ハッピーエンド・アンハッピーエンドに対してデスエンドというものを考えた。それと「発見者」の話

 まぁ、バッドエンドという用語はあるわけですが。
例その1:桃太郎
 桃太郎の入っている桃が川から流れて来たのですが、おばあさんは洗濯に来ていなかったため、そのまま海まで流れて、桃太郎は死んでしまいました。
例その2:かぐや姫
 かぐや姫の入っている竹に、おじいさんは気がつかなかったので、かぐや姫はそのまま竹の中で死んでしまいました。
例その3:浦島太郎
 子供たちがいじめている亀を浦島太郎は助けなかったので、亀はそのまま死んでしまいました。
 西洋版だとこんな感じ。
例その1:白雪姫
 お母さんが死ななかったので、継母が来ないまま白雪姫は王子とごく普通の結婚をして一生を終えました。
例その2:シンデレラ
 舞踏会はあったのですが、魔法使いが来ないのでシンデレラはそのまま奴隷のような生活で一生を終えました。
例その3:人魚姫
 船が難破しなかったので、人魚姫は人間を知ることのないまま一生を終えました。
 
 こうして考えると、世の中のたいていの人間はデスエンドの物語の世界に生きているわけです。自動車を運転して、前の車に追突したら、前の車の後のトランクから美女の刺殺死体が…ということはまずあまりない。
 桃太郎の話で不思議なのは、「その、桃太郎が入っていた桃は唯一の(最後の)1個なのか」ということです。
 川が流れている上流には、桃太郎の入っている桃が無数にあり、毎日何十個も川から海のほうに流れているとしたら。
 流れている桃に気づかないおばあさんが数十人もいるとしたら(川で洗濯をしているおばあさんが、一つの川に一人しかいない、ということもないでしょう)。
 要するに、おばあさん・おじいさん・浦島太郎といった存在は、物語を物語として作るための必要度は、主人公以上に強いわけです(浦島太郎の場合は主人公か。それでは「浜辺にいる亀に気づかない子供たち」という存在にしてみましょうか)。
椿三十郎』も、神社のほこらにたまたま椿三十郎がいたからできる話で、そうでなかったら集まった「同志」が「謀反をたくらんだ者」として大目付の手先に殺されて終わってしまう話ですね。
 物語は、物語であるが故に歪んだ(歪ませた)事実があるようです。
 
 で、まぁ思ったんですが、こういうのってクリエイターとプロデューサー(発見者)の関係に似てるな、と。
 ビートルズ石原裕次郎鳥山明、あるいは無数のミュージシャン・作家・漫画家が、こう、山から川を伝って海に流れているわけです。で、それを洗濯ついでのおばあさん、じゃなくて、「桃太郎の入っている桃」を真剣に探している人間が、毎日見ている、と。
 桃の中から出てくる赤ちゃんが、全部桃太郎じゃなくて、中には普通の子供のほうが多かったりして。
 その中で、ちょっと鬼退治できそうな子には、キビダンゴを作ってやる。じゃないとデビューできなかったり、アシスタントが雇えなかったりするわけで。
 この人にこのようなものを書かせた(描かせた)、という話は、クリエイターの裏話としては割と一般的なんですが、その人にそのようなものを書かせなかった(描かせなかった)、あるいは、桃太郎の入っている桃に誰も気がつかなかった、というようなことは、もっとたくさんあるんじゃないかと思います。