます。

3月28日(木)
●相手にしない、っていいながら、我ながら少ししつこいか。でもこの機会に。

穿った見方をすれば、公権を恐れおもねての保身にさえみえるのです。

保身を図って何が悪い、って励ましのメールもいただきましたけどね。いちおうカッコつけさせてね。
文学館みたいなとこでの展示、ってそこに直接公権力の介入なんてそーあることじゃない。20何年かの体験でも、露骨なソレっていちどもなかった。ただし、間接的に、感じ取ることはあった。皮膚感覚レベルなら、もっとあった。すげーわかりやすくランクつけてみようか。
 
ダントツ1位。
昭和歌謡全集北海道編」のときの根本敬氏のインスタレーション。世田谷の美術館では、やはり氏のインスタレーションを含む展覧会(まことに刺激的な素晴らしい展覧会だった)を担当したキュレーターが飛ばされたらしい。もっともこういう「風評」は、やっぱり眉ツバでね。ご本人に確かめたら「そんなこた、ないですよ」って笑っておられました。「こっちから美術館に愛想つかしたんです」ってニュアンスでしたけどね。
2位。
やはり「昭和歌謡全集北海道編」の永山則夫の遺品。
3位。
石原慎太郎関係。

そして最下位に近い「安全パイ」。小林多喜二関係すべて。小林多喜二に比べれば、伊藤整ははるかに危険度高いでしょう。「チャタレイ」をまともにやればだし、やるつもりだけどね。
皇室来訪の手前、なんて憶測は噴飯でね。はるか昔、皇太子夫妻(現天皇夫妻)がいらしたとき、確認ずみだよ。いっさい展示内容にチェックなんか入らねー。警備関係はびっくりするぐらいチェック入るけどね。
で、多喜二が何で安全か。
お墨付きもらってるからだよ。具体的にいおうか。「小林多喜二関係資料」がいちばん豊富に纏まって「保存」されているのがどこかご存じか。ウチでも日本近代文学館でもない。
見当つくだろーな。代々木方面。もっとも私も実体は知らねーよ。相当粘ったけど、ダメだった。念を押すぞ。何が、どういう場所に、どのような状態で保存されているのか、一切明らかにされていない。これは今現在に至るまでだ。「普通の感覚で」異常だろう。どう考えても。
でさー。「そこ」から許可されて公開されているものが、小林多喜二関係で展示できるものの全てだ、って状況はまだほとんど変わってねーんだよ。それは、「そこ」直系の出版社から出てる「アルバム」に全部収録されている。ウチで展示したものだって、もちろん例の写真を含めて、そこから一歩も出ていない。出たいよ。出してみたいぞ。それこそ危険だろうな。冗談じゃねーよ。
あのデスマスクの石膏原型。ウチに収蔵された、ってことが全国的に知れたとき、速攻その某出版社からご遺族に電話があったらしい。電話の内容はまだ伏せとくよ。危険ってのはそういうタグイのことをさす。
 
つくづく思うんだ。「公権力」そのものが怖いんじゃねー。怖いのはさ。「世論」(〈良識〉っても称するな)を怖れる公権力、だ。「公権力」自体は意志なんか持たねーんだよ。
 
展示でできるってほんとに限界あるだろー。博物館の成り立ち自体に含まれる政治的なものが、その限界を作るだろー。それを崩していくのは、実は亀井さんみたいな一見地味な、小林多喜二を初期から読みなおす、さ。聴きに来もしねーで、その行為を愚弄するAさんは、サイテーだ。
ただし、私は無理かも知らねーが、展示でやってみたいよ。ラジカルな切り崩しをね。多喜二生誕100年。ちょっと身が引き締まるぜ。

 この「根本敬氏のインスタレーション」にとても興味を持ったんだけど、うまくそれに関するテキストが見つかりませんでした。これも余計なことか。
 すごい膨大なテキストになってしまいましたが、最後に小樽市議会の議事録を引用しておしまいにします。
平成14 年 小樽市議会会議録(2)

古沢議員(6月10日1番目)
(中略)
3 多喜二の虐殺写真
(1)小樽文学館小林多喜二
(2)常設展示から写真を外した理由
(3)学芸員の「権限」と市教育委員会の責任
(4)原状回復が問題解決の第一歩

 小樽市議会の「古沢議員」とは、「古沢勝則」議員(共産党)のことだと思います。

次は、多喜二の写真の問題であります。
「さて、新しい年が来た。俺たちの時代が来た。我ら何をなすべきかではなしに、いかになすべきかの時代だ」、1928年1月1日、日記にはこのように記されています。
小林多喜二24歳。多喜二自身が言うように、「新しい世の中」を求めて駆け抜こうとする心意気が伝わってきます。小樽文学館には、このプロレタリア作家・小林多喜二特高に虐殺されたときの写真が、デスマスクやその他の遺品とともに常設展示されていました。
ところが、今年1月31日、皇族・紀宮が文学館を訪問、見学する直前に、この写真が取り外され、現在もそのままにされているという事態が生じています。見過ごせない問題であります。
そこで、伺います。
小樽文学館開設の経緯の中で、作家・小林多喜二の存在がどのようにかかわっていたのか。それは、同時に、現在の文学館と多喜二、市民との関係でもある思いますが、お聞かせください。
常設展示から、今回、問題になっている写真を外した理由は一体何であったのか。そして、文学館における学芸員の役割、権限とは何か。さらには、これを文学館内の出来事にとどめることはできません。市教育委員会の責任は何か、はっきりとお答えください。
多喜二は、1933年1月、絶筆となった「地区の人々」を書き終えました。伝統を持ちながらも、沈滞を続けていた小樽の労働者たちが、戦時下の高揚する戦いの中、再び立ち上がっていく姿がそこには描かれています。
その1か月後、残虐な拷問で虐殺されました。29歳であります。彼ほど、生前もまた、その死後も、権力による迫害と抹殺を加えられた作家は、およそ日本の文学史上では類を見ません。今日ではあたり前とされている国民主権、労働者の諸権利、民主主義、平和、戦争反対、こうした新しい世の中を確信し、あの暗黒時代にあっても、多喜二が命がけで求め続けたがゆえにであります。
我が党は、既に4月26日、市教育委員会に取り外された写真の原状回復を申し入れています。この問題の解決に当たっての第一歩になると考えたからでありますが、いかがでしょうか。

 それに対する回答はこちら。

○教育長(石田昌敏) 古沢議員のご質問にお答えいたします。
まず、文学館開設の経緯の中で、作家・小林多喜二との関連についてですが、小樽に文学館をつくろうという動きは昭和51年ころから始まりました。設立期成会総会は昭和52年3月21日に開催され、会則並びに役員が決定されました。
会則の第2条に、「本会は、小樽市にゆかりのある文学関係資料及び諸物件を収集、保存することを通じ、小樽市の文化的土壌の確立と、ひいては産業、経済の繁栄のしるべとなることを願い、小樽文学館を設立する」とあります。
その後、文学館開設準備委員会が開かれ、おおむね小説、戯曲、評論部門と短詩型部門に分かれ、短詩型部門は、さらに俳句、口語短歌、現代詩というジャンル別に区分する内容となりました。また、小説、戯曲、評論部門に展示される資料の主な作家は、伊藤整、岡田三郎、小林多喜二、早川三代治などです。開館後、小林多喜二は2回の大規模な特別展を行っていますが、こうした企画展などを通して徐々に資料が充実し、所蔵資料によって展示構成の工夫が可能になったと言えます。
文学館では、小林多喜二は、伊藤整石川啄木、岡田三郎、並木凡平らとともに、常設展示している作家の中でも重要な作家の一人と認識しております。
次に、常設展示から写真を外した理由についてですが、学芸員は、今年2月8日から企画展「私の好きな冬の小樽展」を行うために常設展示の位置を移動し、その際、ご指摘の写真を取り外したとのことです。小林多喜二に関しては、昨年、今年と重要な資料の寄贈、寄託が続きました。それは、関係者から寄贈を受けた青年時代の絵画3点、そして、遺族から寄託された岡本唐貴の油彩画による多喜二のデスマスクなどです。学芸員によると、限られた展示スペースでこれらを紹介するために、構成のバランスを見直したとのことで、従来から展示しているデスマスクや新収蔵の岡本唐貴の作品などで十分に多喜二の死の衝撃、緊迫を伝えていると思われ、このたびの企画展に際し、小林多喜二の遺体の写真を撤去したということでした。
次に、文学館における学芸員の業務については、資料収集、調査研究、展示構成をはじめ、特別展の企画、立案など広範囲にわたっております。
また、これらに関して市教委の責任でありますが、学芸員が写真を取り外した理由については、以前から展示替えの意向を持っており、企画展を契機に取り外したとのことでありますけれども、今回の事例については、学芸員は上司に相談することが必要であったと思われ、このことについて他の学芸員が所属する各館について説明し、再発防止に努めたところです。
最後に、取り外された写真の原状回復についてですが、2月に予定している、生誕百年記念小林多喜二展に向けて、展示の内容と構成を検討していきたいと思います。

 現状はどうなっているのか、少し興味を持ちました。